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高校野球の知識は親からの偏った教育と、春夏の甲子園の番組と、近所のコンビニで余った新聞を譲り受けて読んだ内容しか持ち合わせていなかった。
それだけでも「高校を受験しよう」と思わせてくれる力があったが、今は勉強を頑張って良かった、高校に来て良かったと思えるもうひとつの事柄がある。絶対誰にも親父にだって言えやしないんだけど。


「じゃあまた昼休みに」
「ん」


朝練が終わり、教室の前で三島と別れた瞬間に俺のスイッチは切り替わる。
と言うと聞こえは良いけど、こんなスイッチは無いほうが良い。それは分かっているのだがどうしても知らない誰かと話すのは緊張するし、野球の事しか話せないのでクラスでは無口になってしまうのだ。お陰様で高校に上がってから新しい友人は一人も出来てない。
そんな俺が「高校に来て良かった」と思える野球以外の理由がここに。


(おはよう)


教室に入った俺の姿を見つけた瞬間に、口パクで挨拶をしてくれた女の子がそれだ。

白石さんは入学式の日に偶然隣の席に座り、それから最初の席替えが行われる数日間だけを隣同士で過ごした。
あの日俺は一番に教室へと入り、窓際の一番前を陣取ったのだ。教室の四隅が一番ほかの人と関わらずに済む場所だから。どうして一番後ろではなく前なのかと言うと、窓際の後ろの方は人気だから、たいてい早くに人が集まってしまうのが怖かったので。
それなのに、まだ空いている席が多いにも関わらず彼女は俺の隣に腰を下ろした。


「よろしく…」


隣に人が座った、しかも女の子だと言うそれだけで緊張してしまったのに声をかけられた。
こういう時はなんと言うのが正しいんだったっけ?顔を見るべき?見られるわけない。いつも対人関係についての助言をしてくれる三島は違うクラスだ、少なくとも向こう1年は一人でこの教室内を耐え抜かなければならない。


「あのー」
「はっ、はい」


とりあえず返事をすると、その子は自分の声が俺に届いていることにホッとした様子だった。その柔らかな表情とは逆に俺はがっちがちに固まった。この子、俺になんか用でもあるのか?無いなら放っておいてもらいたい。他の生徒は皆、俺が「なるべく関わらないでください」というオーラを纏っているのをちゃんと感じ取ってくれているのに。


「私、白石って言います。よろしく」
「………」


俺とよろしくしたいって、きっと頭がおかしいんだ。…という濁った気持ちと、本当にそう思って本気でその右手を俺に差し出してるの?という、久しく感じたことの無い期待が溢れた。

対処方法、昨日家で行った対人関係を上手くやり過ごすための対処方法は、握手を求められた場合応じておく、だ。
そんなわけでその子の右手をぎゅうと握り返した。


「痛っ」
「!!ご、ごめん…」


普通に握ったつもりだったのに痛かったらしい、悲鳴を挙げられてしまった。慌てて手を引っ込めて謝ると、白石さんと名乗った彼女は「大丈夫」と笑った。


「力強いねー」
「………」
「この辺に住んでるの?私、先週引っ越してきたところでまだ友達いなくて」
「………」
「良かったら名前教えてください」


俺の名前を知りたいって、やっぱり頭がおかしいんだ。
…という濁った気持ちは今回は出てこなかった。その代わり、名前を伝えたいのになかなか上手く声が出ない自分を呪った。とどろきらいち、ほんの七文字を口にする事も出来ないなんて情けない。
どうしたもんかと顔を下げた時、自分の胸に名札が付いているのを見つけた。これは便利だ。俺は名札を指さして白石さんへアピールすると、彼女はそれに気付いてくれた。


「……とど…ろ…き?」
「ん」
「下の名前、なんて読むの」
「え」


下の名前、これ、読めないか?それは想定外だった。女の子に向かって自分の下の名前を名乗る機会なんか今まで無かったから、またもや声が出てこない。黙る俺を見てだんだん不思議そうな表情を見せる白石さん。まずい。咄嗟に鞄の中からノートを引っ張り出して、一枚めくったところに「らいち」と書いた。


