07


あのまま二人とも眠ってしまい、気づけば朝になっていた。
土曜日だから松川さんは仕事がお休みだけど私は行かなきゃならない。枕元の時計を見ると7時過ぎだったので、9時半の出勤に合わせてそろそろ起きようかと身をよじる。


「…ん」
「あ、ごめんなさい…」


私が起き上がろうとしたせいで松川さんの目が覚めてしまったようだ。
ようやく気付いたけど今私の頭の下には松川さんの腕があり、もう片方の腕も私の身体に回されている。松川さんの胸の中で眠っていたんだなあと幸せな気分になったけど、もう起きなくてはならない事がとても残念に思えてしまう。


「おはようございます」
「…おはよ……?」


彼も寝ぼけているのか、起きた瞬間目の前に私が居る事を確認するとぱちりと目を丸くした。そして布団にくるまっている互いの身体を見て、ああ昨日あれから寝てしまったのだと気づいたらしい。


「…ごめん。俺風呂入ってない」
「だ、だいじょうぶです!シャワー浴びますか?」
「うん…白石さんは時間大丈夫?」
「はい」


私はまだ少し余裕があるので、先にシャワーを浴びてもらうように促した。起きたばかりの顔をじっくり見られたく無いのも理由のひとつだけど、今松川さんが私を「白石さん」と呼んだことで一気に現実に戻ってしまい、やっぱり昨日のあれは昨日限りの事だったんだと実感してしまったから。

松川さんがシャワーを浴びているあいだに簡単な朝食を作って、と言っても私がいつも食べているのはサンドイッチとフルーツと最近ハマっている手作りスムージーなので男性の口に合うかどうか。


「シャワーどうも…うおっすげえ」
「簡単なものですけど…次シャワー浴びてくるんで、食べててください」
「ありがとう」


そう言って笑う松川さんの顔は確かにいつもの松川さんなのに、昨夜の事ばかり考えてしまっていけない。もう朝なのに。私の身体はまだまだ松川さんを欲している。
私もぱぱっとシャワーを浴びて髪を適当に拭き、予め脱衣所に持ってきていた服に着替えようとすると突然松川さんが入ってきた。


「わ」
「わっ、ごめんトイレ借りようかと」
「あ…あ、はい、」


ぱたんと脱衣所と繋がっているトイレのドアが閉まる。ワンルームマンションはこれだからいけない。しかも松川さんがトイレから出てくるのを、私はここで待たなくてはならないのだ。鏡の前でドライヤーを使わなきゃならないから。

スイッチを入れてぬるい温風が出るようにし、髪全体を乾かしているとすぐに松川さんが後ろのドアから出てきた。
私は少しだけ横によけて、彼が手を洗えるスペースを作る。そこにすっと入り込んできて手を洗う松川さん。…なんだか同棲しているみたい。一緒に住んだらこんな感じなのかな。


「貸して」
「…へ」


手を洗い終えた松川さんが私のドライヤーを取った。と、そのまま私の頭を乾かし始めたではないか?


「松川さ…」
「泊めてくれたお礼ね」
「……」


そんなの、泊まってもらったのはむしろ嬉しい事だった。濡れた髪の毛がどんどん乾いていくのを感じる。私の髪が乾けば乾くほど現実に引き戻されていく。
けれど時折松川さんが私の髪を手ぐしで梳いて、その指が首筋に当たるとどきりと身体が反応してしまうのだった。


「これくらいでいい?」
「はい、ありがとうございます」
「ドライヤーどこに仕舞う?」
「あ、そのへん適当に…」


適当に置いといてください、と指示しようと振り向いたすぐそこに、まだ上半身裸の松川さんの胸板が。いきなり視界に広がった濃いめの肌色にびっくりして、一晩中ここで眠っていたのかといういやらしい事実に身体が熱くなった。私、これから仕事なのに。


