03


平日の今日はお休みだけど早起きをして、いつものとおり散歩に出かけてみた。今日は天気が良いらしく、遠くのほうに富士山が見える絶景だ。
松川さんも同じ景色を見ていたらいいなあなんてドラマみたいな妄想が過ったところで、つい昨日お尻を1900円の破格で販売するという失態を犯したのを思い出した。

気を紛らわせるために海を眺めていると、なんだかいつもより波が高いような気がする。携帯電話のアプリで調べてみるとやはり今日は波乗り日和みたいで、沖には人影が多い。私もやってみようかなあ、湘南に来てからサーフィンをするのは初めてだ。

いったん家に帰りラッシュガードに着替えると、実家から持ってきたボードを担いで海に出た。引越しの時に探した部屋の条件は「海まで徒歩圏内」だったので、すぐに砂浜に出られるのが便利である。まだ午前中だからあまり人は多くないが、サーファーたちはこの絶好の波を逃すまいと既に海に出ているようだ。

上手い人の邪魔をしたくないので様子を見ようかと座り込み、私はサンオイルではなくて日焼け止めを顔や首元に塗っていく。サーフィンするのに日焼けを気にするなんて笑われるだろうけど肌は焼きたくないので。


「あ」


その時、私の目の前にぼとっと何かの容器が落ちた。すぐに人影が現れてそれを拾おうとしている。その姿を見て私も声をあげた。


「あ!」


思わず出た大きな声に反応したその人は、落とした容器を拾いながら顔を上げた…松川さんだ!


「おはようございます」
「お、おはようございます」


まさかこんなところで会うなんて運命かもしれない!と思ったけれど互いにサーフィンに興味があって私は徒歩圏内に住んでいるから、有り得ると言えば有り得るのか。
でも誰にも会わないと思ってろくなメイクもしていない上ラッシュガード姿なもんだから、できればこんな状態で会いたくなかったかも。

それ以上に嬉しいけど。とてつもなく嬉しいけど。だって松川さんの水着姿が素敵なんだもん。


「お仕事は平日休みなんですか?」
「今日はたまたま…ここいいですか?」
「え!ど、どうぞ」


なんと私の隣に腰を下ろしてくれるらしい。断る理由もなくむしろ大歓迎だ。
松川さんは私が置いたボードの横に持っていたボードを並べた。さっきまで海に入っていたらしく、彼自身もボードも濡れている。


「ついついやりたくなっちゃって」


私の視線に気づいた松川さんは照れくさそうに笑った。ふんわり柔らかい雰囲気の笑顔で私も幸せな気分になる。でも残念ながら彼は私ではなくて、私のサーフボードを眺めていた。


「それ自分の?」
「はい、一応…中古ですけど」
「いいなあ憧れる」


そう言って松川さんが腰を下ろした。彼が今持っているのは近くのボードレンタルの店で借りたものらしい。確かに中古でも高いし置き場所にも困るしホイホイ買えない。
松川さんは私のボードから目を離すと、持っていたビニールバッグの中から何かを取り出した。


「お姉さんのおすすめ、デビューしてます」


そう言って顔の横で振って見せたのは、彼が買っていったサンオイル。先程私の前に落とした容器はこれだったらしい。そして、早速それを使い始めたのだとか。

松川さんは蓋を開けて手のひらにオイルを出すと、腕とか首の後ろとか、惜しみなく太陽に晒されている美しい上半身へ塗っていく。
これは、あのう、私には刺激が強いというかなんというか。


「…チョット恥ずかしいです」
「わ!ごめんなさい」


あまりに凝視していたせいで松川さんにバレてしまった。私、この間から変なところしか見られてない。


「よくサーフィンするの?」


サンオイルを塗りながら松川さんが言った。だんだんと敬語が抜けたことに驚きつつも嬉しくて、声が裏返りそうになるのを我慢して答えた。


「よく、ではないですかね。湘南では初めてです」
「へー。前はどこで」
「地元で…三重県ですけど…」
「あ。市後浜だ」
「よく知ってますねー!」
「まーね」


松川さんは容器の蓋を閉めると、「よっ」と言ってビニールバッグの上にそれを投げた。


「神奈川には大学で?」
「あ…いや。そういうわけじゃないんですけど…色々」
「…そう。」


あんまり聞かれたくはない事だった。私が引っ越してきたのは最近だし、何か立派な目的があって来たわけじゃないので。だから答えをはぐらかした結果、松川さんは察してくれたらしく追求はされなかった。優しいなあ。


「松川さんは湘南初めてですか?」


松川さんの事も知りたいなと思い、今度は私から質問してみる。


「初めてだけど、どうして俺が松川さんだとご存知なのかびっくりしてるところ」
「!!」


そういえば!カードを作ってもらった時に松川さんが書いた字を盗み見たおかげで名前を知ることが出来たんだけど、いちいち覚えてるなんて気持ち悪いだろうか。


「あの、カードを作ってくれた時に…お名前を書いてもらったのが見えて」
「ああ、あの時ね」
「なんかすみません」
「んーん」


よかった。私が必死に名前を知りたがって手元を覗いていた事はバレていないらしい。


「白石さんは今から海入る?」


すると次は松川さんが私の名前を呼んだ。なんで私の名前知ってるんだ!?もしかして過去にどこかで会っているとか?


