05


こんなに長時間、鏡とにらめっこするのはいつぶりだろうか。
とうとう松川さんとの江ノ島デート当日となり、起床してから今までの時間を殆ど鏡の前で過ごしている。あと30分で家を出なくてはならない。

ここから小田急線の片瀬江ノ島駅まで歩いて10分くらい、松川さんは一体どこから来るのか分からないけど早めに行って待つ方がいいよね。時間にだらしない女だと思われたくないし。

着て行く服の候補は残り2パターン、どちらも仕事中に着ているカジュアルすぎる服とは違い少しだけ女の子らしいものだ。けれど江ノ島神社までの階段を登る事を考えると、高いヒールなんか履いて行ったら場違いである。だからってスニーカーはあまりにも、あまりにも・・・ああいけない!あと10分!

結局どうにかこうにか、ぺたんこだけどちょっと可愛いパンプスが段ボールの奥に入っていたのを発見しそれを着用する事にした。
ノースリーブのトップスにワイドシルエットのパンツという他の女の子と被りまくる事間違い無しの服だけど、気合を入れ過ぎて失敗するよりは良いだろう。

そんな事より松川さんはどんな服で来るのかなあなんて、もう待ち合わせ場所で会った時の事を考えてうきうき浮かれてしまった。だって私の携帯電話は松川さんからのメッセージを受信していて、『もうすぐ着きそう』なんて書かれてるんだもん。(そう、あの日あのまま連絡先の交換をしたのである!)

駅に向かう足取りはとても軽くて、制汗スプレーもハンカチもティッシュも手鏡も、女の子らしいものは全て小ぶりのリュックに詰め込んだ。用意は完璧。
待ち合わせ場所である駅に到着するとちょうど電車が来たようで、夏休み中だからなのか観光客の人が沢山降りてきた。その中に松川さんの姿が無いかと背伸びをしてきょろきょろしていると、突然首元にきーんと冷たい何かが当たった。


「ひゃっ!?」
「ぶっふふ」


飛び上がって驚いた私は振り返る前にその犯人が誰であるかを把握した。松川さんの笑い声がすぐ後ろで聞こえたからだ。


「な…何すんですか!びっくりした」
「ごめんって。そんなに驚くとは思わなくて…ハイこれ」


松川さんが持っているそれは、たった今私の首元にぴたりと当てられたものだろう。きんきんに冷えたジュースを差し出された。もしかして待っている間に買ってくれていたのだろうか?


「これ、え?」
「暑いから飲みながら歩こ」
「え、はい…あの、お金」
「あげる」


なんということだ、いきなり松川さんにジュースを奢ってもらうという素敵な接待を受けてしまった。


「…ありがとうございます」
「熱中症怖いからネ」


松川さんはそう言って優しく笑うと、「あっちだっけ?」と道を指さして歩き始めた。私も続けて隣を歩き、松川さんがくれたジュースを飲む。すごく冷たくて美味しい。確かに熱中症で倒れたらとんでもない迷惑をかけてしまうし、水分補給しておこう。

出会い頭のサプライズで忘れていたが、松川さんは今日どんな服を着ているんだろうか?と隣をちらりと見ると本日二度目のサプライズ、なんと先日私が選んだTシャツを着ているではないか。


「松川さん、それ…」
「気付いた?おろしたてでーす」


にっと歯を見せて笑う松川さんの私服はとてもお洒落で、やっぱり私が選んだもので間違いなかったと自信を持てた。着こなしているモデルが良いんだろうけど。ゆるめのシルエットなのに、広い肩や袖から出ている腕の逞しさが隠しきれていないもの。


「…すごく似合ってます」
「誰でも似合うよ、Tシャツだもん」
「えと、でも…う、嬉しいです」


私が選んだものを、私とのお出掛けに着てくれて。そこまでは照れくささが勝ってしまったので言えなかったけど、心の中で何度も伝えておいた。
松川さんは「そう?」と言って前を向いたからその後どんな顔をしていたのか見えなかったけど、たぶん絶対悪いようには思われていないはず。

私は松川さんが好き。すっごく好きだ。まだ待ち合わせをして会ったばかりなのに、今日一日を終えたころにはこの気持ちがどこまで膨らんでしまってるんだろう?


「すげー、良い眺め」


江ノ島までの端を渡りながら松川さんが言う。右手には海岸線と富士山が見え、今日は天気も良いし絶好のデート日和…いやいやお出掛け日和。勝手にデート扱いにしたら松川さんに悪いもんな。デートだと思いたいけど。


「白石さん、そこ立ってみて」
「え、」
「そこ。そうそう、ピースしてー」
「ええっ」


かしゃ、と素早く構えられた松川さんの携帯電話から音が鳴る。今私は写真を撮られてしまったらしい。不意打ちだ!


