8月28日、仙台駅周辺


8月28日、快晴。

せっかくの天気だというのに今日1日を移動だけで過ごさなければならないのは勿体ない。あと少しこの地に居たかったという気持ちもあれば、やっと離れられる妙な解放感もあり、つくづく自分の勝手な感情で色んなものをぐしゃぐしゃにしてしまったなと感じている。
2年間を共にした一人の恋人と、2カ月足らずしか時間を共有していない女性と、どちらを取るべきかは28という年齢を考えればすぐに分かる。常識だ。他の誰かが同じ悩みを持っていればそのように諭す自信がある。

身体も頭も荷物も重いし太陽はさんさんと降り注ぎ、コンクリートジャングルの都会では人の多さも地元とは大違い。劣悪だ。


「オー、おかえり」
「暇かよ。ただいま」


やっと到着した仙台駅には花巻貴大という人物が居て、俺が過ごした2カ月の日々を一切知らないこいつは前のとおりに出迎えてくれた。それに少し安堵してしまったのが本音。


「せっかく迎えに来たのにそれですか?大変だねえ公休日に移動させられるなんて」
「公休日だから移動日に設定されたんだよ」
「ブラックか」
「ま、別の日に半休貰えるけど」


そんならいいじゃん、と笑う花巻の横をキャリーケースを引きながら歩く。向かう先は偶然にも宮城に帰ってきている及川と、岩泉が待つ居酒屋だ。

そう、もう夕方になっている。俺が乗った新幹線は朝一番の出発なんかではない。それなのに俺は湘南のアパートの管理人に「始発に変更になった」と嘘をつき、前日は新横浜のビジネスホテルで夜を明かした。
何故そんな面倒くさい事を自費で行ったのかと言えば理由はひとつ、もしかしたらあの子が俺に会いに来てしまうかも知れないという懸念があったから。出発直前に顔を見てしまえばきっと中途半端な事をしてしまうし、来なかったら来なかったでがっかりしてしまうだろう。

だからその両方を避けるためにわざわざ新横浜に泊まったのだ、最悪だな俺。


「うっわ!焼けたねーまっつん」
「お陰様で」
「何かガタイ良くなってねえ?」
「岩泉ほどじゃないよ。イクメンしてる?」
「おお、子供って日に日に重くなってくんだよな!お陰で筋トレしなくて良くなった」


岩泉一は俺たち4人の中で一番に結婚し、子宝に恵まれ、ひとまず人生の勝ち組に分類されている。
奥さんは綺麗だし料理が上手くて我儘も言わない、らしい。それは岩泉が奥さんの我儘を「我儘」と認識していないだけなのでは、ってのは秘密で。だって何を言っても僻みだと思われるし、実際僻んでいる。


「お疲れのところ悪いね、集まってくれて」
「今日しか無理なんだろ?」
「まあね。次まとまった休みがあんのは…秋?かな」


本人には絶対言ってやらないしこれまでもこれからも言わないだろうけど一番目鼻立ちの整っている及川徹は東京でプロのバレーボール選手になっている。ちょうど俺が宮城に戻って来る今日だけ及川もこちらに来ることが出来たらしい。

そんなわけで岩泉はマブダチ(多分)の帰省だからと1歳の子供と奥さんに許しを得て、ここに集まる事が出来ている。ちなみに花巻は自由の身である。


「どうだったー湘南?海キレー?」
「綺麗とかじゃないけど、波は気持ちよかった」
「へー。浮気してないだろーな?」


花巻は何も考えずに言ったのだと思う。「浮気してないか?」「一発やったか?」「可愛い子いたか?」なんてのを挨拶代わりに言い合う仲だから仕方ない。
しかし、その答えが本当にイエスだったのは初めてだ。お陰で言葉に詰まってしまいすぐに勘づかれてしまった。


