09


ほんの一瞬だけ私の世界はきらきらに輝いて、花が咲いたような、夢のような時間を過ごせていたけれども、ほんの数日前にその夢は全て醒めてしまった。

あの日、魂が抜けたような状態の私を見送った後、松川さんはどんな気持ちだったろうか。そんなことは知る由もない。あれで私と松川さんの関係はすべて終わりになったのだ。

まさか失恋を理由に仕事を休むわけにもいかないし、休んだところで松川さんの事ばかり考えて駄目になってしまうので、私はいつも通りに出勤をした。店長は「いつもより良く動くね」なんて言ってくれるけれど、動いていないと余計な事を考えしまうから仕方が無い。気を紛らわせるには別の事に集中するしか無いのだった。
それでもお客さんがお店に入ってくるたびにどきんと一瞬緊張がはしるのは、もしかして松川さんが来たのではないか?という期待がどうしても抜けきらないから。

松川一静、夏の短いあいだにも関わらず私の心を奪ってしまった人。そしてその私の心をどこかに持っていくのではなく、その場にぽとりと置いたまま消えてしまった人。
きっと誰に話したって松川さんの事を非難するだろうと思うし、私なら友人から同じ話を聞けば憤慨するだろう。でも、少しの時間を共にしただけでこんなにも人の心は燃え上がり、他の何も考えられなくなる事があるのだ。ドラマの世界のような、言葉どおりの「燃えるような恋」。

決して美しくはない、綺麗で儚いという形容詞からは程遠い恋。それなのにずっとずっと私の心に残るのだった、松川さんと話した事も、行った場所の風景も、触れた肌の感触も。


「今日、何日だっけ?」


ある日、ふとお店の先輩から聞かれたのでカレンダーに目をやると8月25日であった。間もなく夏が終わる。
松川さんが宮城県に帰ってしまうのは明後日、28日だ。あれから10日間ほどが経過しているが松川さんは一切姿を現さない。私が時折海に出ても会う事は無い。散歩の時間を増やしたってすれ違わない。まさか家まで行く事なんてできやしない。

けれども最後にもう一度、帰ってしまう前に一瞬だけでも会いたいと思うのは我儘なんでしょうか。あれほど私を大切に扱っておきながら突然会えなくなるなんて、こんな仕打ちがあるのでしょうか。





8月28日、快晴。松川さんが宮城県へ移動をする日。運命のいたずらか、私の仕事は休みであった。昨夜は全く眠れなくて「今から家に行ってしまおうか?」「電話をかけようか?」と何度葛藤したか分からない。結局そんな勇気は出て来ずに朝を迎えてしまったのだ。

松川さんは新幹線で帰ると言っていた、新横浜から乗るのだと。湘南から新横浜なんてちょっと不便だよね、なんて笑っていた優しい口元をもう一生見る事が出来ないなんて耐えられない。これが最後でもいい。もう絶対に我儘は言わないから、一生誰にも無理なお願いはしないから会いたい、そうでなきゃ胸が張り裂けそうだ。会いに行こう、まだ間に合うかもしれない。

決心してからすぐに家を飛び出して、汗をかくのも構わずに松川さんが滞在していたマンションへと走った。


「こんにちは」


建物の入り口には大家さんか管理人さんのような男性が居て、ちょうどロビーの掃除をしているところだった。
走ってきた私に気付いた男性が挨拶をしてくれたので私も挨拶をしながら通り過ぎ、中に入ってエレベーターに乗る。まだ朝の8時だ、出発していないかも知れない、まだ居るかも。

5階のボタンを押してから到着するまでがとても長く感じられ、ドアが開いた瞬間に私は一歩踏み出した。
真っすぐに松川さんの部屋へ向かい、以前と変わらぬ玄関のドアがある事にほっと胸を撫でおろす。そして、すぐにどくりどくりと心臓が波打つ。まだ、中に、居るかもしれない。インターホンを押せば出てくるかもしれない。松川さんに最後に一目、会えるかもしれない。


「………」


お願いまだ中に居て、という気持ちを込めてインターホンを押す。ぴんぽーん、と音が響いて一層私の鼓動は速まった。押してしまった。出て来たらどんな顔をしよう。なんて言おう。

けれどその心配には及ばないのだった。いくら待っても中からは誰も出て来なくて、もう一度インターホンを押しても応答が無い。ドアノブを回してみたけれど、まったく動かなかった。中に居ないんだ。誰も。
松川さん、もう帰ってしまったんだ。


「どうしたの?」


魂が抜けたような表情で歩く私がよほど危なっかしかったのか、建物を出たところで先ほどの男性に再び声をかけられた。このマンションの人ならばもしかしたら、知っているかもしれない。松川さんの事を。