「イイ顔いただきました」
「ちょ、事前に言ってください!絶対変な顔してるんですけど!」
「そんな事ないよ。ほら」


と、見せてもらった携帯電話の画面には気の抜けた私の顔と江ノ島が写っていた。これが好きな人の画像フォルダに残されるなど一生の不覚。
しかし笑いながら「送ってあげる」と携帯を操作する松川さんがいつもよりも少年らしさを帯びていて、削除してくださいなんて言うと雰囲気を壊してしまうかなあとも思えた。まあ、つまり、すっごい楽しいから別にいいや!って事である。


「…あついね。」
「ですね」


しかし真夏日の太陽の下、時刻は一番暑い時間。松川さんが午前中だけ仕事の用事があったので仕方なく午後集合になったものの、とても暑い。


「あ、ソフトクリーム…」


そんな時どうしても目に付いてしまうのは冷たい食べもの。目の前にソフトクリームのお店を発見してしまい思わず足が止まる。うわああいろんな味があって美味しそう、何より冷たそう。
私は無意識のうちにオーラを出していたのだろう、松川さんが言った。


「いる?」
「え」
「行こう」
「あ、」


自然に、ほんとうに自然に松川さんが私の手を引いた。大人が子供の手を引くのと同じ感じだったかも知れないけど、私の女心を刺激するには充分で。


「…ありがとうございます」
「いえいえ。俺も食べたかったし」


未だにどきどき言う心臓と上昇する体温を抑えるためにソフトクリームにかぶりつくと、すごく美味しい。杏仁豆腐味という珍しい味である。中華街が近いからかなあ、なんて思ったり。


「うっめ」


松川さんもご満悦の様子。ふたりとも同じ味だから「一口ちょうだい」みたいな事は期待出来ないなあ…って、これ以上私は何を期待してるんだ。松川さんとデート、さらにジュースやソフトクリームを買ってもらえただけで有難いことじゃないか。


「美味しかった?」
「すっごく!ごちそうさまでした」
「よかったね。…あ、そのまま待って」
「?」


そのまま、と言うので動きを止めて見上げると、なんと松川さんが身体を曲げて顔を近づけてくる!まさかここで?キス?ま、まだ心の準備ができてない。けどしたい。嬉しい。どうしよう。


「髪の毛たべてるよ」
「ふぇ」


松川さんが面白おかしそうに笑いながら手を伸ばしてきて、私の口元へ。
ああ今日は気合を入れて高いリップグロスをしているから、髪の毛が唇にくっついているようだ。それを唇に触れないように、すっと指で払う松川さん。その指が少しだけ私の頬に触れた。


「取れた」
「…あ、ありが…」


そのとき私たちの視線が交わり、互いにぴたりと動きが止まる。同時に周りの音も消え、DVDのように一時停止された。動いているのは私の心臓と、松川さんの風に揺れる髪だけだ。
やがて彼の指が私の頬をなぞり関節の太い親指が唇へ触れるか触れないか、という時にやっと身体が離れた。


「………ごめん」
「いや、わっ、私こそ…」


なんだろう、変な空気。いま私の唇に触れそうになったのはわざとだろうか、偶然だろうか?
松川さんはそのまま江ノ島神社への坂道を登り始めてしまったので、答えは分からずじまいだった。それでもいいか。今はこの時間を存分に満喫すればいい。





「ごちそうさまでした…」


結局今日は何から何まで松川さんの奢りであった。途中で寄った足つぼマッサージのお金さえも。それは「オッサンに付き合ってくれてありがと」との事だったけど、その後晩御飯だって食べたのに何もかも松川さん持ち。
やはり私は妹みたいな存在なのだろうか。フェアな存在として見てくれるなら私だって彼に何かをしてあげたい。


「家どっち?」
「あっちです。歩いてすぐなんでここで大丈夫ですよ」
「そんなわけに行かないよ。送る」
「え!」


松川さんが家まで送ってくれるだって。喜ばしいことこの上ないけどすごく迷惑じゃないだろうか。


「でも、でもあの」
「いいって俺も徒歩圏内だから」
「そうなんですか!?」
「そう。もう少し向こうだけど」


私の家と、松川さんが会社から臨時で与えられている住まいはとても近い場所にあるらしい。だから海でばったり出くわしたわけか。

じゃあこれからもこうして夜に会ったり…なんて過度な期待はよしておこう。今日はとても楽しかったけど、今日で終わり。ずっとは続かない。私の気持ちはこれ以上大きくしてはならないのだ。好きになればなるほど、離れる時に辛くなってしまうんだから。


「家、ここです」
「おおー便利なとこ」
「海から近いだけですよ」
「それが良いんじゃん」


まあ、海からの距離を第一優先で選んだ家だから。家の立地を褒められただけなのにくすぐったい。


「今日はありがとうございました」
「こっちこそ」
「……えーと、じゃあ…」


じゃあまた、と言いたいけれど次の約束をするのは変だ。またお暇な時にお店に来てくださいね、と言ってお別れするのが一番いい。


「あの…またお暇な時に」
「ちょっとそのまま待って」


私が話すのを遮って、松川さんが言った。反射的に口を止めると、松川さんがじっと私の顔を見ている。何だろう。


「また髪の毛たべてるよ」
「え」


またまた髪の毛が唇かどこかにくっ付いているらしい。昼間と同じように松川さんが手を伸ばしてくるのをどきどきしながら待って、髪の毛を取り払ってくれるのを待つ。
…けれど、そのような素振りがないまま彼の手は私の頬へ。


「……ま…」


松川さん?と声をかけようとするのと同時に温かい手で頬を覆われ、そのままぐっと顔を上向きにされる。目の前には真っ直ぐに私を見下ろす松川さんの顔があり、私にしか聞こえないようにこう言った。


「…ごめん。うそ」


私が驚いて瞬きをするのも待たず、視界は真っ暗になり唇にとっても柔らかいものが落ちてきた。

普通なら驚いて引きはがすであろうその行為を、私が拒否するはずもない。だってここには私たちの他に誰もいない。ただただ真夏の月明かりに照らされているだけの、静かな空間だったのだ。

月しか知らないふたりの秘密