「…すっぴんだね」
「!!」


そうだった!さっきメイクを落としてしまったから今は全くのノーメイクなのだ。


「あっち行っててください!」
「え、もうちょっと見せて」
「ダメです!」


髪が乾いたのをいい事に逃げ出そうと脱衣所から足を踏み出そうとしたけど、がっちりと腕を掴まれて逃がしてもらえなかった。それどころかそのまま引っ張られ、あっと言う前に松川さんの目の前へ逆戻り。恥ずかしいすっぴんが松川さんの顔のすぐ近くへ。今の動きで私の顔にかかった髪をそっとはらって、じっと私の顔を見る。


「…だめ…って…言ってるのに」
「ちょっとだけ」


そこまで近づけばもう見られるだけでは済まなくて、柔らかく唇が触れあう私たちの姿が鏡に映されてしまった。





それからというもの私たちは、毎日ではないけれど時々こんなふうに会っては身体を重ねる事になったのだ。もちろん海でサーフィンをするだけの時もあれば、予定が合った時にはどちらかの家に泊まる事も。
松川さんの家は私の家から徒歩10分かからないくらいの距離で、駅からはちょっと遠いけどあんまり苦じゃないよと笑っていた。

会うたび会うたび私の気持ちは松川さんへと傾いていくのを感じ、それとともに恐ろしさは巨大になっていく。間もなく会えなくなる。こんな身体だけの関係を持つ私たちは、きっと松川さんの出張が終わればぱったりと終了してしまうのだろう。
その前に気持ちだけでも伝えるべきなのかどうか、そればかりを考えながら松川さんとの熱い夜を過ごしていた。そしてその夜のあいだだけは、互いを名前で呼び合うのだった。

そして、あと半月ほどで松川さんが帰ってしまう時期となった。初めて会ったのは1か月半前、初めてセックスをしたのは…半月ちょっと前くらいだろうか。まだ半月なのか。密度の濃い半月間だった。これが永遠になればいいのにって思うくらい。


「宮城、戻りたいですか?」


そんなある日の熱帯夜、松川さんの部屋で二人並んでテレビを見ていた。
ちょうどそのテレビ番組で宮城県の特集をしていたもんだから、ここが松川さんの帰る場所なんだとしみじみ思ってしまってこんな質問をした。

松川さんは私がどんな気持ちで聞いたのか察してしまったみたいで、答えが返ってくるまで時間がかかっている。何でこんな事聞いちゃったんだ私は。


「…そだね。地元だからね」


そして、当たり障りのない答えしか返ってこない。


「どんなところですか?」
「何も無いよ」
「友だちは宮城に居ます?」
「居る居る。1人だけ東京行ってるけど、他はみんな地元残ってる」
「東京かあ」


こっちでの生活が落ち着いたら東京にも遊びに行きたいなと思っていたけど、どうせなら松川さんが居る間に一緒に行きたいなあと思ったり。欲が出てしまう。


「東京って行った事ありますか?」
「何回か。そいつバレーボールの選手だから、地元のやつと応援行ったりして」
「え!バレー」
「そうそう」


バレーボールって全然詳しくないから分からないけど、話を聞くと松川さんも中学高校大学とバレーボールをしていたらしい。背が高いのと、バランス感覚や運動神経が良いのかそのためか。
どんな感じだったのか聞いてみると「見たい?」と言ってくれたので、昔の写真を見せてもらう事になった。


「これ。こいつ」
「へえー」


松川さんが見せてくれた写真には4人の男の人が写っていて、その中で一番背が高いのが松川さんだ。あんまり顔が変わってないなっていうのは言わない方が良いのかな。
松川さんは横に立つ端正な顔立ちの人と肩を組んでピースサインをしていた。その、横の人が東京でプロのバレーボール選手なのだとか。


「この人は何て言うチームに…」


と、聞こうとしたときに画面が切り替わり、松川さんに電話が来た。…女の人から。


「………あ」
「……」


この人、誰だろう。
松川さんは画面を見たまま電話に出ようとしない。出るかどうか考え込んでいるようだ。どうして出ないのだろう?その疑問はだんだんと冷え固まってあるひとつの可能性にたどり着いた。私が最も信じたくない可能性。


