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働き始めて5か月目になるサーフショップにもいい加減慣れてきて、季節は夏の初めからとうとう秋へ。
今朝も少しだけ朝の海に入ってシャワーを浴びたのでとてもすっきりした気分で仕事を始め、マネキンの洋服を変えたりディスプレイを変えたりするのも手慣れてきた。

そして、どの商品がどこにあり、そのうちの何がおすすめで、という事にも答えられるようになった。最初の頃には松川さんがサンオイルやワックスについて聞いてきたっけな、というのを思い出しても涙が浮かぶほどでは無くなった。彼が居なくなってからは毎日のようにどんよりした表情を隠せなかったけれども、やっとの思いで前を向き始めた。


「すみません、おすすめどれですか?」


それなのに時々、背後から聞こえてきたこの言葉で私は一瞬にして松川一静という人物を思い出す。まさか、もしかして、という期待とともに振り返ると当然全く違う人が立っていて、その都度落胆してしまうのだった。
それは今日も同じ。違うのは、今声をかけてきたのが今朝海で出会った男性だという事。


「おすすめですか?何の、」
「あっ、今朝の子だ」
「え…あ」


彼はすぐに私に気付いた。私も遅ればせながら思い出した、熱愛写真を撮られていたという芸能人もどきの男の人だ。
やっぱり立った状態を見てみても身長が高いので、一層松川さんを思い出してしまい心の中でため息をついた。


「ここで働いてたんですね」
「はい…」
「どおりで上手いわけだ。えーと…」


綺麗に染まった茶色の前髪をかきあげて、私の左胸についた名札を見下ろす。ああ嫌だな、松川さんも私の名札を見て名前を覚えてくれたのに。どうしてやっと立ち直り始めた時にこうなるのだ。


「……白石…さん……」


その人は名札に書かれた私の苗字を読み上げると、そのまま口をあんぐり開けてしまった。やっと名札から目を逸らしたかと思えば私の顔を見て、もう一度名札を見て、を繰り返す。どこかで私の名前でも聞いたことがあるのだろうか。もしかして知り合いだったっけ?


「……なにか?」
「何でも…いや何でもなくは無いか…んー」
「及川!」


そこへ今朝この人の世話係みたいなことをしていた男性がやって来た、かなりの大股で。茶髪の彼は「げ」と声を漏らしてゆっくり振り返るが、白々しく笑っていた。


「迂闊に女に声かけんなって言われてんだろうが、あ?」
「言われてるけど…岩ちゃんは何ですか、俺のマネージャーですか?」
「殴るぞ」


と言いながらすでに肩に拳をぶつけている短髪の人は、鬼の形相から一変し私に会釈をした。


「ほんとすみません。ついでに聞きたいんですけどサンオイルってどれが一番焼けるんすか」
「さ、サンオイル…」


ずきんと過去の記憶がえぐり返される。一番奥に隠していた大事なものを細い金具できりきりと掘り起こされるような。でも今はそんな事この人たちには関係ない、彼は純粋にサンオイルを望んでいるのだ。


「サンオイルならこちらのほうに」


私は過去に松川さんを案内したのと同じように移動して、松川さんにすすめたのと同じものを手に取ろうとした。
…が、それは適わない。別の手がサンオイルを取り上げてしまったからだ。


「これがおすすめだってさ」


そして、私の代わりにふたりの男性へおすすめだよと紹介するその声はここ数ヶ月聞きたくても聞けなかった、思い返さないようにしていた低くて優しいあの人の。まさか、いや、そんなはずは無い。


「…合ってるよね?」


私はその人の姿を見ないようにしていた。正確には首を動かす事すら忘れていた、あまりの衝撃に。
しかし私が動かないならば自分から、とでも言うかのようにその人は私の視界の中へ入り込んでくる。身体を曲げて、私の顔を覗き込んでくる。だってそうしなきゃ私からは顔が見えないほどの身長なのだ、この人は。


「………ま…、まっ、つ」


目の前に現れたその姿が本物なのか偽物なのか幻覚なのか全然分からなくて、おばけが現れたんじゃないかと自分の頭を疑う。しかし、何度まばたきしても間違いない。松川一静が今、ここに、私の前に立っていた。


「ま、まっ、まつ、」
「言えてないね」
「怖がってるじゃん!ホントにこの子で合ってんの?」
「岩泉、ちょっと及川どっかにやって」
「ん」


岩泉と呼ばれた人は短く返事をすると、「えっなんで!?」と困惑する茶髪の人の腕を引っ張ってその場から離れた。
その姿が遠くなり、会話が聞こえない位置まで移動した時にやっと私の頭は冷静になった。本物だ。本物の松川さん。