「……入りますけど、どうして私が白石さんだとご存知なのかびっくりなんですけど」
「お店で名札してるじゃん」
「あっ」


恥ずかしい。「白石」と書かれた(ついでに太陽やヤシの木の絵を手描きでデコレーションした)名札を、店内ではいつも付けているのだった。


「ほんとヌケてんね」
「すみません…」
「いやいや。まあいいんじゃない」


いいんじゃない、ってのは「少しぐらいヌケててもいいんじゃない」って意味なのかな。松川さんの言葉は、ひとつの台詞でも何通りもの受け取り方ができる難しいものだった。けれど奥が深い。もっと知りたいと思えるもの。


「…あ、あの。松川さん今日はもう入らないんですか」
「うん。俺はもう上がったところ。今から焼こうかなーと」
「……」


今からはかんかん照りの太陽の下で身体を焼く予定らしい。たった今サンオイルを塗ったんだから、そりゃそうか。松川さんと一緒に海に入るか、このまま他の話もしてみたかった。


「行かないの?」
「…い、行ってきます」


本当はもう少し一緒に居たかったけれど、どこからどう見ても海に入る気満々の私がずっとここに居るのは不自然だ。後ろ髪引かれながら立ち上がり、ボードを持って海に入った。





それから30分くらいだろうか、何度か波は来たもののほかの人が乗ってしまったりとか、形が崩れて上手く乗れなかった。
松川さんが砂浜から見ているかも、っていうのも大きな原因だ。格好悪いところなんか見られたくないし。結局その願いは叶わず、久しぶりだから腕も疲れてきたので一度上がることにした。


「おかえりなさい」
「…ただいまです」
「上手だね女の子なのに」


やっぱり見られていたんだ。一気に恥ずかしくなって情けない顔を隠すようにボードを地面に置いた。


「上手い女の人は沢山いるんで…」
「ちゃんと乗れてたでしょ」
「…あんまり、です」


乗れてたというかボードの上に立つだけだったし、思ったような波も来なかったからほとんど海に浮かんでいただけだ。
もしかして30分ずっと私を見ていたわけじゃないよね?それは嬉しい…いや恥ずかしい。


「松川さんもやってみてくださいよ」
「俺はもうオッサンだから体力無いの」
「いくつなんですか?」
「俺の歳なんか知りたい?」
「…え、いや…」


知りたい。とても。

でもそれを正直に言うのは恥ずかしいので返答に困る。「言わなくていいけど教えたいなら聞いてあげるよ」という雰囲気を出せたらいいんだけど無理なので、一度断ってみることにした。


「…別にいいです。」
「あ。傷ついた」
「え!?お、教えてください」
「あはは、28だよ」


松川さんは笑いながらしれっと答えた。ちくしょう大人だ、28という年齢もこの表情も言葉遣いも。


「白石さんはいくつ?」
「…私の歳なんて知りたいですか?」


だから私も真似をして、松川さんと同じように返してみた。仕返しだ!と悪戯っぽく鼻を鳴らして松川さんを見上げると、先程までとは全然違う表情をしていた。


「うん。おしえて」
「………え、」


さっきのノリで冗談っぽく「別にいい」と言われるものだと思っていたので意表を突かれてしまい、たった二桁の自分の年齢がずっと口から出てこない。
こんなのって、あり?じっと目を見つめて「おしえて」なんて、あり?


「……コドモですよ。23です」


大学を出て、なんとなく地元で就職して、辞めて、つい最近やっと地元を出た世間知らずな女、それが私だ。スーツも水着も何でも素敵に着こなす28歳の松川さんと比べたら青臭すぎる。


「若ぇ……」


私の年齢を聞いた松川さんも何やらショックを受けた様子だった。


「歳下だとは思ってたけど23かあ」
「松川さんだって若いでしょう」
「いやあ…駄目だよ28にもなると。いろんな責任が出てくるし」


仕事にも私生活にも、と松川さんは苦笑いした。ばりばりに仕事をこなせそうな感じだし、きっと大変な業務を任されてるんだろうな。どんな仕事してるんだろう。休みは土日?こっちにいる間の休日は何をして過ごすつもり?


「じゃあそろそろ帰ろっかな」
「え、」


一度大きく伸びをしてから松川さんが立ち上がった。水着のお尻の部分とか脚の裏側に砂が付いているのがまたセクシーだ…いや、そうじゃなくて。もう少しこのまま色んなことを喋りたいのに、もう帰ってしまうの?


「なに?」


立ち上がった松川さんを無言で見上げていた私を不思議に思ったのか、彼はこてんと首をかしげた。
なんでそんな仕草をするの。大人の男性に憧れる女の心を、ぐいと掴んでしまう動作をいとも簡単に。


「……な…んでもないです」


言えるわけない。偶然出会った店員の私が「もっと話しませんか」なんて。好きになっちゃいました、なんて。

そのまま私は何も言えず会釈をすると松川さんも「じゃあ」と頭を下げ、ボードを持って行ってしまった。私の根性無し!

大人仕掛けの神様