「…出なくていいんですか」


なるべく平静を装って聞いてみるけど、自分の発した声が震えているのが分かった。


「…この人…」


誰ですか?恐ろしくてそこまで息が続かない。やがて着信音が鳴りやんで静かになった。部屋の中ではテレビの音が響いているはずなのに、やけに静かだ。いやだ、テレビの音量を上げたい。松川さんの返事を聞きたくない、リモコンはどこにあるの。


「……うん。彼女」


しかし、私がリモコンを探し当てるよりも先に松川さんの声が聞こえた。

彼女が居たんだ。どこに?宮城県?いやそんな事はどうでもいい。松川さんに彼女が居た。私では無い別の人と付き合っていた。当たり前か。彼女が居ないなんて事は一度も聞いていない。私たちは恋人同士じゃないし。でも、恋人同士じゃないのに、私たちは恋人たちが行う事をひととおり終えてしまった。

私は松川さんが好きだったし、条件なんてほとんど満たされていた。「付き合っている」というちゃんとした事実が無かっただけで。


「……か…彼女さんが…いた、んですね」


それを知らずに家まで上がり込んでしまって彼女さんに申し訳ないです、って笑えたらいい。そう言って「じゃあこの辺で」とお暇すればいい。


「うん」
「…それじゃ、私…あの…だめですね、こんなところに居たら」
「………」


私、今どんな顔してるんだろう。見られたらまずいよね。きっとショックを受けた顔をしてるに決まってる。こんな顔見せたら松川さんに迷惑だろう、帰らないと。でも身体が動かない。あまりの事にびっくりして、まだ松川さんの隣に座り込んだまま呆然としているのだ。


「…軽蔑する?」


ぼそりと松川さんが言った。軽蔑か。彼女が居るのに出張中に他の女とこんなことをするんだもの、軽蔑対象以外の何物でもない。


「軽蔑…しま、す」


もしも私が彼女だったらこんなの絶対に許さない。でも私は彼女じゃない。松川さんに惚れているだけの、ただの女だ。
けれど私が彼を軽蔑する理由は他にもある。最大の理由が。


「…気付いてますよね、私の気持ち」


好きで好きでどうしようもない事を松川さんは気付いているはず。それなのに彼女が居る事を知らされていなかった私のこの気持ち。
でも、「彼女が居るよ」と事前に教えてもらったところでこの思いを抑える事が出来たのだろうか。


「卑怯だと思ってる。よね」
「………すごく」


混乱して素直な気持ちしか出てこない。卑怯だ。彼女がいるならどうして私にあんなふうに構って、触って、誘って、キスをして、その続きまで?こっちにいる間の暇つぶし相手だったの?


「最初は白石さんの事は、ただ話が合いそうな女の子だと思ってた」
「……」
「ちょっとドジで、年下だから構ってやりたくなったっていうのもあるけど。…途中までは」


せめて「暇つぶしだった」と言ってくれればどれだけ楽なのか分からないのに、この人は。


「…白石さんは俺の気持ちに気付いてなかった?」


松川さんは携帯電話の電源を落とした。画面を下に向けてテーブルに置き、未だ隣で呆然とする私の頭に手を置いた。
何度か髪の流れにそって撫でられて、そのままおでこをこつんとくっつけられる。拒否できない。だって好きなんだもん。拒否したくない。だから松川さんが、おでこだけでなく唇を近づけてきても私は彼に委ねた。


「……ひ…ひきょ…う…です」
「うん。…ごめん」
「…最低、です」
「……」


松川さんも私も最低だ。彼女がいると分かってしまったのに、まだ諦めきれずにこんな事をする。一瞬にして嫌いになれる魔法があればいいのに。でもそんなの到底無理な話なのである。


「わたし、松川さんが…松川さんの事、が」


そのあとのたった二文字は口にしなくてももう分かっているのだろうに、どうしても伝えたい。でも勇気が出ない。だって彼女という存在が居るんだから。私は二番目か、三番目か、松川さんの都合のいい時に都合よく出会った後腐れのない女だということは間違いない。

それなのに松川さんはどんどん罪を重ねてゆく。私の言葉を待たずして唇を塞いでくるなんて。

望む未来に星は落ちない