「……松川…さん…ですか?」
「…松川さんです」
「どうして…」


その「どうして」には何通りもの疑問が混じっていたので、松川さんも返答に困ったかも知れない。どうしてあの時、彼女の存在を隠したまま私と過ごしたのか。どうして、もう終わりにしようと言ったのにここに居るのか。どうして今、複数名でこんなところに来ているのか。


「地元の連れがこの時期に休み取れたみたいで、旅行いくかって話になって。あいつが湘南行きたいって言うから」


あいつ、と言いながら松川さんは、騒がしいほうの男性を指さした。


「…そうですか」


やっぱり私に会いに来たわけでなく、偶然来ただけなのだ。この店は駅から近いし観光客の利用数は多いから立ち寄っただけ。松川さんが望んだわけじゃない。


「………」
「ごめん」


ぽつりと松川さんが謝った。謝罪なんか述べられたって私の気持ちは再びどん底で、簡単には浮き上がらない。優しくされればされるほど、つかの間の再会を忘れられなくなってしまうじゃないか。


「今更謝らなくてもいいです」
「いや…ごめん、そっちじゃなくて」
「何ですか?」


もう謝らなくていいし私を特別扱いしなくていい。ただのお客さんとして居てほしい。その気持ちを込めて、憎しみとか困惑とかいろんな感情を持って、精一杯素っ気なく返事をする。けれども松川さんは動かずに言葉を続けた。


「俺、また嘘ついた。ほんとうは俺が湘南行きたいって言ったんだ」
「……え、」


幻覚を見たのかなと感じた次は、幻聴なのかなという台詞。松川さんが自らすすんで湘南に来たいと希望したと。どうしてだろう、海に来たかったの?ご飯が美味しかったから?それとも?


「会いに来た」


さっきまで幻覚のようだった松川さんは確かに私の前で笑っていた。嘘みたいな台詞を吐きながら。


「…会いに…私…に?」
「他に会いたい人居ないよ」
「でも、でも…あの……」


松川さんには彼女が居る。だから私は無理やり諦めて忘れようとしていたのだ。彼の連絡先だって削除した。松川さんと一緒に行ったお店にはなるべく行かないようにしていた。全部、松川さんを忘れて諦めるために。なのに私に会いに行きたなんて。


「彼女とは別れた」
「えっ!?」


思わず今までの何倍も大きな声で反応してしまった。慌てて咳払いをすると松川さんは苦笑いしながら話し始めた。


「元々しばらく会ってなかったんだけど、別れるかって話そうとした時にこっちに出張になってさ」


別れるなら一応、直接話さなきゃいけないと思って…と彼は続けた。
湘南から宮城県に帰った後で彼女から連絡があり、正式に別れることになったこと。それからしばらく仕事に専念していたこと。偶然友人の休みが取れて自分も閑散期だったから、休みを合わせて旅行を計画し、行先は松川さんが選んだこと。


「だから今日は、正々堂々会いに来た」
「……それって…」


頭が追いつかない。私以外の誰だってすぐに追いつかないと思う。松川さんが既に彼女と別れていて私に会うために来てくれたなんて。


「俺、やっぱり白石さんが忘れられなかったから。ずっと頭に残ってた」


松川さんの頭に私の存在がずっと残っていたなんて都合のいいこと、ある訳ない。まだ信じない、信じられない。


「白石さんの事が、好きで好きで仕方ないみたいです」


信じたくない、そんな都合のいい言葉!…と意地になって否定していた私の心はあっけなく崩れた。

松川さんが、私のことを好き。好きで好きで仕方ないって言いながら手を伸ばし、いつかのように頬を優しく撫でて、その親指で私の瞳から溢れる涙をすくい上げられればもうこれが嘘だなんて思い込むのは不可能だ。現実だ。本当だ、本当なんだ。


「…さ…さいて…さいてー」
「ごめんね」
「も、仕事中、ですしっ」
「分かってる。ごめん」
「顔、ぐしゃぐしゃになる、です」
「可愛い」


笑うのをこらえていた松川さんが吹き出すのが聞こえた。私は目の前が滲んでいるので彼の顔が見えない。今が仕事中だというのを危うく忘れてしまいそう。それも仕方の無いことだ。ずっと心に残っていた人からの告白にはそれほどの力がある。


「返事、くれる?」


松川さんは首を傾げたけれど即答は出来なかった。もちろん私も好き、と言いたいけれど私は湘南に住んでいるし、松川さんはこの旅行が終われば宮城に帰るのだから。
それに何より、再会から告白までのペースが速すぎて私の思考は止まったまま。


