05


明くる日が土曜日、そして日曜日で良かった。教室で白石さんと顔を合わせなくて済むし、少しの間だけ彼女の事で頭を悩ませなくていい。西東京の予選開始までもうすぐだ。何も考えずに素振りをしておけばいい、今までのように。
そうしたら親父や三島や秋葉、今は真田先輩だってどこに向かって何をすればいいか指示してくれる。それに従って打席に立ち、投げられたボールを打てば良いだけ。


「…だと思ってたら大間違いだからな?」
「んっぐ」


日曜日の夕方、部室でビデオを見ながらバナナを食べていた時のこと。真田先輩も隣で為になる野球の話をしてくれていたけど、いつの間にか俺の話になっていて危うくバナナを噛まずに飲み込むところだった。


「ど、どういう意味、すか?げほ」
「来たボールを打つだけじゃ駄目ってこと」


真田先輩は目線をテレビのモニターに向けたまま、床に転げている俺のペットボトルを拾い渡してくれた。それを受け取り蓋を開けてバナナを流し込もうと、ぐいと一口喉に通す。その間も真田先輩は言葉を続ける。


「つまり、話しかけられるのを待ってるだけじゃ駄目ってこと」
「んぶ」
「うおっ吐くなよ!」


きたねえ!と笑いながら真田先輩がティッシュの箱を投げてきた。野球の話だと思っていたのに、別の事に突然すり変わったんだから仕方ない。この人はきっと俺が白石さんを好きなんだと気付いている。
けれど金曜日の帰り道、俺が救いようのない情けなさを発揮した事は知らない。


「なんか上手くいかない事あったんだ」


…知らないはずなのに、どうして勘づいてるんだろう。


「ない、です」
「無えの?それなら今日はもう少し打ってくれると思ってたな」
「……」


そんな事を尊敬する人に言われてしまう自分の不甲斐なさとか。目の前で優しく俺を諭すこの人が、白石さんの理想としている男性なんだという劣等感とか、醜い感情とか。

それら全部これまで感じたことのない事だった。高校に入ってからの俺は関わる人が増えたせいで、自分だけで解決できない色んな問題にぶち当たってる。今まで何があっても自己完結できていたのに。





いやだいやだと思いながら月曜日を迎えた。珍しくなかなか家を出ようとしない俺の背中を「邪魔だっつーの」と強く押され、よろめきながら玄関の戸を開ける。親父も今から同じ場所へ向かうのだから当然だけど。

そして、出来るだけ長引いてほしいなと感じていた朝練もあっという間に終わってしまい、とうとう教室に入らなければならなくなった。

入りたくない。中には白石さんが居る。白石さんはこれまでと同じように、目が会えば『おはよう』の口パクをしてくれるだろうか?
もしもそうしてくれたなら、俺は少しだけ気が楽である。今までどおりに接すればいい。でも、もし何もしてくれなかったら…


「邪魔なんですけど」
「!」


教室の前で足を止めた俺の背後で不機嫌な声がした。誰だったっけ、名前は忘れたけど同じクラスの男子が俺を見下ろしている。「ごめん」と避けると「聞こえねーっつの」と言いながら、そのまま教室に入っていった。

そんな事があってもなお、教室に入れないままドアの横で突っ立っている俺を皆が変な目で見ていた。視線が痛い。でも、白石さんが俺に対してどんな反応を見せるのか、それを想像するよりもはるかに良い。
このまま6限目までここに居たい。
その願いは朝のホームルーム開始のチャイムと、「教室入れよ」という先生の声で叶わなくなった。

重い足取りで教室内に入ると、残念なことに白石さんの席は入口に近いので彼女の後頭部が見えた。俺が入ったことに気づいてないかも。嬉しいやら悲しいやらだけど今は有難みが大きい。


「轟、お前最後だぞ」
「う」


なのに担任が教室の後ろで足を止めた俺の名を呼んでしまい、白石さんがちらりと振り向くのが見えた。
こわい。白石さんが振り返りきらないうちに俺も顔を背けて自分の席へと向かった。「あいつ何してんの?」という声を聞きながら。

教室の中はとても居心地の悪い空間だ。中学の頃まではそうだった。高校に上がり、白石さんの存在があったお陰でそれは覆りかけていたのに逆戻りである。
来たボールを打つだけじゃ駄目、白石さんからのボールを待つだけでは駄目、じゃあ自分からボールを投げるならどのタイミングでどんな風に?このクラスには監督も先輩も居ない。





