期末テスト。

これを乗り切れば楽しい楽しい夏休みがやってくる。お祭り、プール、キャンプ、バーベキュー、大好きな赤葦くんと色んなところへ遊びに行ける。
…なんて事はなく、彼は夏休みもバレーの練習で大忙しの予定だ。


しかしテスト期間中は部活が早めに終わるようになっており、赤葦くんの練習が終わるのを勉強しながら教室で待っていた。
そして、途中から練習を終えた赤葦くんが教室に戻ってきて1時間ほど二人で勉強をするのがここ数日続いている。


静かな教室で二人きり、私の前の席に座った赤葦くんが後ろを向く形で、ひとつの机で勉強をする。
首からかけたタオルでたまに額の汗を拭く姿がとても素敵だ。


「今日はこのへんにする?」


ふいに赤葦くんが言った。
外を見れば空は夕焼けに染まっていて、まだ明るいとはいえ、日が長いだけなのでもう遅い時間だ。


「うん…はあ、集中してると疲れるねー」
「すみれは普段からもう少し集中しな。注意力散漫すぎ」
「…ハイ」


赤葦くんが勉強道具を片付けながら言った。
彼の指摘のとおり私は集中力や注意力に欠けていて、例えば逆方向の電車に乗るとか信号が赤なのに渡るとか(前の人が進み出したからついて行ってしまったんだけど!)そういう事がたまーに起こる。


「テスト終わったら、すぐ練習?」
「そうだね。少しの時間も勿体無いし」
「そうだよねー…」


期末テストの最終日から、バレー部はいつも通りの練習を開始する。テストは半日で終わりなので、厳密には午後いっぱいすべて部活をする事となる。

赤葦くんの尊敬する先輩たちにとっては最後の大会なのだから当然だ。私とふらふら遊んでる暇なんて無いって、分かってるけど。


「…すみれといる時間が勿体無いとかじゃないから」
「分かってます!」
「ゴールデンウィークみたいにイジけんなよ」
「わ…分かってます」


ゴールデンウィーク、泊りがけの合宿でバレーに打ち込む赤葦くんを素直に応援することが出来なくて私は機嫌を損ねてしまった。
それなのに私の気持ちを汲み取り、付き合い続けてくれる赤葦くんはまるで菩薩。


マネージャーになれば常に一緒に居られるのではないかと思うけど、「赤葦くんと一緒にいたい」とか、そんな理由でマネージャーになるのは嫌だった。真剣にバレーをしている他の人たちに失礼だから。

それについては「よく分かってるじゃん」と褒めてくれた。


「部活の後ならお祭りとか行けるもんね」
「行けるよ。合宿と重ならなければ」
「浴衣着ていい?」
「着たら?歩きにくくてコケないなら」
「気をつけるもん」
「見たいけどね」
「ええっ意地悪!」
「…コケるとこじゃなくて、浴衣姿が見たいって意味」
「………失礼しました…」


