03


俺に女の子の友達ができた事は何故か部員みんなに広がっていて、三島には「抜け駆けか」と肩を小突かれた。抜け駆けと言えるほど立派なものじゃない。偶然席が隣で、偶然その子が口パクを提案し、偶然週番が一緒になっただけなのだ。俺は別に何もしていない。

翌日教室に入るとやっぱり誰も話しかけてくる人は居なくて、「おはよう」と誰かに言われた気がして顔を上げれば俺の後ろにいる別のやつへの挨拶だった。ちょっと恥ずかしくなってすぐに顔を下げた。
あーあ、どうして皆そうやって軽々しく会話が出来るんだろう。

つい昨日、真田先輩に向かって俺と仲良くすると(半ば強制的に)言わされていたスズキさんはもちろん俺に話しかけてくる事は無い。スズキさんの隣には白石さんが居て、俺が教室に入ったことに気付いているのか分からない。ただ、彼女たちの会話だけは聞こえてきた。


「昨日野球部観に行ったよ!噂の人」


鈴の音が鳴るように話していたのはスズキさんで、どうやら真田先輩のことを気に入っているらしい。あの人はどこかのケチな親父と違って素晴らしい人だから、女子にモテるのも当然だろうな。


「ね、かっこよかったよね」
「うん。優しそうで爽やかだった」


…そして、女子にモテると言うことは白石さんだって真田先輩に好意を抱いても不思議じゃない。むしろあの人と関わって、あの人に惹かれないほうがおかしい。
それなのに白石さんが真田先輩を褒めるのは、どうも気持ちのいいものではなかった。俺って男が好きなのかなあ、そんなわけ無いと思うんだけど。


「ていうか、うちのクラスにも野球部居るみたいで」
「へえ、そいつと仲良くなったらその先輩とお近付きになれるんじゃないの」
「あっ、それは無理。無い。無理」


スズキさんが昨日と同じく見事な即答をした。周りの連中が「野球部って誰?」「轟」みたいな会話をして、その場の空気が変な感じになったのを俺は背中で感じてしまって、なぜだか申し訳ない気分になった。居心地の悪さに肩がぎゅうと狭くなっていく。俺の話なんかしなくても良いじゃん、そんな微妙な雰囲気になるのなら。


「轟くんも結構頑張ってるみたいだよ」


その時、とても耳ざわりの良い声がした。
幻聴かなあと思わされるような心地よい感じがして、だんまりを決め込んでいた俺は思わずゆっくり振り返る。と、数席ほど離れたところで集まっている彼らの輪の中に白石さんが居て、彼女は俺が振り向いたことに気づくと口を開いた。


(おはよう)


どっきん、二重の意味で心臓が大きくはねた。今日も挨拶をしてくれた事への感激と、今の会話にこっそり聞き耳立てていたのを気付かれた事への気まずさだ。





「轟くん、野球部だったんだね」
「………うん。」


放課後、昨日と同じように俺の前の席に座った白石さんは野球部の話を始めた。
やっぱり普通に話しかけられるのは緊張するけど白石さんの口から「野球」という単語が出るのは嬉しくて、勇気を出して自分の声で応えるよう努めた。


「昨日びっくりした?野球部にカッコイイ人が居るって聞いて観に行ってたの」
「………」


けれど少しでも浮かれたことを後悔した。野球部のカッコイイ人ってどう考えても真田先輩だ。やっぱり白石さんも真田先輩の事が気になっているんだ。共通の話題が持ててとても嬉しいのに、変なものが邪魔をする。


「あの先輩、いい人?」
「…うん……」
「だよね、温厚そうだったし」


そうだ。真田先輩は温厚で、俺と親父が喧嘩しているのを笑いながら間に入ってくれたり、ピッチングを教えてくれたり、その他たくさんのアドバイスをくれる優しい人。
いくら褒めても褒め足りないのに白石さんが真田先輩を褒めるのは、なんか、聞きたくないなあと思う。


「貸して。今日は私が書く」


白石さんが白い手を伸ばしてきて、悶々として動きが止まっている俺の手からペンを取ろうとした。
触れた指が温かくてびくりと手が揺れ、かたんと机にペンが転がった。それを互いに拾おうとしたので指の先がつんと触れてしまい、俺は手を引っ込めるのも忘れて硬直した。

どうしよう。触ってしまった。
白石さんの手に…


「……轟くんの、手…」
「え……?」


白石さんも手を引っ込める事なく、転がったペンを拾うのかと思いきや固まっている俺の手を掴んだ。
柔らかくてすべすべの女の子の手が、日焼けした俺の手を触ってる。ちょっと力を入れて揉んでみたり、指の関節をじっと見つめられたりして、試合中には感じたことのない別の興奮に襲われる。