結局、なるべく気配を消して過ごすしかないまま放課後を迎えた。授業の内容は全く頭に入っていない。ノートには何も書かれていなかった。白いページを見る度に思い出すのは白石さんの細い指がきれいな文字を書き出していく光景と、話しかけてくれる優しい声。
俺から話しかけた時にも同じように明るく応えてくれるだろうか彼女は?あの日の夕方、せっかく二人で歩いていたのに一言もまともに返せなかった俺に。

ホームルームが終わって教室を出る時、思い切って白石さんの席を見やる。目が合ったら話しかけよう、俺から話しかけよう。


「………」


目は、合った。白石さんの長いまつ毛が揺れるのを、視力のいい俺の眼はしっかりと捕らえた。けれど話しかけることが適わなかったのは彼女が他の友人と一緒に居たから。
仕方ない、今のは仕方がない。俺が悪いんじゃなくて運が悪かっただけ。


「最近あの子来ねえじゃん。なあ」


俺の胸元にグローブを押し付けながら親父が言った。余計なこと言うんじゃねえよ、と睨みあげると「おお怖」と言いながら俺の背中を叩く。あの馬鹿力のくそ親父。


「あの子って?」
「雷市の友だち」
「ああ…」


そんなくそ親父に真田先輩は律儀に反応した。真田先輩はすごく優しいし頼りになるけれど、なるべくこの事には触れて欲しくない。そのたびに惨めな気持ちになるからだ。


「色々大変みたいですねぇ」
「大変じゃ困るんだよなあ、アイツ鈍感なのか繊細なのか分かんねえから」
「たぶん繊細が正しいですよ」


その会話が俺の耳まで届いているのを二人は気付いている。わざと聞かせるように話しているんだと思う。遠まわしに「お前から行動してみろよ」って言われている気がする。けど。


「お前よー、調子が出ねえんなら友だちに応援来てもらえよ」
「…っさいな!友だちなんか居ねーよ」
「三島は?」
「ミッシーマとアッキーは別!そんだけ!」
「あ、そう」


親父の呆れた笑い声がした。野球部監督としてここに居るんだから関係ない事にまで首突っ込むなよ、面白がってるだろ。


「じゃあ、その子は?」
「は!?」


いい加減腹が立ってきて、先日から自分の情けなさにも嫌気がさしていたのもあり思い切り不機嫌な声とともに振り返る。
すると、なんという事か親父はどこかを指さしていて、その先で白石さんが野球場の中を覗いているではないか。


「………白石さ…」
「ご、ごめん…」
「へ」


白石さんの表情は、いつもあそこで練習を見ていた時のそれとは違っていた。


「私、友だちになれたつもりだった、んだけど」


引きつった笑いを浮かべて話す姿を見て、あ、こんな顔にさせているのは俺のせいなんだと思った。金曜日、「もっと喋りたい」と言ってくれたのが凄く嬉しかったのに素直に喜べず、嘘だろうと否定した俺のせい。


「やっぱり違ったかな…」
「…………」


そして今「友だちなんか居ない」と大声で言い放ったことにより、白石さんの存在を否定してしまった俺のせい。違うんだよと今こそ言うぞ、と一歩踏み出した時には白石さんが走り出してしまっていた。


「雷市、」


耳元で真田先輩の声がした。
そちらを向くと「ゴー!」と拳を突き出す真田先輩の姿があり、結局この人にサインを出されるはめになった。情けない、けど俺はもう情けないまんまじゃ終わりたくない。


「ナーダ先輩」
「お」
「俺はナーダ先輩みたいには、あの、なれませんけど」
「おお」
「ボール、投げてきます!」
「え」


俺はコントロールセンスも無し、力加減も調節できないし、相手の作戦を読むことも出来ない男だ。でもせめて好きな女の子に自分の気持ちを伝えるくらいは出来るやつになりたい。

足元に落ちていたボールを拾い、力の限り握りしめて白石さんの走り去ったほうへ駆け出した。このボールは俺だ。受け取ってもらえるかどうかが怖くて、今まで見えないボールをふんわり投げていた俺に応えてくれていたあの子。
恋人になりたいなんて大きな事は望まないから今までみたいにして欲しい。少しだけ努力してみせるから、白石さんの優しさに甘えずに。


「…まさか本当に投げませんよね?会話のキャッチボールの事でしょうか」
「そこまで考えてねえかもな」
「かわいいっすね」
「だろ。馬鹿かわいいってやつ」


背後でそんな会話があったのははうっすらと聞こえていたけど、とりあえず親父を殴り飛ばすのは後だ。

リップシンクは蜜の味.05