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朝の早い時間。海沿いの道は私と同じように散歩やランニングをしている人、今から仕事に向かうであろう人、そして海に向かうであろう人がちらほらと居た。

朝日が登りきってから数十分が経過しているだろうか。きらきらと輝く海の向こうには既にいくつかの人影が揺らいでいる、朝一番の良い波を探して。それは新しい何かを探し突然実家を飛び出した私にとって慣れつつもあり、毎度心を躍らせる湘南の水平線である。


「おはようございまーす」


朝、9時30分。小田急線の駅の近くにあるセレクトショップで働く私は、開店準備のために出勤をした。
ここに引っ越してきて1ヶ月少し、働き始めてやっと1ヶ月といったところ。「全部捨てて一人でやって来た」なんて格好いい事を言いたいけれど、働かないと暮らしていけない。ひとまずアルバイトとして雇ってもらい、その後のことはこの地に慣れてから考えることにしたのだ。

元々海が好きな事もあり、湘南の人がゆったりと優しい雰囲気な事もあり私の新生活は今のところ安定している。
…とはいえ、まだ1ヶ月なんだけど。


「…あ。また新しい水着入ってる」
「そだねー。まだまだ増えると思うよ。去年のも売りきりたいけど」
「そうですか…」


ずらりと、ほんとうにずらりと様々な水着が並んでいる。そこへ更に新作が追加され、一層カラフルになった。
男性ものはゆとりのあるデザインよりも少しぴったり目とか、短めのものが流行っているみたい。私もこっちのほうが好きかもなあ、と考えながら掛けていく。それにしても男性もののほうが安いんだから不公平だよな、まったく。

そのあと店先に立て掛けているサーフボードを磨くため外に出ると、散歩をしていた時より更に明るく眩しくなっていた。
波の音が聞こえて気持ちいい。潮の香りが心地いい。あわせて、磨いたサーフボードから香るココナッツの香りが南国感を一層演出してくれた。落ち着いたら私も波乗りしようかな。

このあたりには観光客はもちろんの事、元から住んでいる地元の人・部屋を借りて休暇の間だけ長期滞在している人も居る。私は普通に引っ越してきたので、徒歩圏内に部屋を借りているんだけど。
買い物は電車一本で行けるし、節約してるから欲しいものも無いし、特に困らないのでこの1ヶ月はほぼほぼ海の近くで過ごしていた。そして、この1ヶ月でやっと仕事を覚え始めて慣れてきた…ような気がするところ。


「白石さんごめん、店内のも磨いといて」
「はーい」


先輩に指示されて、お店に飾っている売りもののサーフボードを磨いてゆく。
磨くと言っても表面に埃が付着していないかとかその程度なので、1枚10万円以上もするそれらをとにかく傷付けないようにだけ気を付けながら確認して行った。中古の板しか持ってないから欲しいなあ、なんて思いながら。

…けれど、考え事をしながら作業するとろくな事は起きないものだ。


「あ」


立てていたボードに肘がこつんと当たってしまい、重いはずのボードは不安定な立て方をしていたからかそのままぐらりと揺らいでスローモーションで倒れていった…やばい。10万円を弁償だ!


「ストッ……プ!」


私は魔法使いではないけど、慌てふためいてとりあえず「ストップ!」の呪文をかけようとした。するとなんという事か、倒れそうだったサーフボードがぴたりと動きを止めたのだ。私、魔法か超能力が備わっているのかも。

しかしそんな訳はなくて、どうやら誰かがボードを受け止めてくれたらしい。


「大丈夫ですか?」
「あ、はい……。あ!?すみませんすみません!ごめんなさい」


しかも受け止めたのはスタッフではなくてお客さんだった。とんだ迷惑を掛けてしまい深く頭を下げると「いやいやそんな」と言いながら、その人は元の位置にボードを戻してくれた。


「す、すみません…」
「いえいえ。重いですもんね」


背の高いその人は落ち着いた笑顔で言った。この人もサーファーなんだろうか。身体が大きいからバランス取るの難しそうだなあ。


「あの、ワックスどこに置いてます?」


ああやはりサーファーだったらしい。ワックスの並ぶ棚まで案内し、店内にお客さんが少ないことを確認してからなるべく彼の近くで質問を受けられるようにした。先ほどの罪滅ぼしと言うことで。


「……どれが良いですかね?恥ずかしながらよく分かんなくて」
「あ、そうなんですね」
「自分のボードとか持ってないんで…」


そこで、私は不思議に思った。ボード持ってないのにどうしてワックスなんか見るんだろ?


「ボードも見てみますか?」
「ありがとうございます、でも短期出張でこっち来ただけなんで…ほんと、ちらっと覗いてみただけなんで」


お手間かけてスミマセン、とその人は申し訳なさそうに笑った。

その笑顔と、片手を軽く上げただけの動作がとても落ち着いていて大人っぽくて、まるで高校生みたいに頬が染まるのを感じてしまった。
何考えてるんだ仕事中に、と自分を制するための咳払いをして無理やり冷静さを取り戻す。彼はどうやらこの辺りの人では無いらしく、店内に並んでいるものを物珍しそうに眺めていた。


「……何か気になるものあります…?」


これは仕事だから接客だから、仕方なく声をかけているだけ。決してこの人に惹かれているからではない。


「んー。でもサーフィンなんて2ヶ月じゃ上手くならないだろうし」
「出張は2ヶ月の予定ですか」
「ハイまあ…ほんとに今日来たところっす」


物静かな感じの顔に似合わず、私の問いかけに対していくつかの情報とともに返事をしてくれた。これでは私が接客されているみたいだ。
ちょっと情けなくなってきた時に、ちょうどその人が「今日は帰ります」と頭を下げてくれた。


「あ、はい…また興味があればどうぞ」


果たして彼に興味を持ってもらえるほどの商品説明が出来たのかどうかは分からないけど。店内を長い脚でゆっくり歩き、暑そうにワイシャツを腕まくりした姿はしっかりと私の脳裏に焼き付いた。

このようにして湘南に来て1ヶ月経ったころ、いとも簡単にひとりの男性に恋をしてしまった。それも仕方の無いことだ、私は失恋を忘れるために地元を飛び出し誰も知らないこの土地へとやって来たのだから。
傷ついた心を癒すためには時間の経過なんて必要ないのだ、新しい恋さえ降ってくれば。

ひとつ覚えに恋を探して