04


俺は同じクラスの白石さんに恋をしている。

そう気付いてから2日後、一緒に週番をするのも最終日となってしまった。結局この5日間で距離が縮まることはなく、時々口パク以外での返答ができるようになった程度。マイナス100がマイナス99になったくらいの進歩、つまりは絶望的だ。

それでも最後の最後に「一緒に出来て楽しかった」という事は伝えたいなあ、と思っていたので放課後に日誌を書く手がゆっくりになる。まだ覚悟が決まっていないから。
愛の告白をするわけじゃあるまいし、さらっと言ってのけられれば楽なのに。


「あっという間だねー」
「………」
「この後も部活?」


白石さんの質問にこくりと頷いて答えると、「そっか」と聞こえてきた。今、何を考えているんだろう。真田先輩の事?


「私、今日も野球部の見学誘われてるんだ」
「え」


ペンを持つ手が止まる。今日、白石さんが部活を見に来る。誰を見に?単なる付き添いか、それとも真田先輩を見に行くのか、他の誰かが目当てなのか、もしかしてそれは…


「あの先輩が友達の間で人気でさ!」
「………」


あ、やっぱり真田先輩だった。あの先輩、と言いながら嬉しそうに真田先輩が優しそうだの背が高いだの頼れそうだの、尊敬する先輩のことを褒められているのに俺の心は簡単にへし折られてゆく。


「けど私は……あー…あ!!」


話の続きを聞いていたら突然白石さんが大きな声で言ったので、びくりと身体が震えた。


「それより轟くん、約束覚えてる?」
「……約束?」
「そう。月曜日にした約束」


月曜日ということは、一緒に週番をすることになった最初の日だ。何か約束なんてしただろうか。思い出せなくて首を捻ると白石さんが「忘れちゃったの?」と口を尖らせた。


「金曜日までに、口パク以外で会話できるようにしてねって」


…そう言えばそんなことを言われたような気がする。あれは約束だったのか。いやそんな約束が無くたって、出来るものなら仲良く会話をしたい。今のところそれは叶っていない。俺の勇気が足りないせいで。


「………」
「まだ口パク抜けてないよね」
「…んん」
「野球してる時は全然違うのにねえ」


頬杖をついてぼんやりと言う白石さん。野球してる時、って、俺が野球をする姿をいつ見たというんだろう。この間見に来た時俺はまだ練習を開始していなかったし、白石さんもすぐに帰っていったのに。


「…いつ見て…」
「いつも帰りに見てるよ、練習してるとこ」
「………」


どき、恋の音が鳴る。学校帰りに俺がグラウンドで練習しているのを、見られてる?いつも?いつもって、毎日ってこと?


「…白石…さ」
「あ!書き終えた?」


白石さんが俺の手元にある日誌を覗き込んで言った。まだ心臓が激しく動いている。膨らんでは縮み、膨らんでは縮む、その動きが通常の何倍も大きくなっているようだ。


「………うん」
「出してくるね。早く部活行って!」


後で見に行くからねと言い残し、せっかく2人きりになれる最後のチャンスだったのに白石さんが行ってしまった。
けれど残念な気持ちにはならなかった。白石さんが部活を見に来る。良いところを見せなきゃ、良いところを…


…と意気込んでいる時に限って思い通りのプレーは出来ないらしい。
今までずっと一人で練習していたから分からなかったけど、やはり人間相手だったり、どこに飛ぶか分からないボールを追うのはイメージトレーニングだけでは上手くいかないことを最近知った。そして、それはほんの少しの練習では身に付けることが出来ないって事も。


「雷市てめえ!んな事してたらザルだってバレるだろうが」


守備練習をしていると親父からの罵声が飛んできた。俺だって自分の守る場所が穴だと思われるのは御免だ。でも、まだ一度だってちゃんとした試合をしたことの無い俺は、守備の要領が全く掴めていないのだ。

それを親父は知っているはずなのにわざわざ俺へのダメ出しが多い理由は、近くで白石さん(と、スズキさん)が練習を見ている事に気付いているからだと思う。


「もう1回な、落ち着いて」
「………ハイ…」


はあ、天と地だ。あるいはアメとムチ。真田先輩からの優しい声かけに頷いて、深呼吸をして腰を低く構える。いつでも、前後左右どこへでも走り出せるように。
そう思ってやっと集中出来始めた時、ベンチのほうから声が聞こえた。