「おい」
「…した」
「したのかよ」
「ん」
「おぇ!?まじで」


驚きで身体を乗り出した花巻の声は大きくなっていたから、及川と岩泉も反応する。俺には2年間付き合っている彼女が居ることを、3人とも知っているからだ。


「まっつん、サヤカちゃんとは全然会ってないわけ?」
「まあ、会ってないね」
「そろそろ結婚の話でないの?」
「出てない」


その彼女というのがサヤカで、同い歳の会社員。2年半前に紹介で出会い意気投合し、順序はおかしかったけど最終的には付き合って2年間を共に過ごした。
なんとなく、この子といつか結婚するのかなぁと思っていた。付き合い始めた年齢が26歳という事を考えれば、サヤカもそろそろそういう目で男を見るだろうから。

しかし、2年間という歳月は人の心を変えてしまうには充分な期間だ。それがたとえ2ヶ月であっても1ヶ月であっても。


「じつは湘南居るあいだに、サヤカから連絡きたんだけどさ」
「うん」


俺が湘南へ出張に行ってからサヤカからの連絡はだんだんと無くなった。が、1ヶ月ぶりに来た彼女からの電話が何の偶然か、白石さんと過ごしていた夜だったのだ。

その電話に出ることは出来なかった。自分の事を好いている女の子の前で、存在を隠していた恋人の電話を取るなんて事は。
結局、再び携帯電話を開いたのは翌日の朝で、見てみれば何度かの不在着信とともにメールが来ていた。


「別れよってメール来てたんですよ」
「えっ」
「男が出来てたみたい」
「え!?サヤカに?」


花巻の名前でおろされた焼酎のボトルを開けながら俺は頷いた。氷をひとつ、ふたつグラスに入れる俺の姿を見ながら「冷静かよ」と突っ込む花巻、微妙な表情の岩泉。


「で、別れたん?」
「まだ。とりあえず会ってケジメつけようかなって」
「へえ…」
「その浮気相手はどうしたの?ワンナイトラブ?」
「いやー…」


及川はとても痛いところを突く男だった。昔から。


「…浮気が本気パターン?」
「それ」
「マジッスカ」
「お前最低かよ」


しばらく黙っていた岩泉が言った。それは俺に対する明らかな嫌悪感だったにも関わらず、嫌な気はしない。むしろ心地いいとさえ感じた。


「…なんか、最低って言われて安心してる自分が居る」
「クズかよ」
「もっと言って」
「Mかよ」


そう言いつつも岩泉は空になったアイスペールを俺の前からどかして、店員に渡した。天性の世話焼きだ。


「サヤカには別の男が居るかもしれねえけどさ。お前分かってると思うけど、俺らの歳でホイホイ遊んでちゃシャレになんねえぞ」


ひとりの女性と一生添い遂げる誓いをたてた男の台詞には重みがある。
部活に勉強に遊びに明け暮れていた10年前とはもう違う。あと数年で30歳になろうという女性と付き合うこと、仮にも仕事で訪れた土地で軽率に男女関係を持ってしまったこと、どれもこれも重くて大変な事だ。


「……岩泉に言われると言い返せないわ」
「俺は?俺も言おうか?」
「熱愛スクープ野郎はいいわ…」
「チョット!!」
「サヤカと別れんの?」


新たに店員が持ってきたアイスペールを受け取りながら、花巻が言った。


「別れるよ」


3人は少しだけ驚いていたが、どうせサヤカには新しい男が居るんだから話し合っても無駄だろうと思う。
「とりあえず1回会おう」とは話しているけど、それは2人で一緒に前に進むための話し合いではなく、ちゃんと会って言い残した事が無いよう気持ちよく別れたいという理由から。


「…で、湘南の子は?」
「俺がサヤカと別れたところであっちと付き合う資格無いよ。忘れる」
「いいの、それ」
「いい」


湘南の海沿いにある解放的な店で働いていた女の子は、白石すみれという。

初めてあの子を見かけた時にはまだ仕事に慣れていない様子で、俺が商品の場所を聞いてもしどろもどろな感じだった。それが少し可愛らしくて、用もないのに通ってみたり。あの子が海に居る事を知ってからは、自分も海に出てみたり。