「…あの…504号室に住んでた人って、もう出ちゃったんでしょうか」


私が聞くと、その人は「504?」と繰り返したがその後はうーんと唸るのみ。期待外れだったかも知れないなと思った時、その人は声のトーンを上げて言った。


「ああ、東北のほうから来てたって人?背の高〜い」
「…そうです、その人!」
「あの人なら昨日の夜に出てったよ。始発の新幹線になったから、新横浜にホテル取ってるって」


何か用でもあったの?とその人は続けたが、私の耳には入ってこなかった。

やはりもうここには居ない。それどころか昨日の夜には居なかったのだ。
どうして私に教えてくれなかったの、という勝手な怒りさえ湧き出てくる。もう私、松川さんとは関係の無い人間なのに。宮城県に帰れば彼女さんが待っているのに。どんなに寂しかった事だろうか、そばに居た恋人が2カ月も神奈川に出張だなんて。どんなに悲しむだろうか、その神奈川で私のような自分勝手でどうしようもない女と知り合ったばかりに浮気をしていたなんて。

忘れよう、これっきりで。
夏が終わろうというのに空はこんなにも青く、海はこんなにも穏やかで、私一人の失恋なんか一気に飲み込んでくれそうだ。この海に捨てよう、2カ月間の想い出を。

しばらく入っていなかった海に出て、息の続く限り深いところまでもぐり、目の前に広がる真っ青な風景をただただ眺めていた。全部この海が忘れさせてくれるはず、そうすればきっと綺麗に終わらせることができる。だから松川さんも私の事は忘れてくれますように。





何週間、何ヶ月かが経過したある秋の日、気温は下がれど私はやっぱり海が好きなので晴れてさえいれば海に出る。
それは私だけでなく、サーフィンをする人たちはウェットスーツを着れば真冬だって波乗りをしているのだ。私はあまり寒いのは苦手なので、そろそろ海に入るのはやめようかな、という時期だけれども。

松川さんが居なくなってからというもの、彼を忘れるためにとにかく暇さえあれば海に来ていた。そのおかげで前よりも上手くなっているのが自分でも分かる。皮肉なものだけど、何かに集中すれば一瞬でも気が紛れるから。
やっと心の整理がつき始めたので比較的落ち着いて海から上がり、荷物を置いていた場所まで着いて腰を下ろした。


「すごい上手ですね」
「………」


知らない声に振り返ると、テレビでしか見たことのないような美しい男性が砂浜に座っていた。誰に声をかけたんだろう、私?ときょろきょろしていると、彼はくすりと吹き出して続けた。


「お姉さんだよ、他に居ないじゃん」
「え、あ…どうも」
「このへんの人?」
「………はい、一応…」


えらく馴れ馴れしい。しかしそんな態度でも私を悪い気にさせないほどの整った外見に、どことなく紳士的な雰囲気を持っている不思議な人であった。それに私のことを「お姉さん」と言ったのが最初のころの松川さんを連想させてしまい、戸惑ってしまったのだ。


「俺実は今日が初めてで、良かったらコツとか教えて貰いたいなぁと」
「え、コツ…」
「どうせなら可愛い女の子に教えてもらいたいじゃん?」
「……いや、すみませんそういうのは、」


しばらく男の人とどうこうするのは止めたい。海で偶然同じ趣味を持つ人に出会ったとしても、その人がいくら格好よかったとしても。
だから丁重に断ろうとしていた時、その人の背後から別の男性が現れた。すごく眉を寄せながら。


「おい」
「うげ」
「うげ、じゃねえぶん殴るぞてめえ」


同じくサーフィンをしに来たらしい男性は、座り込んでいたその人を軽く蹴り飛ばした。「軽く」に見えたけれども力が強そうなので、実はかなり痛いかもしれない。


「いって!まだ何もしてないよ怖いなあ」
「ついこのあいだ熱愛写真撮られたばっかりだろうが!すみませんコイツの事は無視してください」
「はあ…」


お辞儀をされたので私も軽く会釈を返し、お言葉に甘えて無視してその場を去ることに。
「熱愛写真」ってこの人芸能人か何かだろうか?確かに顔は非の打ち所がないほど美しかった。座っていたから確かなことは分からないけど背も高そうだったし。「マッキーたちはー?」「まだボード選んでる」という彼らの声が響く海からは、今日はもう帰ることにした。

少しでも松川さんの事を思わせるような言葉遣い、雰囲気の人とは一緒に居たくない。せっかく海のおかげで忘れようとしていたのに。

インナー・サマーブルー