丁寧だけれども私より少しだけ筆圧が高く枠線から少々はみ出た文字、ところどころに落書きを乱暴に消したような跡。私の鞄に入っていたこれは他人のもので、ノートを閉じれば表紙にはっきりと「夜久衛輔」と書かれていた。

実はつい最近席替えが行われたばかりで私と夜久くんの席は隣どうし、ノートを配る人が間違えて私の机に置いてしまったのかも知れない。油性のネームペンで「夜久衛輔」と書かれているので当然私はすぐに気付いた。自分の鞄にノートを入れる前に。
にも関わらず、すかさず鞄に入れてしまったのには理由がある。このノートは私の想い人の私物だからだ。


「や、く、も、り、す、け…」


表紙に書かれた名前の文字を指でなぞれば、彼がどんな気持ちで名前を書いたのかが分かる気がしたけれどそんな訳もなく。分かったのは夜久くんが「夜」とか「久」の字のはらう部分を結構長めに書いている、と言うことであった。

好きな人のノートを隅から隅まで盗み見する事に興味があったけれど、さすがに私にだって人の心と言うものが残っている。
が、それよりも悪戯心(と言うより、乙女心だと思いたい)が勝ってしまった私はピンク色のペンを手に取り真っ新なページを開く。一番上の空白部分にさらさらと文字を書いてゆき、何度も見返して満足してから夜久くんのノートを閉じた。

いつも夜久くんが使っている夜久くんのノートに私の文字が。一人部屋なのをいい事に、ふふふと小さな笑い声を漏らしてノートを鞄へと戻した。





翌日、古典の授業の冒頭、先生は授業と関係の無さそうな長〜い話をしているのであまり耳に入ってこない。そんなことより隣の席の夜久くんは、私が今朝こっそり彼の机に戻したノートを見てどんな反応をするだろうか?と気になって仕方がないのだ。

やっと先生は「まあそんな話は置いといて、教科書の124ページ」と本題に入った。一気に教室内にはぺらぺらとページをめくる音、カチカチとシャープペンで筆記の用意をする音が響き渡り私も例に漏れずシャープペンを取り出した。
ペンケースの奥には昨夜、夜久くんのノートに悪戯をしたピンク色の犯人も居る。それを見てまたふふっと口元がゆるんだ時、隣の椅子ががたりと揺れた。

きっとその揺れは、私と、彼の前後の人しか分からないであろう小さなもので。けれど咳をした訳でも椅子を引いたわけでも無い彼の椅子が何故音を発したのか、その理由は私にしか分からない。顔の横に垂らした髪のあいだから盗み見た夜久くんは、真っ直ぐに自分のノートを見下ろしていた。その一番新しいページにあるピンク色の文字を。


「うわ、今日の弁当うまそ」


昼休みは決まって夜久くんの席へやってくる同じクラスの大きな子、黒尾くんは自分のお弁当を開いてえらく感動していた。ぶりの照り焼きが入っているらしい。
私も友人がやって来たので自分の席にお弁当を広げて、他愛のない会話を繰り広げた。昨日のドラマがどうだった、今日の運勢はこうらしい。隣の机でも黒尾くんと夜久くんが何かを話しているのを盗み聞きしてみた…英語の宿題やってない、古典の宿題が分かんねえ。そんな話をしている時に夜久くんが小声で話を始めた。


「そういやさ…俺、昨日ノート失くしたって言ったじゃん」
「古典?」
「そう。それが見つかって」
「良かったじゃん」
「………」


黒尾くんはぶりの照り焼きを美味しそうに食べながら言った。私はそんな二人の会話を聞きながら友人との会話を続けた、「わかる!あの歌いいよね」と。


「大きい声出すなよ?」
「何?何かサプライズ?」
「絶対騒ぐなよ」


そこから先、夜久くんの声は聞こえなかった。黒尾くんに極力顔を近づけて、とても小さな声で何かを伝えている。やがて黒尾くんが「えっ!?」と大声を出したのを合図に夜久くんのボリュームは元に戻った。


