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夏休みまで残すところ3日間。白石さんは手足の絆創膏がきれいに取れて、頬についていたという切り傷も薄くなっていた。

しかし彼女との電話は「電話をしよう」と言ったあの日の夜、一度きりだった。
なぜなら電話をしたところで会話が続かないし、用事がないのに電話をかけるのもおかしいのではないかと思ったから。昼休みに会った白石さんも「いつでも電話ちょうだいね」と言うわりに同じ事を言っていた。


「影山くん早起きだし、夜も勉強とか、早く寝たいかと思って…」


ぐんぐんヨーグルいちご味を握りしめながら白石さんが言った。白石さんと電話が出来るなら、睡眠時間が減るのは何ら問題ない。むしろ勉強だって部活だってやる気が起きる。
最悪なことに一科目だけ赤点を取ってしまったから、補習のテストを受けるために勉強を続けなければならないのだ。本来は毎日継続するんだよと白石さんに笑われたけど。


「…せっかく教えてくれたのに、赤点取ってスンマセン。」
「もー!ほんとだよ」


白石さんはけらけらと笑ったので、俺が彼女の教えを無駄にするような低い点数であった事はさほど怒っていないらしい。正直安心した。


「でも一科目だけで良かったね」


そう。前回は三科目の赤点だったので、ある意味快挙なのだった。レベルの低い話だが。


「補習もすぐ終わるんじゃない?」
「ああ…けど…合宿が」


補習さえなければ、音駒を含む強豪校との合宿に最初から参加する事が出来るのに。自分の責任とはいえ悔しい。
補習を終えてから東京に向かう手段は一応田中先輩が用意してくれるらしいけど、半日以上を無駄にしてしまう。一分一秒だってバレーボール以外のことを考えたく無いというのに!


「…合宿の時って、どこかに泊まるんだよね」
「そりゃあな」
「それってもちろん男女別だよね」
「ぶっ」


いったい何を言うのかと思えば、驚いて自分の飲んでいた紙パックを握りつぶしてしまい、思い切り口内にぐんぐんヨーグルが入ってきた。


「ごめん!変な事言った」
「いや…別だよ、当たり前だろ」


どうしてそんな事を聞くんだろう。
ゴールデンウィークの合宿だって清水先輩は実家に寝泊まりしていたから俺たちとは別だったし、今度は他校の校舎に行くとはいえさすがに部屋の用意くらい男女別になっていると思う。調べたところ梟谷学園は大きな学校らしいし。

…学校が大きいということは生徒数が多く、バレー部員も多いはず。という事は上手い人がたくさん居るはずだ。やべえテンション上がってきた。


「早く夏休みになんねえかな」


呟いた言葉が白石さんの表情を暗くした事には気付けなかった。俺が彼女の顔を見る前に5限目の予鈴が鳴ってしまい、二人とも慌てて教室に戻ることになったから。





翌日、つまり終業式の前日。授業は6限目までフルで行われるものの、夏休みの宿題の説明や「夏休み何する?」といった話であまり頭を抱えるような授業ではなくてホッとした。
それより別の意味で頭を抱えたのだが、どうやら今日が白石さんと会える最後の日だという事。気付くの遅くないか?俺。

夏休みに入っても俺は毎日学校に来るけれど、白石さんは昼間もアルバイトになったりするだろう。遠くに旅行に行ったり帰省したりするかもしれない。そんな事になる前にたくさん話をしておくんだった。
…または、理由もなく電話を架けられるほどの仲になっておくんだった。


「明日で一学期終わるね」


ぽつり、と白石さんが呟いた。


「ああ…」
「合宿頑張ってね。補習も」
「ん」


補習が終わって合宿を終えたところで、まだ7月だ。白石さんに次回会えるまでに1ヶ月もあるなんて信じられない。
今どこの店舗に働きに行っているのか詳しく聞いてみるか?いや、帰り道ならまだしもわざわざそんな場所に会いに行くなんてストーカーみたいだ。でも9月まで会えないなんて、想像したくもない。


「9月まで会えないの、なんか遠いね」
「!」


白石さんはいつものように膝の上にいちご味のパックを置いて、視線をそこに落としていた。何を考えているのか詳細までは分からないけど、俺と1ヶ月以上会えない事を少なからず寂しがっているかのように見える。


「…ああ」


でも、いまひとつ感情が読み取れずに曖昧な返事をしてしまった。
俺は白石さんと夏休みだって会っていたいし声を聞きたい。その口実が無いだけで、チャンスがあるなら何度でも。白石さんのことが好きだから。

