20170822


練習が行われる体育館からは少し離れた木陰、屋外だけれども風のお陰で体育館内よりは幾分か涼しい。
その場所で地べたに座り、自らの頭を膝の上にことりと預け、肩で息をしている情けない男は誰かと言うとまさに俺。ついさっき練習中にふらついてしまい、とうとう頭がぼんやりして倒れてしまったのだった。


「これで冷やしてて、また後で来るから」


きっと熱中症だねと優しく微笑んでくれた白石先輩の向こうには、一応様子を見に来てくれた監督の姿があったけど俺に声をかける事は無く練習に戻って行った。

レギュラーの皆と同じ練習をしているのに俺だけがリタイアしてしまったのはきっと暑さのせいだ、と思いたいが恐らくそうじゃない。真夏に毎日行われるきつい練習を、去年も一昨年も経験している先輩と自分の体力に差があるだけで。

ゴールデンウィークだって相当な練習量だったけど、気温が高いというだけでここまで辛いとは思わなかった。このまま氷と一緒に溶けて無くなりたい。


「五色くん大丈夫?」


どのくらいの時間が経過したのか、気づけば本当に氷は全て溶けてしまっており白石先輩が新たに氷が入ったビニール袋を持って来てくれた。先輩にこんな姿を見られたという失態を明日の自分は決して許さないだろうけど、今はもう従うしかない。それくらい体力が削られてるから。


「大丈夫です。すみません」
「いいよいいよ」


そう言いながら白石先輩は、既に溶け切った氷水を近くの花壇に撒いた。
新しい氷まで持って来てくれるというこの対応は、女性慣れしていない俺の気持ちを揺さぶるには充分すぎる内容だ。例え倒れたのが俺ではなくたって白石先輩は同じように行動するんだろうけど。


「1年で一人だけレギュラーと同じメニューだもんね。いつかバテるだろうとは思ってたよ」
「…でも、歳は関係ないと思うので」
「ふふ、そうだね」


俺の負けず嫌いを簡単にいなされてしまって、ちょっとだけ気が抜けてしまう。聞くところによると他の先輩も、必ず何人かは夏休みの練習中に体調を崩すのだそうだ。
でも牛島さんはそんな事ないんですよね、と聞くと「うん、聞いたことないね」と白石先輩は笑った。もし牛島さん以外の全員が倒れていても牛島さんがぴんぴんしているのなら、それだけで俺の負けである。


「歳って言えば、今日誕生日だよね?」
「……え?」
「五色くん。8月22日」


新しい氷水のおかげでやっと働き始めた頭で考えると、そういえば今日は誕生日だった。親からメールが来てたっけ。


「俺の誕生日、知ってたんですか」


どこでどうしてどのように誕生日を知り、それを何故覚えてくれていたのだろうか。俺が質問すると白石先輩は自らもタオルで首元の汗を拭きながら言った。


「部員みんなのデータとか持ってるから。身長とか…そこに誕生日も書いてあるの」


ほんの少し淡い期待を持って投げた質問だったけど、その答えを聞いて期待はどこかに消えた。

俺よりひとつ年上の白石先輩は、俺が言うのもなんだけど物覚えがとっても良くて、聞いた事にはすぐに答えてくれる。監督が部員の情報を聞いた時に即答しているのを聞いた事があるし、それらの内容は全て彼女が持つファイルに入っているのでそれを見れば何でも分かるのだそうだ。

という事は俺の誕生日以外にも、部員みんなの誕生日が彼女の頭ないしはファイルの中に入っているという事。


「…そうなんですね。ちょっとびっくりしました、何で知ってるんだろうって」
「そう?」


白石先輩は何故だか俺のとなりに腰を下ろした。俺はぎょっとして身体がびくっと震えてしまったと思う、ここは日陰で風通しもよく気持ちが良い場所ではあるけれど、まさか隣に座られるなんて思わなかったから。それも、好きな人が。


「ここ涼しいね」
「……はい。あの、体育館のほう戻らなくて大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっと休憩して来いって言われたから」
「え、」


休憩の時にわざわざ俺の様子を見に来てくれるなんて、もったいない時間を使わせてしまった。スタメンやベンチメンバーの中で一人だけぶっ倒れてしまった(しかも、その現場を見られた)と言うだけで絶望的なのに。せっかく夏休みで授業が無く、白石先輩と過ごせる時間が増えているというのに駄目なところばかり露呈しているじゃないか。

先輩が冷やしてくれたタオルでぐしゃぐしゃと顔を拭き、一刻も早く練習に戻ろうと腰を上げる。が、持っていたタオルを「待って」と引っ張られてしまい俺はもう一度そこに尻餅をついてしまった。


「いて」
「あっ、ごめん。まだ休んでる方が良いんじゃないかと」
「もう平気です」
「本当に?じゃあちょっと待って」


すると、先輩は持っていた袋をごそごそと漁り始めた。白いティーシャツが汗で肌にべったりと張り付いているのが見えて、思わず視線を落とす。見てはいけない秘密を見てしまった気がして。
やがて白石先輩が袋から取り出したのはペットボトルであった。


「これあげる。熱中症に良いんだって」
「……ありがとうございます」
「あ、あとコレ!」


更に取り出されたのはピンク色の容器に入った制汗スプレーで、俺が何かを言う前に突然首元にしゅっと吹きかけられた。


「うわっ」
「どう?気持ちいい?」
「冷たいです…気持ちいいですけど」
「良い匂いでしょ」


白石先輩は悪戯っぽく笑うと、スプレーも一緒に俺に押し付けてきた。これも持って行けという意味らしい。


「くれるんですか?」
「あげるー」
「でも」
「ほら、早く行かなきゃ置いてかれるよ」


さっき立ち上がろうとした俺と引き止めた白石先輩が、今度はぽんぽんと俺の背中を押した。


「…あの。ありがとうございました」
「いいよ。ガンバレ」


木陰で手を振る先輩に背を向けて、ちょっと名残惜しいなと思いながらも体育館への道を歩いた。意識や足取りはさっきよりもしっかりしているから、少しずつ様子を見ながら練習に参加させてもらおう。

その前にちゃんと水分補給しておかなければ、と白石先輩に貰ったペットボトルをぐびっと飲むと更に頭が冴えたような気がする。きっと俺以外が体調を崩したとしても、先輩はこんなふうに優しく接してくれるんだろうけど。平等な優しさを今だけは俺のものだと思う事にしよう。

体育館に入る直前、最後にもう一度先輩がくれたスプレーを振ってみようかなと取り出した時に、せっかく冷えた俺の身体は再び熱くなった。


『いつも頑張っている五色くんが好きです。誕生日おめでとう』


スプレーの容器に黒いマジックで書かれていたそれは、紛れもなく白石先輩の字であった。思わず体育館の外に目をやる。先輩はまだ木陰で休憩しているのか姿が見えない。残念なような安心したような気分だ、今この瞬間の顔を見られたらきっと笑われるに違いない。

スプレーは誰にも見つからないようにタオルをぐるぐる巻きにし、体育館の端にそっと置いてコートの中へと走った。練習が終わったら、お礼と一緒に聞いてみようか。そして言ってみようか、俺の気持ちも。

その後はずっと俺の身体から、いつも白石先輩から香るのと同じ制汗スプレーの香りがほんのり漂っていた。

Happy Birthday 0822