「…らいち?」
「うん…」
「珍しいね」
「……」
「喋るの苦手なの?」


ここまで来てようやく白石さんは、俺が他人と話すのを苦手としている事に気付いてくれた。長かった。俺が全力で頷くと彼女は「そっか…」と呟いた。気付いてくれれば話は早いので、このまま俺とは関わらずに1年間を終えてもらいたい。


「じゃあこれからは、口パクしよ」
「えっ」
「それなら不自然じゃないよね」


なんか変だけどね、と笑ったあとで白石さんが『よ・ろ・し・く』と口パクをした。声は聞こえてこないのに、こんこんと心臓をノックされたような感覚。
声を出さなくても良いのならと、同じように『よろしく』と口パクで返すと白石さんは微笑んだ。





秘密を共有しているような、そんなおかしな関係になってから数日後。

やっとその奇妙なやり取りに楽しさを覚え始めた時に席替えとなってしまい、白石さんとの席は離れてしまった。しかも俺は隅っこのほうが良かったのに、前後左右を全く知らない人で囲まれて以前よりも居づらい環境に。

今回の両隣は男子で、白石さんと同じように「よろしく」と声をかけられはしたものの上手く返すことが出来ずに、俺の返事を聞かないまま2人とも反対方向を向いた。
普通はこういうもんだ。中学の時だって、俺の隣になった人はさぞかし大変だろうと気の毒にすら思っていた。隣に座ったのが俺で申し訳ないなあと。

でも白石さんは、席が変わる直前に『またね』と挨拶してくれた。当然だけど口パクで。俺も『またね』と返したそのやり取りを思い出して、まあ他の友達なんか出来なくてもいいかと白石さんの新しい席に目をやる。目が合って何かしらの言葉を言ってくれないかなと思っていたけど、彼女の目がこちらを向くことは無かった。既に白石さんは、近い席の同級生と会話が弾んでいるようだったから。


その日の放課後、明らかに機嫌の良くない俺を見た友人たちは顔をしかめていた。


「何かあった?」
「べつに…」
「ならそんな顔すんなよ。俺なんか担任が禿げたオッサンで最悪」
「…あっそう」


そんなの最悪のうちに入らないと思う。初めて仲良くなりたいと思えた女の子と席が離れて、その子が既に他のやつと親しげにしていることと比べれば。


「よお雷市、友達できたか?」


そこに声を掛けてきたのは部活中も家でも行動を共にしている、つまり親父だ。野球部監督をしているので、俺たちは入学式の日からいきなり部活に参加させられた。そのお陰で野球部の知り合いはできたんだけど。


「…できてない。」
「はあ?ちゃんと練習してやっただろ、最初は握手するってよ」
「あんなの意味ねーよ!握手なんかしたって上手く行かなかった」
「お、握手したのか?」
「ん。」
「へえ」


あの雷市がねえと感心したように言っているので、自ら手を差し出したのではなく白石さんの手に応じただけって事は内緒にしておく。そして力加減が分からずに思い切り握ってしまった事も。


「雷市の世話は任せようと思ってたのに、まさかミッシーマとクラスが離れるとは」
「俺は保護者か」


高校生になってまで、友人の一人や二人作ることの出来ない俺は知らないうちに親の悩みの種になっていたらしい。大きなお世話だ。別に友達が居なくたって野球が出来ればいいんだし。白石さんと仲良くなれたとして、野球が上手くなるわけじゃないんだし。


そうして席替えのショックを割り切ろうとしていたにも関わらず嬉しい誤算だったのは、次の日も、その次の日も教室に足を踏み入れる度に交わされる無音の挨拶であった。


(おはよう)


目が合った瞬間に白石さんの口が動く。ごくりと唾を飲み込んで、自分も同じように口だけ動かして返事をする。俺の口が『おはよう』の四文字を形づくったのを理解すると白石さんはかすかに笑ったような気がした。…「気がした」だけで確信できないのは、その時の白石さんの顔をしっかり見るのが恥ずかしくて、すぐに目を逸らしてしまったから。

それに白石さんのほうも、すぐに他の誰かに挨拶をされたようで会話をしているのが聞こえた。その会話に参加できるものなら参加したい。夕食と引換にしたって構わないのにと思ったが、俺の夕食の有無は親父の判断であることを思い出して溜息をついた。役に立たないぐうたら親父め。

リップシンクは蜜の味.01