でも、赤葦くんとお祭りに行ける!合宿の日程と重ならなかったら!どうか神様、いやこの場合は顧問の先生に祈るべき?とにかく誰か、お願いします。


「赤葦くんの浴衣姿も見たいなぁ」
「男の浴衣なんか需要あんの?」
「男のっていうか赤葦くんのが見たい。絶対似合うよ」


そう言うと赤葦くんが机の上に肩肘ついて、手のひらで口元を隠すようにした。これ、赤葦くんが照れ隠しをする時の仕草。


「…すみれは夏祭りいけたら嬉しい?」
「え?うん、すごい嬉しい」
「それだけでいいの?」


そう言いながら、赤葦くんが机の上に手を置いた。手のひらを上にして。それを見てると、そのまま手を数回上下に揺らす。

これは「手、つなご」の合図。

いまだに照れくさくて、顔を伏せながら赤葦くんの手の上に私の手を乗せると、その大きな手で優しくぎゅっと握ってくれた。


「俺はお祭りに行くだけじゃ満足できない」
「うん、でも」
「手、繋いでるだけじゃ満足できないよ」
「………!」


びっくりして顔を上げると赤葦くんが真っ直ぐこちらを見ていた。

そう。私たちはまだ、手を繋いだことしか無い。ゴールデンウィーク前に付き合い始めて、1学期の期末テストが行われる今までの2ヶ月ちょっと。まだ、手しか繋いでいない。


「……あか…」
「すみれはこれだけでいいの?」
「……」


私の手を握る彼の手に少しの力が入った。
あったかい、けど、夏の夕方の気温はもうじめじめと暑くて、そのせいか互いの汗で手が湿ってくる。


「それ、どういう…」
「さすがにどういう意味か分かるよね」
「…んん。はい」
「ついでに言うと未だに苗字で呼ばれる事も不服」
「うっ」


赤葦くんが私の手を握ったまま、自分のほうへ強めに引き寄せた。

そのせいで私も少し前のめりになって、机の上にもう片方の手をついてバランスを整える。
赤葦くんとの顔の距離は、もうすぐそこ。彼の瞳はすぐこそで、彼の吐息も聞こえてくる、私の首に息がかかってる。
これでは私の心臓の音まで届いてるんじゃ?


「問題出すよ」
「え、勉強はもう終わりじゃ」
「大丈夫。絶対分かる問題」
「……どんな?」
「俺の名前って何?」


こんな近くで目を見られると、もう逃れられない。少しぼんやりしているかに見えて、実は切れ長で鋭い分析力を持つ赤葦くんの目に捕らえられると。


「…あ…あんまり見ないで」
「ヒントは三文字」
「知ってるし!」
「じゃあ答えて?」


ぐっともう一度強めに引き寄せられて、更に顔に近づく。これってまさか、このままだとキスしてしまうのでは?
いや、したいけど、まだ心の準備ができてない。キスどころか下の名前で呼ぶことすら恥ずかしいのに。


「け、けーじ、くん」


ごくり。

と、呼んだ後に唾を呑み込む。瞬きもせずにこっちを見てるもんだからうかうか呼吸できない。

すると、ふうと息をついて赤葦くんが言った。


「…まあ許容範囲。」
「恐縮です…」
「じゃあさっきの続き」
「え?」
「今こうやって手つないでるけど、」


そう言いながら赤葦くんが、指を絡めてきた。最早どちらのものか分からない汗が、じんわりと馴染んでくる。


「これですみれは満足できる?」
「あの…今は…まだ」
「手ぇ繋ぐのも、名前を呼ぶのも全部俺からだって気付いてんの」
「………」
「こんなカッコ悪いこと言いたくないけど。それなりに不安とか感じるよ、俺」


赤葦くんは、あまり感情を表に出さないようで、私への気持ちや要望はすべて言ってくれる。すごく分かりやすく伝えてくれる。

でも私は恥ずかしい、照れる、嫌われるのが怖いといった理由であまり自分から行動していなかった。それが赤葦くんを不安にさせているとは全く気付かずに。


「…京治くん」
「なあに?すみれちゃん」
「今から言うこと、引かずに聞いてくれる?」
「それって内容によるよね」
「…こういう時はウンって言うの!」
「分かった、引かないから」


言ってよ、と赤葦くんが優しく言うので私は恐怖を押しのけて、心の奥の奥のほうにある欲を伝える。

女の子がこんな事思ってるなんておかしい、女の子なのにガツガツ考えて変、なんて思われないかと。


「ほんとはキスとかしたいです」
「うん。俺も」
「で、えっとお泊まりとか…まだ早いかも知れないけどいつかは、あの」
「俺はすみれがいいなら今日でもいいよ」
「えええ!」
「まぁそれは冗談として、キスしたいんだ?」