「そうそう、俺があいつの父親です」


ちらりと視線を動かすと、なんと2人の女子に向かって自己紹介をしている親父が居たのだ。何やってんだ、くそ親父。

ぎりりと歯ぎしりをした瞬間に爽快なバッティング音が聞こえた、そして思い出した。自分が守備練習の真っ最中である事を。けれどすぐに、額に強い衝撃を受けて目の前が真っ白になった。最悪だ。





「…ちょっとだけですけどね」


女の子の声が聞こえた。目を開けようとしても瞼が重たくて、そこに誰がいるのか分からない。誰の声なのかも分からない。


「いつから野球してるんですか?」
「小学校かなー…あ、雷市起きた?」


ぼんやり視界がはっきりとしてきて、自分が仰向けになっていることと、真田先輩が顔を覗き込んでいるのが分かった。あと、その隣に女の子が居ることも。


「……大丈夫か〜」
「…ンン」


身体はなんとも無いんだけど頭が痛いような気がする。何度か瞬きをして蛍光灯の光に慣れさせながら、むくりと上体を起こしてみた…ら、目の前に見慣れた女の子の顔があった。


「轟くん大丈夫?おでこ真っ赤!」
「………!!!!?? 」


あわや、そのままもう一度倒れそうになった。白石さんが俺の額をじっと眺めていて、眉間にしわを寄せて「痛そう」と呟いてる。やっとあたりを見渡すと、ここは部室だと気付いた。どうして白石さんが居るんだろ。


「な、何で…?」
「見学してたんだよ。覚えてないの?打ちどころ悪かったのかな…」


そしてまた、白石さんは眉を寄せて自分の額に手を当てていた。
その仕草が、なんて言うか、この世のものとは思えない愛らしい感じがして戸惑った。白石さんの存在にではなくて、俺が自分の人生の中で誰かを「愛らしい」なんて思う日が来たことに戸惑っている。
ドキーン、と心臓が鳴る。三島が言うところの「恋の音」ってやつ。


「雷市、三島の打球がオデコにゴツーン!だったんだよな。痛そうだったあ」
「余所見するのが悪いんだぞ」


気持ちよく白石さんのことを考えていたのに野太い声がして、なんだか余計に痛みが増した気がした。そうだった、ぼやっとしていた時に三島の打ったボールが直撃したんだっけ。額に。自分の額に手を当てると、たんこぶが出来ていた。


「………いてえ」
「そりゃそうだろ」
「おお雷市、派手にやったなあ」


そこへ全く心配そうな顔を見せない親父が入ってきた。元はと言えば、親父が白石さんに話しかけているのが気になって集中できなかったんだ!思い出した。


「誰のせいだよ……うう、いッてぇ」
「自分のせいだろ。もう帰んぞー」
「………」


ちょっとは心配する素振りくらい見せろよな、息子だろ。
好きな子の前で顔面に打球を受けて気絶、おまけに立派なたんこぶを作るなんて良いとこ無しだ。お前のせいで可愛い息子が失態を見せたんだぞ!と睨んでやったけど親父は俺のことなんか見てなくて、俺の横に立てかけてあるバットを指さした。


「それ貸せよ。俺が持って帰る」


いつも俺が自分で持ち運びをして、学校でも河原でも素振りに使っているバットを親父が持つと言う。


「……素振りは?」
「その子置いて素振りすんのか?」


俺の質問に、親父は鼻で笑って答えた。俺には意味が分からなくて「その子」と指された子を振り返ると、ぽかんと口を開けた白石さんが座っている。


「…私?ですか?」
「おお。雷市に家まで送らせるから」
「は!!!?」
「何だお前嫌なのか?ン?」


親父の目は試すように俺を見下ろしている。この野郎わざとだな、わざとなんだな。


「できるよな、雷市」
「………」
「返事しろや」
「…っさい!出来る!」


思わずぎゃんぎゃん騒いでしまったら、親父も真田先輩も、三島も秋葉も白石さんも笑ってた。ちくしょう恥ずかしい、こんなみっともない姿を見せてしまうとは。





白石さんの家は学校から歩ける距離にあるらしい。とは言え15分くらい、との事だから女の子がひとりで歩くには確かに危ないのかも知れない。白石さんの鞄には親に持たされたという防犯ブザーが付いていた。幸い、まだ使ったことは無いらしいけど。