とんでもなく熱いものが身体の中から溢れてきて、やばい、これはちょっと危ないぞとサイレンが鳴る直前に白石さんがぱっと手を離した。


「あっ!!」


そして、我に返ったのか相当慌てた様子で言った。いまの全部、無意識だったんだろうか。


「ごっ、ゴメン私…!!」
「い、や」
「何やってんだろ…ほんとにゴメン今の…あの、何でもないから!」


どう見ても「何でもない」って感じではない。けど、俺自身もたった今全身を駆け巡った興奮を抑えるのに必死だったから、うんうん頷くしかなかった。


「…その、手が…いっぱい練習してるんだなあって、思っただけで…」


白石さんが俺の手のひらを指さした。
改めて自分の手を見つめてみると、お世辞にも綺麗とは言えないごつごつした手があった。同級生の男子だってもう少し綺麗だと思う。なんか関節が太いし、マメが出来ては潰れ、出来ては潰れるのを繰り返したような。


「…べ…べつに、これは……」


これは練習を頑張ったからとかそんな理由ではなくて、単に毎日バットを振っていた結果だから「いっぱい練習してるんだね」と言われるとむず痒い。

それから言葉が続かなくなってしまって(元々俺が会話を広げられた事なんて無いけど)、二人とも無言のまま学級日誌を書いた。
今日は5月13日の火曜日。金曜日までにあと少し、仲良くなれたら嬉しいなと思うけど先は長そうだ。俺から行動しなきゃいけないんだろうけど、そんな勇気出てこない。
しかも目の前で真田先輩を褒められたんじゃ、とてもじゃないが自分を売り込むことなんて出来ない。どんな顔して「仲良くして下さい」って言えばいいのやら。

そのまま白石さんがかりかりとペンを進めて最後まで書き終えてしまい、ぱたりと日誌を閉じた。せめて今日は俺が提出に行こう、「俺が行くよ」と言ってみよう。


「………ん」
「出してくれるの?」
「うん」


俺が行くよ、というちゃんとした言葉は結局言えなかった。でも俺が手を出したことで感じ取ってくれたのか、白石さんが日誌を手渡してくれて、その時少しだけ指が触れた。





学級日誌を出してから、もう一度自分の手に視線を落とすといつもと変わらないごつごつした手のひらがあった。

ペンを持つ白石さんの細い指を思い出して、本当に同じ生き物なのかなと疑問が浮かぶ。そのくらいあの子は不思議な存在だった。同じクラスの誰とも違う。今まで会った人間のうち誰にも似ていなくて、彼女から受けるすべての言動が初体験なものでその都度対応に困ってはオドオドしてしまう。
そんな俺を見て白石さんはちょっとだけ楽しそうにしてる、ような、そんな気がしない、でもない。

けどあの子は真田先輩みたいな人を優しそうでいい人だと言う。それなら俺は白石さんの目にどう映ってるんだ。

そこで初めて自分の行動を振り返ったが、握手で手を握り潰しそうになった事や大した会話をしていない事、まともに目も合わせられていない事を思い出して天を仰いだ。全然だめじゃん。


「それって、恋ってやつじゃね?」


俺は恋なんかした事ねえけど、と道端の石を蹴る三島の顔を見て、言葉を聞いて驚愕した。こいつの口から「恋」などという単語が出てくるとは思わなかった。しかも俺が恋してるって言うもんだから。


「恋って……?」
「は?知らねえの?」
「し…知ってるけど」
「なんか、きゅーんってしたりドキーンってしたり、時々グサーッてなる。らしい」


グサーッてなんだよ。三島の言葉はテレビとか漫画の知識だけを言っているみたいで、本人は女の子にそういう感情を持ったことは無いらしい。あんまりアテにならないな。

「恋」っていうのが簡単に言うとどういうものか、そのくらいは知っている。異性を好きになるって事だ。友達としてじゃなくて別の意味で、だ。
でも今まで異性の友達すら居なかったので、その「好き」の違いは今ひとつ分からない。きゅーん、ドキーン、グサーッていうのも信じ難い。





翌日、週番の3日目。朝練を終えて教室に入ると白石さんはまだ来ていないようだった。
残念だなあと肩を落としつつ席に座り、やがて予鈴が鳴り担任の先生が入ってくる。まだ白石さんは来ない。

先生は俺の名前を呼び、学級日誌を取りに来るよう言った。かちこちに固まりながら教壇まで歩き日誌を受け取った時、がらりと教室のドアが開いた。


「あっ…セーフですか?」


入って来たのは息の上がった白石さんだった。その時ちょうどチャイムが鳴ったのでギリギリセーフだ。白石さんは「よかったー」と安心した様子でドアを閉めて自分の席に向かう時、俺と目が合った。


(おはよう)


きゅううと胸の奥で音がした。
息が苦しい。口パクで朝の挨拶をされただけなのに心の中を一気に彼女に支配されて、もうこれ以上のスペースは無いほど気持ちが膨らんで、それを溢れさせないために必死に抑えようとする苦しさ。きゅうう。
これは三島の言った「きゅーん」ってやつ?


