19.だいすき


頭に血が登ると視界が一瞬真っ白になって、その後真っ暗になって、だんだん光が戻ってくるのだと言うのを実感した。


「賢二郎は辞めたら駄目」


自分がこの暴力行為でマネージャーを辞めることになったとしてもお前は続けろ絶対に、とすみれは肩を震わせながら全身で伝えてきた。俺よりも小さなすみれの身体から大きな気持ちが伝わってきて、俺はそれ以上何もできなかった。

ハヤシが去った後の彼女にろくな声掛けも出来なかったが、もう心は決まっている。今なら何の邪魔な感情もなく彼女に謝ることが出来る。そして、自分の気持ちをぶつける事も。その結果拒まれたとしても恐らく自分は納得出来るだろう。今ならば。


『大丈夫?』


たったこれだけの気遣いの言葉を、どうして交際期間中に送ってやれなかったんだろう。大切なものは失ってから気づくなんて聞いた事があるけど、本当にその通りだ。

先ほどの出来事について太一と話してから、自分の部屋に戻りすみれにメッセージを送信した。もしかしたら彼女はハヤシと電話かなにかしているかも知れないし、俺からのメッセージなんて鼻で笑って無視するかも知れないけど。
どうか読んでくれて、この短い言葉に込めた想いが伝わりますようにと願った。

そして既読の文字はすぐに付いた。とたんに心臓がどくりと鳴るのを感じ、携帯電話を握る手に更に力が入る。そして、握りしめたそれがぶるぶると震え始めた。電話がきたのだ。

「着信」の画面が表示されてから俺が画面をスワイプするまで、どのくらいの時間が経ったのだろう。1時間くらい迷っていた感覚だが、実際は数秒の出来事だったに違いない。


「………はい」


そして、耳に当てた。二人きりの、ほかの誰からも邪魔されることのない環境で会話をするのはいつぶりなのか分からない。緊張で胸が苦しくなってきた。


『もしもし』
「うん」
『……昼間、ごめん』


何故だかすみれが謝罪をしてきた。何について謝られる必要があるのか見当もつかなくて答えに困っていると、彼女は続けた。


『賢二郎は悪くないから、私がハヤシくんを殴ったんだから……辞めないでね、お願い』
「…巻き込んでごめんって事?」
『………うん。』


その答えには、少しだけ怒りを持った。巻き込まれたなんて思ってないし、俺が勝手に二人の間に入っていったのだから。


「俺は辞めないし、すみれも辞める必要ない。あいつ…ハヤシ?も、それは望んでないと思う」
『…………』
「すみれが辞めたら困るよ。俺も太一も他のみんなもすみれが好きだ」


好きだ。どうしようもなく。でもそれを自分の気持ちとして伝えるのは、このタイミングではないかと思えた。

しばらく電話の向こうでは静かにすすり泣く声が聞こえた。
今すぐ近くにワープして小さく丸まった背中を包み込んでしまいたいのに、自分にはその資格が無いなんて。これまで彼女に対して犯してきた数々の罪は、きっと洗われることは無いのだ。この先、たとえ俺の一生を捧げたとしても。


『…けんじろ』
「何?」


だからせめて、自分の気持ちを押し付ける前にすみれの気が済むまで話を聞こうと思う。消え入りそうな声で名前を呼ばれ、精一杯優しく返事をすると彼女からは信じられない言葉が出てきた。


『……会いたいよ…』





こうして暗くなってから寮を抜け出すのは久しぶりだ。午後9時以降は出入りともに禁止とされるこの寮だが、警備はあってないようなものだった。何故なら定められた規則を破る悪質な生徒なんか、白鳥沢には居ないのだから。きっと俺たち以外は。

すみれと付き合っている時、部活が終わってからもまだ会いたい、ずっと話していたいと思った時には決まって寮を抜け出した。
だから教師にも警備員にも見つからない手頃な場所は把握している。皮肉なことに、別れる前の数ヶ月間はここに足を運ぶ事は無くなったのだけど。

校舎からも寮からも少し離れたプールの裏手にそのベンチはあった。水泳部の部室の前。こんな絶好の場所を何故誰もこっそり使わないのか不思議だが、とても都合がいい。


「お待たせ」


既にそこには元恋人、白石すみれが座って待っているという懐かしい姿があった。しかし俺の到着をうきうきと待っていたあの頃とは違い、今はとても顔色が悪い。


「………ごめん。疲れてるとこ呼び出して」
「いや…、座っていい?」


俺が聞くと、すみれは静かに頷きベンチの少し右側に寄った。空いた左側に腰を下ろすが、俺と彼女の間にはなんとも奇妙な距離がある。ここを埋めるにはまだ早い。


「ここで話すのは久しぶりだね」
「…うん。そうだな」
「あのね…ほんとはね、さっき電話した時からここに居たの」
「え?」


さっきの電話は俺がメッセージを送った直後だが、ずっとひとりでここに居たと言うのか。まだ9月とはいえ夜は涼しい上に、ここは少しの明かりが灯っている以外は真っ暗だ。


「びっくりした?変だと思ったでしょ」
「変…つうか…ひとりで?寒いだろ」
「……ちょっと寒いけど。春よりはマシだよ」
「春?………」


春。

この春俺は、何をしていただろうか?思い返すとすみれの記憶なんか無くて、ひたすら部活に没頭していた。
ところどころで彼女が声をかけてきたり、連絡をよこしてきたシーンがあるもののそれ以外何も無い。この場所でこの春、すみれとは落ち合ってなんかいない。


