人間って自分とは違うものに興味を持つのだと思う。
鏡を見れば日に焼けた肌と、同じく日焼けして少し色が抜けた短い髪、あまり整っているとは言い難い自分の顔。こうして自分の顔なんか確認する事は無かったのにどうしてだ。俺がここまで身なりを気にするようになったのは。


「あ」


とある授業開始の少し前、机に何かが落ちてきた。俺は広げたノートのまっさらなページに春市の似顔絵を描くところだったが(寮に帰って沢村と見せ合う約束をしているのだ)、落っこちてきたそれに意識を取られる。なんだこれ、と拾おうとした時目の前でさらりと何かが揺れた。


「ごめん、手が滑った」


振り向いて気恥しそうに笑ったこいつは前の席の白石すみれで、俺の机に落ちたものは白石のヘアブラシで、たった今俺の前でさらさらと揺れたのは彼女の真っ直ぐな髪だった。

ちょうど窓から差し込む光が絶妙な角度で白石を照らし、いわゆる天使の輪と呼ばれるものが出来ている。そして、彼女が頭を動かすごとに輪っかが美しく揺れるのを俺はこの時知ってしまった。
席替えをしてからほんの数分後の出来事であった。


「倉持先輩、用意はいいですか」


夜、天使の輪などとは程遠い男三人の部屋で行われたのは似顔絵大会。男ってこんな下らないことで盛り上がるんだから驚きだ。
今日は何故か春市の似顔絵を描くというのを本人がいないところで勝手に繰り広げている。


「せー、のー、で!」


ばさりと同時に広げたノートを互いに確認すると、めちゃくちゃ不細工な春市が二人現れた。


「ぶはっ!ヘッタクソ!」
「お前こそ全然似てねぇじゃねえか、同級生だろ」
「そうですけどー。倉持先輩絵心無いっすね」
「うっせ」


小さい頃から図画工作の点数は低い。体育だけが満点だ。沢村だって絶対俺と似たような脳味噌をしているくせに腹立たしい。


「浅田に決めてもらいましょ!」
「えっ」


とうとう同室の浅田に勝敗を決めてもらう事となった。浅田が困り顔なのは先輩ふたりの作品に優劣を付ける申し訳なさのせい…ではなくて、目糞鼻糞の作品に無理やり優劣を付けなければならない難しさのせいだと思う。


「く、倉持先輩のほうですかね…髪の毛さらさらな感じが…上手だと思います」
「おっしゃ」
「ぐぬうう!」
「牛乳奢りな」


さすがに沢村の描いた、毛虫なのか春市なのか分からないピンク色の物体よりは俺のほうが上手かったらしい。そうだろうそうだろう。俺はちゃんとこだわりを持って描いたんだから。


「…そう言われたら髪だけ綺麗ですな?髪フェチですか?」
「ちょうどモデルが居たからな」
「モデルぅ?」
「前の席のやつが髪キレーだった」


俺のこだわった場所は髪、と言ってもそれを綺麗に表現できているとは思わない。が、目の前で揺れる美しいそれを描きうつすのは悪い気分じゃなかったし、白石の髪からはいい匂いがしてきたし。


「女子ですか」
「女子」
「ほーん?女子のサラサラヘアー凝視するのってどうなんですかね?」
「参考にしただけだろ」


沢村の前で女子の話なんかするんじゃなかった、野球部は悲しい事に女性関係に疎い人間ばっかりなのだ。俺を含めて。
普段沢村の相手、ワカナだったか、ワカナの事を散々いじり倒してきた仕返しだろうか。ほんの少し普段の行いを改めようかと思っていた時、浅田が口を開いた。


「でもあれですよね、女性らしいところは自然と目がいっちゃうもんですよね…」


浅田は俺の描いた春市もどきを見ながら、考えを巡らせているようだ。俺が白石の髪を見ていたのはそういう意味じゃなくて単に偶然で、賭けていた牛乳を奢らせるための参考にしただけである。


「…べつに女だから見てたってわけじゃ、ねえけど…」


男と女の違いがどうとか、そんな事を考えていたわけじゃない。しかしそこまで必死になって言うのも怪しい気がして、黙ってノートを閉じたのだった。





翌日、まだ席替えをしたばかりなので新鮮な景色を見ながら席につく。前の席には白石が居て、白石のおかげで牛乳を勝ち取った礼を心の中で伝えておいた。

そして席について机の中を漁っている時、昨日と何かが違うことに気づく。白石の髪がさらさらと揺れているのではなく、丸い頭の上のほうでひとつに結えられているのだ。
昨日、白石が頭を動かす度に揺れていたさらさらの髪が、今日は右へ左へとまとまって動く。おかげで露わになった彼女の白いうなじが視界に飛び込んできて、小さい目を思いっきり見開いてしまった。


(…ヤベ)