「うるせえよ!騒ぐなって言ったろ」
「え、ていうかそのノート見せて」
「バッカお前静かにしろよ」


夜久くんはぐちぐち言いながら机の中のノートを取り出した、昨夜私の部屋で過ごした古典のノートを。思わず笑顔になってしまうのをこらえて、「ボーカルが復帰したばっかりなのに凄いよね!」という友人の話に耳を傾けるふりをする。

夜久くん、ここから先あなたたちがどんなに声を抑えようとも意味は無い。今まさに例のページを黒尾くんに見せているのも、真横にいる私には全て丸見えである。


「…ミステリアスですな」
「はあ…気になる…やべえ、つーか怖い」
「怖いの?何で」
「いや……んー、とにかく…ちょっと怖い」


やり過ぎてしまったのかもしれない、夜久くんは私の悪戯に恐怖を覚えているようだ。謝りたいけどそんな事をしたら私の所業だとバレてしまう。心の中で「びっくりさせてごめんなさい」とお詫びをしながら、今度こそ友人との話に集中する事にした。





5限目、英語。先生の話す英文は生徒達が船をこぐのにはもってこいだった、少なくとも私以外。
だって私の開いた英語のノートには私以外の字で文字が書かれているもんだから、目が冴えてしまったのだ。


「………」


思わず身体が震えてがたりと椅子が鳴り、声にならない声、少しだけの空気が口から漏れている。その文字を声に出さずに読み上げる、たったの四文字『好きです』と。

真っ赤なボールペンで書かれたそれは、その色しか持ち合わせがなかったのか、溢れる情熱を赤という色で表現してくれたのか、どちらにしても真っ白なページの真ん中に書かれているお陰でたいそう目立っている。

いったい誰がこの文字を私のノートに、いつの間に書いていったのだろう。「この文字を書いたのは誰?」という疑問が頭の中を駆け巡り、やがて、ひとつの感情が浮かぶ。「怖い」。怖いというより、ひやっとする。それなのに時折とても熱くなる。その熱が治まったかと思えばまた怖くなる。
何故怖いのかって、それは昨夜私が夜久くんのノートに全く同じ四文字を書いたからだ。

昨日の英語を受けた時、ここは確かに真っ白だった。そういえば昨夜は夜久くんのノートに気を取られていたけれども、英語のノートを持ち帰り忘れていた気がする。ということは昨夜、同じ時間に私と同じことをしていた人物がもうひとり。

それが夜久くんである可能性は?まさかそんな事があるだろうか?夜久くんは今、どんな顔をしている?ちらりと隣の席を見ようか、と思った時にちょうど机の端に置いたピンク色のボールペンを落としてしまった。

かしゃんと音をたてて落ちたそれを慌てて拾おうとすると、同じタイミングで何かが降ってきた。真っ赤なボールペンが横たわるピンク色のペンの横に、ころんと転がる。
それを見た瞬間に浮かんだのは私のノートで主張している赤い四文字で、そのボールペンを拾い上げようとしたのが夜久くんであるのを気付いた時、私は自分のペンを拾うことを忘れた。赤いほうのペンを手に取ってしまったのだ。


「………」


拾い上げたペンを見つめながら身体を起こす。ただその身体は黒板のほうを向くことなく、隣の席に向けられた。夜久くんが同じくらいの目線で私を見る、その手には私のピンク色のボールペンが。
彼は声に出さずに「白石」と口を動かし、そして、少しだけ首を傾けた。私も同じように「夜久くん」と呟き首を傾けた。「もしかして?」の意味を込めて。

私たちはどちらからともなく身体を前に向けたけれども先生の顔を見ることはなく、真っ先に自分のノートへペンを走らせる。私は英語のノートの真ん中にある赤い文字の横へ、夜久くんはごそごそと机を漁り取り出した古典のノートにあるピンク色の文字の横へ。
出てきたインクの色と線の細さを見ればすべては一目瞭然で、二人とももう一度互いのボールペンを落っことしたのだった。

四文字では尽きない話
仲良くしてくださっているいおさんへ捧ぐ。「両片想いのクラスメイトとノートを間違える」というテーマで私は夜久さん、いおさんは川西太一を書かれていますので、是非そちらもお読みくださいまし…