白石さんと一緒に真田先輩を見に来ていたスズキさんは、俺が寝ているあいだに帰ってしまったらしい。真田先輩が自ら校門まで送ったのだとか。さすが何から何まで尊敬できる人だ。…白石さんも真田先輩に送ってもらいたかったかなあ。


「轟くんの家、こっち?」


道中ほぼ白石さんがひとりで喋ってくれていたけど、ある時質問をされた。俺は首を横に振って、自分の家の方角を指さした。ちなみに今歩いている方角からは反対方向だ。


「えっ、逆!?」


それに対して頷くと、「ごめんね」と白石さんが眉を下げた。謝られるような事だったのだろうか。こういう事は初めてなので感情が迷子だ。


「………おでこ大丈夫?」


少しだけ沈黙したのを気にしたのか、白石さんは別の質問をした。俺はまた頷いた。イエスかノーで回答できる質問なら、首の動きだけで答えられるから。でもそれでは満足しなかったらしい彼女は顔をしかめた。


「やっぱり私と話すの、無理なの?」
「………や…」


白石さんと話すのが無理なんじゃなくて、肉親や昔からの友達以外と話すのは全面的に無理だ。真田先輩を始め、野球部が相手であってもまだ緊張するのに。


「…ねえ。今から私が言うこと、引かずに聞いてくれる?」


白石さんの足が止まった。これまで白石さんが俺の少し前を歩いていたので、気付いた俺も立ち止まる。しばらく前を向いたまま動かない。
何を言おうとしてるんだろうと首を傾げると、白石さんが振り向いたので身体中に緊張感が走った。


「…轟くんと、もっと喋ってみたい…です」


その緊張感は電撃のように身体から脳へ到達し、白石さんが今なんと言ったのかを理解するために全神経を費やした。今日一番のエネルギー消費かも知れない。
これが嘘か本当か、夢か幻かを判断する事すら難しい。巡り巡って辿り着いた答えはこれだ。


「………う…嘘だ」


うん、嘘に決まってる。女の子から「仲良くなりたい」とか「もっと喋りたい」とか言われた事は一度も無いし、きっとこれから先も無い。

クラスの人みたいに俺に話しかけて、俺の反応を冷ややかに見るんだ…と、根性無しの俺は俺自身に都合のいい解釈で逃げようとしたのかも知れない。気付いたら白石さんは少し不服そうだった。


「嘘じゃないもん」
「…そんな……んなの…」
「轟くんがあんなふうに元気に動いてるの、凄いなって思ったから」


立ち止まった白石さんがじっと俺の目を見てくる。全く瞬きをしないその目に吸い込まれるのが怖くて顔を伏せ、どのように答えるかを考えた。

もし「もっと喋りたい」というのが本当なら、夢みたいに嬉しい。「本当に?」と聞いてみるか、「嬉しい」と伝えるか、どちらの言葉を言うにしても俺には度胸が足りなかった。
喉のところで突っかえて声が出ない。口だけ意味もなくぱくぱく動いてしまって、せっかく話せるようになって来たのに逆戻りになっていた。口からは声が出ないのに、どくん、どくんと心臓の音ばかりがうるさい。


「………」
「…ごめん。私、鬱陶しいかな…」
「えっ、」


何も言えない俺を見て、白石さんが低い声で言った。いつもの彼女の声とあまりにも違ったので顔を上げると、見た事のない悲しそうな顔をしているではないか?


「………ごめんね。ここでいいよ」
「……」
「おでこ、ちゃんと冷やすんだよ」


じっと俺を見ていた目は地面を見つめていて、その手はぎゅっとスカートの裾を握っていた。どうしてそんなに寂しそうな顔をするのか、もしかして俺が彼女の気を悪くしてしまったのか。

声をかけることの出来ない俺の横をすり抜けて、振り返ることなく白石さんが歩いていった。


「……ま………」


呼び止めないと、でも、呼び止めたところで何て言えばいいんだろ。本当は俺だって口パクなんかじゃなく、普通に会話をして仲良くなって、もっと白石さんのことを知りたいなあと思ってるのに。


「………待って…」


呟くようにしか言えないこの声が白石さんに届いているはずもなく。「嬉しい、俺も本当はもっと喋りたい」たったそれだけを伝えることが出来ない自分は本当にポンコツなのだった。

リップシンクは蜜の味.04