そして、もしかしたら俺の事を好きなんじゃないかと気づいた時にはもう遅かった。俺も白石さんを好きになり始めていた。


「サヤカちゃんとしっかり別れたら、会いに行ってあげたら?向こうも待ってるかも」
「…どうかねえ…」


及川の提案はもっともだと思う。会えるものなら会いたいが、どの面下げて会いに行けばいいんだよって言うのが正直なところだ。
それに、白石さんは恋人に振られた傷を忘れるために、新しい恋を探すために地元から出てきたと言っていた。それを知りながら決して越えてはならない線を越えてしまったのだ。


「待ってないの?」
「どうだろうね」
「え、軽い子だったの?」
「軽くないよ」


あの初めての夜、白石さんは拒まなかった。それは俺の事を好きになっていたからだ、俺に彼女が居るなんて知らなかったから。


「軽くないから問題なんだよ。俺、相当ひっでえ事したから」


だから会いに行くのはやめておく。俺があそこに行かない限り、この先会うことは無い。この気持ちはひと夏の想い出として、教訓として心の中に仕舞っておこう。

岩泉は聞いているのかいないのか(しっかり聞いてはいるのだろうが)、ぐびっと喉を鳴らしてグラスを空けた。


「まあ俺らが突っ込み過ぎるのも変な話だろ。あ、焼きそばください」


それを聞いて花巻も「漬物盛り合わせ〜」と追加の注文をしたが、俺は今ひとつ食欲が無い。及川はちまちまと焼酎のグラスを飲む俺の飲み方と、白石さんとの事が気に入らないらしくじっと俺を睨んでいる。及川徹は少し感情移入し過ぎるところがあるらしい。


「俺だったら絶対会いに行くけどなあ、そんなに忘れられないなら」
「俺は及川じゃないから」
「仮定の話!」


有名選手になっても昔と変わらず突っ込んでくれる及川に少しだけ気持ちが楽になった時、ポケットの中で携帯電話が震えた。

一瞬ひやりとした。もしかして白石さんではないかと思って。
しかし画面には違う女性の名前が出ていた。


「サヤカだ」
「え!サヤカ!」


一応今はまだ「彼女」であるサヤカからのメールだったので開いてみる。俺が今日宮城に帰ってくる事は伝えてあるし、帰ったら一度会おうと話していたから、その事について連絡が来ているのかと思った。…が。


「……もう会うの無理。だって」
「マジで?」
「はあ……」


こんなことで溜息をつける身分じゃない事は分かっているけど、溜息が出た。

携帯電話の画面を下にして机の上に置き、おしぼりで顔をひと拭きする。2年間付き合ったって、終わりはこんなに呆気ないのか。「もう会うの無理」というたったの7文字。会ったところで関係修復に至らないのは分かってはいたが。


「…湘南ガールには連絡しなくていいの?」
「だから、しないって」
「後悔しない?」
「しない」


及川徹はしつこく白石さんの話をしてくる。俺はたった今彼女に振られた正真正銘自由の身だ。しかし、だからと言って過去に犯した罪は清算されるわけじゃない。
だから、サヤカと別れたからと言って白石さんに連絡するつもりは無い。俺があの子の事をこれ以上掻き回すのは良くないはずだ。


「ふーん。じゃあもう何も言わない」

やっと諦めたのか、及川は新しく来た漬物盛り合わせを箸でつまんだ。それを口元へ運びぼりぼりと噛んでゆくが、どうやら美味しそうではない。何故ならずっとしかめっ面で俺を睨んでいるから。


「……ってのは嘘。言うからな俺は、まっつんがそんな顔してるうちは」


松川一静、28歳、夏の終わり。柄にもなく年甲斐もなくひと夏の燃えるような恋にを身を委ねてしまい、何年も前に捨て去ったはずの懐かしい気持ちが溢れ出る。
あの子に会いたい、なりふり構わずに。それを素直に及川へ伝えることが出来たのは、もう少し涼しくなってからの事だった。

番外編 彼方ストレージ