その昼休みに、5限目の授業で新しく配られる資料集か何かを職員室まで取りに行く事になった。週番として。だから白石さんと2人で、だ。
今初めてこうして横に並んで歩いてる。歩く先が職員室である事を覗いても嬉しくて、なんだか足取りが軽くなった気がした。


「私、歴史って苦手だなあ…」


ぽつりと白石さんが言った。5限目は世界史の授業なのでそう言ったのだと思う。


「轟くんは歴史、好き?」
「………え…んー」


全然好きじゃないし何も知らない。織田信長とか、超有名どころの歴史上の人物ならかろうじて分かるけど、織田信長が何をした人なのかは分からない。馬鹿だと思われる。どうしよう。俺が一番詳しい歴史上の人物と言えば、誰だろう。


「…ベーブ・ルース……とか」
「それ、人の名前?」
「…め……メジャーリーグの」


とは言ったもののベーブ・ルースが「歴史上の人物」という括りで良いのかどうか。簡単に言うとアメリカの歴史的なホームラン王だ。小さい頃からああいうスケールの大きな人に憧れていた。


「野球好きなんだねえ」
「………」
「私はルールとか知らないけど」
「………」
「そういえば轟くん、野球の格好似合ってたね!」


自分の心臓が大きく鳴るのが聞こえた。もしかしたら白石さんに聞こえてしまうかも知れないほどの強い振動だ。
先程から苦しかった胸をぎゅっと抑えて、深呼吸をした。俺の、野球のユニフォーム姿が似合ってたって言った?どくり、どくりといつになくリズミカルな心臓の音は三島の擬音を使えば「ドキーン」だろうか。


「失礼しまーす」


そうこうしているうちに職員室へ到着し、世界史の先生に「そこの棚から取って」と言われて指さされた先にはクラス人数分の資料集がきれいに二等分されていた。
この時俺は「俺が多めに持たなければ」と当然考えた。けれど行動に移す前に、ひょいと白石さんが片方の束を持ち上げてしまった。


「あ」


思わず声が出たけど彼女には聞こえなかったみたいで、近くにいる先生にドアを開閉してもらい職員室を出た。

誰も俺のことなんか見ていないけど、「男なんだからもっと持てよ」と思われていないか心配であたりをキョロキョロしてしまう。そんな俺をおかしく思ったのか、白石さんが小さく笑った。


「探しもの?」
「……ちが…」
「あ、ちょっと待って」


白石さんが立ち止まり、よいしょと呟きながら資料集の束を抱え直した。やっぱり重いんだ。


「ごめん、行こ」
「待っ…」
「へ?」
「………それ、俺、あの、」


それ、俺が持つよと言いたかったのに俺の両手も資料集で埋まっているので身振りで説明することが出来ず、一生懸命視線だけを使って意図を伝える。…が、伝わらない。ちゃんと言えよ、言え!


「………俺…」
「あ、雷市じゃん」


意を決して声を出した瞬間に、同じく職員室へ用があったらしい真田先輩が通りかかった。俺の隣に白石さんが居ることと、2人で資料集を運んでいるのを見て週番の仕事中であると悟ったらしい。


「お勤めご苦労様だな」
「………ハイ。」
「重いんじゃね?お前もうちょい持てよ」


すると真田先輩は、白石さんの手から資料集を何冊か持ち上げると俺が抱えている上にどさっと乗せた。


「あっ、いや、大丈夫です重いし…」
「大丈夫、雷市は力持ちだから。な」
「……です。」
「カッコつけさせてあげてネ」


そう言って、真田先輩は職員室へと入っていった。
俺にしか見えないようにガッツポーズをしてみせたのは、俺にエールを送ってくれていたのかな。それはとても有り難い事だったけど、同時に、女の子を気遣う行動がこんなにすんなり出来てしまう人がいる反面、俺は何をぐだぐだしているんだと劣等感に苛まれた。


「あの先輩、ほんとに優しいね」


更に真田先輩の入ったドアを見つめながら白石さんが感心したように言ったのを聞いて、俺の気分はどん底へと落ちた。
今まで柔らかく、ふっくらと膨らんでいた俺の浮かれた気持ちに鋭利な刃物で傷をつけられたような。あ、これはきっと「グサーッ」ってやつだ。

きゅーん、ドキーン、グサーッ、これらの感情を3つともコンプリートした事でやっと自覚した。俺、白石さんに恋してるんだ。

リップシンクは蜜の味.03