女子のうなじなんか見て動揺するなんて童貞かよ。童貞だけど。


「あ、倉持くんおはよ」


床に落とした消しゴムを拾う時、俺が居ることに気づいたらしい。ポニーテールを揺らせながら挨拶をされたので「オハヨ」と返す。俺、いつも白石にどんな挨拶をしていたっけ。


「ここ、赤くなってない?」
「…?」
「虫に刺されちゃったみたいで」


白石が前を向いて、ここ、と言いながら自分のうなじを指さした。ご丁寧に反対の手で髪の毛を持ちげて、俺に見えやすいように。
彼女の指さす先には確かに虫刺されの跡のようなものがあり、小さくぷくりと腫れていた。


「…おー、赤い」
「やっぱり。最悪だあ」


白石が離したポニーテールがすとんと落ちてきて、彼女は照れくさそうに笑いながらこっちを向いた。その時もまたポニーテールがぴょんと跳ねて、「おお」としか返せない俺に嫌な顔ひとつせずまた前を向く。

何が最悪なんだ?見える場所に虫刺されの跡が出来てしまった事?それを俺に見られてしまう事?なんて柄にもない事を考える、何故だ昨日から。

一度ぎゅっと目を閉じて視界をリセットする。ええと、朝一番は生物の授業。次が体育、そのあと古典。それから数学で昼休憩。
よしまずは生物の教科書を出すかと目を開ければ飛び込んできたのはやっぱり白石のうなじで、


「…白っ」


…と思わず声に出してしまった自分を瞬時にどこかに埋めたくなる。
もちろんそれは適わずに目の前の白石がくるりと振り向き「何か言った?」と首をかしげた。その度にいちいち揺れるポニーテールに翻弄される。「何でも」と伝えて教科書を探すふりをしながら視線を落とし、表情を悟られないようにするのに必死だった。なんなんだよ。





「…黒っ」


そして今、この三人部屋にある唯一の鏡を取り出して自分の顔を見てみれば日に焼けた肌と、同じく日焼けして少し色が抜けた短い髪、あまり整っているとは言い難い自分の顔。


「どうしたんですかぁ倉持先輩」


鏡なんか覗いている俺が珍しいのか、近寄ってきた沢村の顔が一緒に鏡に写し出された。


「なんでも」
「心配しなくてもイケメンですって!俺が保証しますって!」
「いらねーよ」


鏡を元あった引き出しに戻し(壁に掛けていたって使わないから)、いつもなら床に座ってあぐらをかくところなのに椅子を引く。その椅子に座り、時間割とか練習メニューが書かれた紙が貼られている壁をぼんやり眺めながら、壁の色と白石の肌の色が近い事を思い出す。


「…やっぱ女って白いよなあ」
「お…女ですと」
「いや、前の席のやつがさ」
「………」


あまり先輩ふたりの話に無理やり入ろうとしない浅田は静かであるが、沢村は思いっ切り目を見開くと物凄い勢いで俺の元へ歩いてきた。何か変なこと言ったっけ。


「その前の席の女性とはどういったご関係で?」
「は?」


白石と俺の?関係は一言「クラスメート」、ただそれだけだ。
俺は、どうしてそんな事を聞いてくるのか理解できないといったふりをした。席替えの当日から俺が白石を変に気にしていることは本当だし、ただ、それを他のやつに悟られるのは御免だ。


「どうもねえけど」
「怪しいです」
「お前はワカナとどうなんだよ」
「…ワカナ??どうもないですけど」
「それと一緒だよ」


沢村は全く腑に落ちない様子だ。俺だって腑に落ちない、ワカナという地元の女子からは頻繁に連絡が来ているくせに。沢村が返信をしていないだけで。
そっちのほうがどうかと思う。俺の頭から白石の事が離れない事よりもずっと。





「おーい倉持くん」


授業中、知らないうちに瞼が落ちて眠っていたらしく白石の声で目が覚めた。が、かなり疲れていたのか頭だけは先に起きたものの目が開かない。白石に腕を軽く揺すられたことでやっと顔を上げることが出来た。


「あー…わり」
「ん」


プリントを後ろの席に回しているところだったらしく、白石が俺にあと数枚のプリントを渡した。自分の分を1枚取って残りを後ろに回し、先生に気付かれないように大きな欠伸…をしている最中に白石がくるりと振り返った。


(おつかれっ)


白石は小声でそれだけ言うと、また前を向いてしまった。

今日の彼女は席替えの日のように長い髪を下ろしたままなびかせて、窓からの太陽の光を浴びて天使の輪を浮かべていた。首を左に傾げれば左、右に傾げれば右へ髪の毛がさらさらと動く。自分や自分の家族は持ち合わせていないその細く真っ直ぐな髪に触れようとするのは、理性的な行動か本能的な行動か、どちらに分類されるのだろう。気付けば無防備に垂れているそれに手を伸ばし、毛先をするりと指に滑らせていた。