もしかしたらそれを伝えるのは今なのかも知れない。静かな屋外のベンチで二人きり、聞こえるのは蝉の声と校舎ないからかすかに響く生徒たちの声のみ。
ここで話している事はほかの誰にも聞こえていない。誰かが自販機に来る前に言わなければならない。


「…あの、俺」
「影山くん」
「え」


喉の奥から絞り出した俺の声より白石さんの声が力強かったもので、俺は思わず口ごもってしまった。けれど、会話を譲った事が正解であったのをすぐに悟った。


「あのね、迷惑じゃなかったらだけど…夏休み中も電話したいなあ、なんて」


白石さんも俺と同じ事を言い出したではないか?ぎゅうと握られた、空っぽのパックはもう彼女の握力でぐしゃぐしゃだ。それほどに緊張して、今の言葉を発してくれたという事なのか。

さっきまで「今告白しよう」とどきどき言っていた心臓が、別の意味で鼓動を速めた。「この子も俺のことを、もしかしたら…」という可能性が頭を過ったせいで。俺も自分の持ったぐんぐんヨーグルのパックを思わずぐしゃりと握った。


「しよう。俺もしたい」
「…ほんとに?」


手元を見ていた白石さんの顔が少しだけ上がった。


「白石さんの声聞かないと、…顔見ないと調子が出ない」
「え、」
「…好き。だから」


限りなく無音に近い声で言ってしまったが、それでも息をのんで俺の言葉を待つ白石さんにとっては充分だったようだ。
言ったぞ俺は、ついに言った。そう思って隣の白石さんを見ると、顔を俺に向けたまま時が止まったように硬直していた。


「…あ、……あの、あの」


顔を真っ赤に染めているくせに俺から目を離そうとしないもんだから、俺も恥ずかしさを隠し切れずに睨み返すはめに。


「ほ、ほんとうに…?」
「…ったり前ダロ!」


好きじゃないのに「好き」なんて言えるわけないし、そうでなければ毎日暑いのにこんな場所まで会いにこないし、肉まんだって坂ノ下商店のほうが10円くらい安いのに白石さんのアルバイト先へ通うことも無かった。

初めてここで会ったときに熱くなった顔、初めてコンビニで出くわしたときの緊張、会う度に高鳴る胸の鼓動は紛れもなく恋している証拠だ。
俺は白石さんのことが好き。振られたらどうしよう、とか考えていない。とにかく気持ちを伝えるなら今だとしか。

白石さんはもう一度手元を、あるいは地面を見下ろしながら、 口の形を何通りも変えていく。次に言う言葉を決めては止め、決めては止めているらしい。
そしてついにごくり、と喉を鳴らした白石さんが言った。


「私も、影山くんが好き…」


白石さんはずっと下を向いていたけど、はっきりと聞こえた。

今度は俺が彼女から目を離さずに凝視していると、それに気づいた白石さんが「見ないでよっ」と手を振る。そんなのずるい。俺の顔は見ていたくせに。
無防備に振られるその腕を掴み動きを止めてやると、白石さんは身体全体を強ばらせた。


「わ、」
「…今のマジっすか」
「あ、当たり前じゃんか…!」


自慢じゃないけど、驕り高ぶっていたわけじゃないけど、その可能性がゼロだとは思っていなかった。でも実際に本人の口から聞くと新鮮というかとても神秘的な言葉に聞こえてくる。


「…じゃ、用事とか理由が無くても電話できるって事。だよな」


話したくても用事がない、話題がないからと電話を躊躇っていたけれど。恋人同士ならそれも普通、なんだよなきっと。意味もなく電話して声を聞くっていうの、前は理解出来なったけど今ならすごく憧れる。


「それだけ?」


ところが隣に座る白石さんは、疑問を持って俺を見上げた。


「電話じゃ足りない。夏休みも会えるなら会いたい。…理由が無くても」


そして、俺が考えていたよりももっと多くの望みをぶつけられた。

一言一句そのままそっくり返したい。明日は終業式、明後日からの夏休みも部活以外のできる限りを一緒に過ごしたい。手も繋いでどこかを一緒に歩きたいし、…ここまで言ったら引かれるだろうか。


「俺もっす…」


だからこのように伝えて、白石さんが嬉しそうに鼻をすするのを聞くだけで今日は我慢しておこう。ここまでで充分に、素晴らしい何かがふたりの間を駆け巡っている気がするから。

そのあと欲張りな白石さんの口から「本当はまだまだ足りないけど」、と照れくさそうに零されるまで、あと数秒。

プラム・サムシング