「……まさか、」
「引かれるかも知れないけど。賢二郎と上手くいってない時、たまにここに来てた」


そう言ってすみれは少しだけ笑った。楽しくて笑ったのではなく、その時の悲しい気持ちを思い出して笑うしかなかったのだ。


「ここに来たら、賢二郎と仲良くしてた頃を思い出せたから。初めて手を繋いだのも、初めてのキスもここだし…告白したのもここだよね」


ここ、という単語が出てくる度に彼女は愛おしそうにベンチを撫でる。その手は過去に俺の背中に回されていたもので、しんどい時も悔しい時も上下に優しく撫でてくれたその手つきと同じであった。


「いつもここで、賢二郎の事を考えたよ」
「…………」


俺よりも白い手が悲しそうにベンチの上に置かれているのを、どうすれば包んでやれるのか?どのように包み込むのが自然なのか?そんな理屈は最早どうでもいい。
そういう小難しいこと全部吹っ飛ばして俺が出来るのはもうこれしか無い。


「………賢二郎?」


すみれが大きな目をさらに大きく見開いて俺の顔を見た。どうしてこんなに綺麗な瞳を持つ女の子を放っておいて、きつく当たって、ずっと平気で居られたのかが不思議でたまらない。


「すみれ」


名前を呼ぶと、瞳が少しだけ揺れた。俺がすみれの白い手を包み込むと、さらに揺れた。びっくりして自分の手元を見下ろした彼女の髪がさらりと肩から落ちる。


「ごめん」


何度謝っても足りないし許されるはずなんか無いのに、前に謝った時には「もう遅い」と呆れられたのに、テストで良い点数を取ることしか能のない俺の頭からはこれしか出てこなかった。


「………賢二郎」
「ごめんな」
「けんじろ、」
「ごめん……」
「………」


それから俺は何度の謝罪を述べたのか、覚えていない。「ごめん」という台詞と合わせて目頭から熱いものがこみ上げてきて、すみれの手を覆う自分の手にぼたぼた落ちた。格好悪くて情けない。子どもみたいだ。

そんなダサい俺の肩をすみれが優しく抱いた。かと思えばそのまま細い腕が背中に回り、控えめな力で引き寄せられる。
思わず俺は身体を強ばらせて抵抗してしまった、その意図を知る前に身体を預けてはいけないと思って。


「……すみれ、やめ…」
「やめない」
「……は、え?」
「本当は賢二郎のことがずっと好き。…いちばん好き。大好きなんだもん」


すみれは俺の背中に伸ばした腕を引っ込めたが、そのまま俺の胸元をぐしゃっと掴みその場に頭を垂れた。今度は彼女の目から温かい雫が落ち始め、俺の服を濡らしている。
自分の胸元に頭を預けているこの子が何を言ったのか、理解するにはしばらく時間がかかった。


「………でも…」


俺と別れた後、ハヤシと付き合っていたのに。もう元には戻れないのかと何度も考えては諦めて、夢を見ては捨て、その悲しさを忘れるためにバレーボールに集中した。
そのすみれが俺のことを好きでいるなんて簡単に受け入れられるはずは無かった。


「……嘘だろ、だってハヤシと…」
「あれは私が悪かった、別れてすぐに告白されて…賢二郎の事忘れたくて付き合ってたの」
「…………」
「けど無理だった。いくら賢二郎にひどい事言われても無視されても…賢二郎の優しくて素敵なところいっぱい知っちゃってるんだから」


そうしてすみれは顔を上げた。こんなに間近で目が合ったのは久しぶりなのに逸らすことが出来なかったのは、もう金輪際その視線を逃したくなかったから。


「………ごめんね……あのとき…別れるとか言って、ごめんなさい」


涙でぐしゃぐしゃのその顔で、しゃくり上げながらすみれが言った。どうして俺に謝る必要があるんだろう。そんなに涙を流すなんて勿体ない。俺のために泣くなんて馬鹿げている。


「……泣くなよ。泣きすぎ」
「…だ、って」


もっと大切な機会のために、その美しい涙は取っておくべきだ。そう言いたいのに、俺の口からはそんな台詞が出てこなくて。


「泣き顔、可愛くねえんだから…」
「…………う、」


するとすみれはぎくりとした顔で、顔中の涙を拭って泣き止もうとした。
俺のちょっとした一言がこの子を苦しめ、喜ばせ、どん底へと落とし天にも昇らせる。自分の言葉にそんな力があるなんて知らなかったもんだから軽々しく酷いことを言えたのだ。でも、これからは絶対にそんなことはしない。


「……ごめん。嘘」
「え………」
「可愛いよ。その顔も、怒った顔も全部可愛い。なんでこんな子にあんな事が出来たのか理解できないくらい……」
「………けん…っ」


すみれが俺の名前を呼ぼうとしたが、それに気づく前に俺が彼女を抱きしめてしまった。それも強く、もしかしたら窒息させてしまうかもしれないほどの力で。


「もう絶対にあんな事しない。もう一回だけチャンスが欲しい」


耳の横で、息を呑む音が聞こえた。それが余計に俺を緊張させたけれど、もうそのくらいでは止まらない。今ここから新しいスタートを切るためには、ちょっとやそっとじゃ動じない。だから大きく息を吸って、心を込めてこう言った。


「…俺と付き合ってください」