「ん?」
「う」


完全に無意識であった。白石の髪を勝手に触ってしまい、俺の手が彼女の背中に当たったせいで白石が後ろを向いたのだ。急いで手を引っ込める俺。隣のやつが見ていたら完全に俺は不審者だ。


「…や、わり、何でもない」
「そ?」


幸い隣の席のやつも眠そうだったりノートに集中していたりで、俺の行動には気付いていないようだった。斜め後ろはもう知らねえ、諦める。

しかし驚いたのは俺を揺り起こす時に触れた白石の手のひらがとても柔らかかった事、そして、白石の髪の指どおりの良さ。





「手相占いですか?俺得意ですよ」


あの時のことを思い出しながら自分の手を眺めていると、例によってルームメイトに気付かれた。俺が手相占いなんか気にする男に見えるのだろうか?そうだとしても沢村には頼まないが。


「ちげーよ」
「手のひら見てたでしょ」
「手相は見てない」


見ていたのは手のひらで間違いないけれども、気にしているのは見た目だけで分かる皮の厚さや触り心地の悪さだ。


「…かてえ」
「どうしたんですか最近」
「いや、前の席の…」


そこまで言って口を止めた、最近こんなことばかり言っている事に気付いてしまった。けれども妙に嗅覚のいい沢村は(それとも俺が分かりやすかったのか)それだけで言葉の続きが読めたらしい。


「前の席のカノジョの事ですか」
「カノッ……お前それ御幸の前で絶対言うんじゃねえぞ」


否定も肯定もしない俺に「わーってますぅ」と返す沢村だったが、余計な口出しをしない男だと信じておく。

そう、俺は否定も肯定もしなかったのだ。
これから夏休みまできっと毎日、目の前で揺れる何千本もの細い髪を眺めるのが俺の日課になるだろう。時にはこっそり近寄って匂いを嗅いだり、偶然を装って触れてみたり、出来ることならあの天使の輪を手の中に収めてみたいと思ったり、俺が俺でないかのような甘ったるい思考が勝手に進む。我に返ろうと一度目を閉じて深呼吸をしたって無駄なのだった。目を開けるとまた天使の輪、時には真っ白いうなじがすぐそこにあるのだから。


「倉持くんって黒いね」


ある朝、白石は後ろを向いて、席についたばかりの俺が鞄を漁る間もなく話しかけてきた。
いきなりの事だった上に、振り向いてきた時にまたもポニーテールが揺れたもんだから俺の心も同じように揺さぶられた。今日の白石の毛先は心なしか、くるんと巻かれている。


「……おお」
「見てこれ!オセロみたい」
「おう、?」


オセロっていうのは白黒のオセロの事だ。それ以外浮かばない。それに白石が自分の腕を俺の腕にぴたりと付けて、肌の色の違いを指さしているのだからきっと白黒の、あのオセロの事だ。


「………」
「前から思ってたんだけど」
「…何を?」


俺は何も気にしていないふりをして、彼女の腕とくっついている部分の熱が上がらないよう徹した。


「倉持くんと私、いろいろと真反対だよね」


が、上がりかけた熱は暴走を止めた。倉持くんと私は真反対。いや同じだなんて思ったことは一度もないけど真反対ってのは正反対だろ、対角線上、決して混じり合わないところに居るって事。


「…あ、そう」


完全燃焼してしまった。告白していないのに振られた気分だ。そもそもそんな土俵になど上がっていなかったのだ。
さっさと前を向いてくれ、俺の情けない顔なんか見ないでくれよと思ったが、前を向かれたら向かれたで罪深きポニーテールが視界に入る。地獄かよ。


「でもねえ人間って、自分とは違う人に惹かれるんだってさ」


振り返ったままの白石は白黒の腕たちを眺めて言った。俺はそんな白石の顔を思わず凝視した。収まりかけていた体温が上昇を開始する。


「………は?」
「あ、先生きた」


担任が教室に入ってきたのと同時に白石は顔を上げた。そして俺の顔なんか見ることなく、くっつけていたはずの腕は離されて、さっさと前を向いてしまったではないか?
ほんの今まで「早く前を向け」と思っていた俺だったのに、これは一体なんと表現すればいいんだ。


「なんだそりゃ…」


思わず漏れた独り言は白石の耳にも届いてしまったのか、彼女は振り返らなかったけれども結わえた髪がぴょこんと揺れた。

今日その髪型にした事を白石は後悔しているだろう。後ろの席にいる俺にはすべて見えてしまったのだ、普段なら白いうなじが覗いているはずなのに赤く染まった首元が惜しげも無くさらされているのが。
しかし、すぐにほどかれた髪が舞い降りたせいでそれは見えなくなってしまった。

光の尻尾は捕まえられた