こうやって赤葦くんは、いとも簡単に私のすべてを把握し操縦してみせる。
いつも彼の手の中で自在に操られるバレーボールのように転がされ、時には上がり、時には落ちる。


「…したい」
「教室の中でいいの?」


赤葦くんが悪戯っぽく笑った。
私がもう、この距離で、いつでもキスをしたいと思い始めてる事に気付かれているんだ。


「……今、したくなっちゃったんだもん…」
「今日は気が合うね」


赤葦くんは私の手を繋いだまま、少しだけ身を乗り出した。ガガッ、と椅子が床と擦れる音。続けて、赤葦くんと私の体重を乗せた机が少し軋む音。
そして赤葦くんの瞬きの音までも聞こえるような気がした。


「…目」
「ん、」


目を閉じて、という意味だと捉えてゆっくり目を閉じると、当然だけど何も見えない。

いつ赤葦くんの唇が触れるのか?いつ?

と、鼻に何かあたった。
これは?赤葦くんの、鼻?
という事は唇はもうすぐそこに。


そして、すごく柔らかいものが唇に触れた。


「……!」


思わずびっくりして目を開けると、目の前に赤葦くんの顔が。
私が目を開けた事に気付いて、少しだけ唇を離して赤葦くんが呆れたように言った。


「…恥ずかしいから目瞑っててくんない」
「ごめん…びっくりして」
「何に?」
「赤葦くんのが、すごい柔らかくってホントに唇なのか分かんな…」


私の言葉が終わらないうちに、赤葦くんが再び顔を近づけてきた。

二回目のキスも、やはり彼の唇の柔らかさ・みずみずしさに戸惑ってしまい私は息をするのも忘れ、目を閉じている赤葦くんの顔を間近で見てる。


「…ぷは、ちょっ、苦しい」
「苗字で呼ぶの禁止」
「ごめん、だって」
「鼻で息しなきゃ」
「そんな上手に出来ないよ初めてなんだし」
「俺も初めてだけど」


はた、とそこでわたしの思考は停止。
赤葦くんって今の、初めてだったの?てっきり経験があるのかと思ってた。前にも付き合ってる子が居たって聞いていたから。


「…そんなに落ち着いた顔してるのに?」
「そう見えんの?」


机の上で繋いだ手を、ゆっくりと赤葦くんが自分の胸へ寄せた。

その心臓のある場所へ。

絡めた指を離し私の手首を握ると、自分の胸へ私の手のひらを押し当てる。すごい。

すごく、波打ってる。


「落ち着いてると思う?」
「……思いません」
「だよね。好きな子とのファーストキスなんだから当たり前です」
「…わたしも好き」
「知ってるよ」


するともう一度ぎゅっと強く指を絡めて手を握り、赤葦くんが「すき」と口だけ動かした。

ずるい人。私の方が絶対に好きだ。こんなに私のことを分かっていて、優しい人なんて彼の他には居ないに決まってる。


「…夏休みね、練習見に行きたい」
「いいけど隅っこのほうでね」
「ボール飛んでくるから?」
「それもあるけど…」


珍しく赤葦くんが歯切れの悪いことを言う。
どうしたのかと顔を上げれば赤葦くんは、夕焼けの色なのかどうか分からないほど顔が赤くなっていた。それを見て私も赤くなる。

彼が何を思っていて、何と言おうとしているのかが分かってしまって、熱い。


「赤葦くんもそんな顔、するんだ」
「赤葦くんじゃないけどこんな顔するよ」
「ごめん!京治くん」
「…まあ夏休み中には慣れてよね」


期末テスト。

これが終われば楽しい楽しい夏休みがやってくる。お祭り、プール、キャンプ、バーベキュー、大好きな赤葦くんと色んなところへ遊びに行ける。
…なんて事はなく、彼は夏休みもバレーの練習で大忙しの予定だ。


私たちはプールもキャンプも行かないけれど、この夏休みに何か特別なことが起きるだろうと予感していた。

何かと問われると分からないけど、きっと彼も同じだろう。心の奥で、きゅううと変な気持ちが縮こまり、それがこの夏たぶん爆発するのだろうと。
夕方、教室、ふたりきり。