「遠距離だと難しいかな」
「……わかんな…急すぎて」
「分かった。店長どれ?」
「へっ」


店長って、店長?松川さんが店内を見渡し始めたので、私は松川さんの連れの男性たち(いつの間にか1人増えていた)を接客している店長を指さした。
「呼んできて」と言うので声を掛けると、店長は松川さんを覚えていたらしく明るい顔で飛んできた。


「はい、どうされました…あ?お久しぶりじゃないですか?」
「覚えててくれたんですね」
「そりゃもう、背が高いなあって思ってたんで印象的です」


どうやら松川さんは私以外の人の記憶にも残っていたようだ。店長は懐かしそうに「また出張ですか?」「今回は休暇です」なんて会話をしている。松川さんはひと通り話したあと、頭をぽりぽりとかいた。


「久しぶりなのに突然で申し訳ないんですけど」
「はいはい」


店長は松川さんが何を話そうとしているのか知らないので、気軽に聞き返す。私も彼が何を言おうとしているのか分からないので耳を澄ませた。


「白石さんを、宮城に連れて行きたいんです」


そして聞こえたこの申し出は店長と私はもちろんの事、松川さんの友人たちも予想していなかったらしい。何人かの野太い声と一緒に私も「え!?」と声を上げてしまった。





「…まさかあの店だなんて思わなかった。教えてくれたら口説こうとしなかったじゃん」


及川さん、と後から名乗ったその人は唇を尖らせながらサラダのプレートをつついた。夜風にあたることの出来るテラス席で何故乾杯しているのかと言うと、私の引越し決定祝い…らしい。


「お前は誰彼構わず口説こうとすんな」
「誰彼構わずじゃないよ」
「まあ及川に口説かれたところで、白石さんは及川にはなびかないよ」
「えー?ほんと?」


そう言いながら及川さんは身を乗り出して「ちょっとは良いと思うっしょ」と笑って見せた。確かにどんな顔をされても突っ込みどころが見当たらないほど整っている、が。


「なびかないよね」


と、私の肩を抱き寄せる松川さんに適う人は今のところ存在しない。だから及川さんには申し訳ないけれどもきっと一生なびかない。


「…なびきません。」
「ぷぷ」
「けっ!爆発しろ!」
「でもごめんね、急に引越し決まっちゃったけどほんとに良いの?」


松川さんの心配事は今更過ぎるけれどもっともだ。しかし今の家はいつ出ても違約金が発生するような契約ではないし、今年に入ってから実家を出たばかりなので、三重県の親からすれば私が神奈川に居ようと宮城に居ようと変わらないと思う。


「大丈夫です…実家じゃないですし」
「そっか。まあそのへんの手配は及川に手伝わせるから」
「俺は何でも屋じゃないけどね!べつにいいけど!顔は利きますんで!」


何杯目かのビールを飲みながら及川さんが言った。顔が利くとか、今朝言ってた熱愛写真がどうとか、この人は一体何者なんだろう。


「…あの、及川さんって何してる人なんですか?」


私が聞くと4人の男性は顔を見合わせた。そのうち3名は松川さんに「言ってないの?」と言いたげな視線を送っている。松川さんは携帯電話を取り出しながら「あれ」と呟いた。


「いつだったか写真見せなかった?…あった、これ。こいつバレーの選手」
「………あー!!」


過去に松川さんの部屋で見せてもらった高校時代の部活の写真、そこに写る清々しい笑顔をした男性は今、4人とも同じテーブルに座っていた。全員分の顔を見比べると確かに一致していて、「及川徹」で検索するとしっかりとバレーボールチームの公式ページに載っている。


「一緒に観に行こうか」
「…え、でも」
「まあ時々仙台でも試合するからね。そん時来てよ」
「はい決まりー」


ぱんと大きく手を叩いて、及川さんの隣に座る元気な男性がその場をまとめた。
私もう、宮城県に居るこの人たちの仲間入りなんだ。その感動に浸っていると松川さんが「大丈夫?」と顔を覗き込んできたので、私はうんうんと頷いた。


「今度は車で迎えに行くから」


そして言われたこの言葉にも、声もなく頷くしかない。私は松川さんの恋人となれたのだ、まごうこと無い恋人同士。
ほんの少ししか同じ時間を過ごさなかった松川さんとの恋だったけど、それは海に消えること無く宮城県の美しい自然の中へと場所を移してゆくのだった。
湘南でのひと夏の恋は、これでお終い。

夏の名残にあなたをください