18.ありがと


その瞬間、思わず目を閉じた。

「馬鹿な事はやめろ!」という気持ちと「そんな奴殴ってやれ」という気持ち、両方ともが俺の中には存在していた。けれど賢二郎の行動の行く末を見守る勇気がなかなか出てこなくて、彼が拳を握りハヤシに殴りかかろうとするのを止めに入るのが一歩遅れてしまったのだ。

ハヤシよりも体格が劣るとはいえ賢二郎は男だ。思い切り人間を殴り飛ばせば相手も自分の拳もただでは済まない。が、俺が目を開けた時、賢二郎の拳は無事だった。


「………いって」


ハヤシの口元は切れていた。その頬は確かに赤く腫れており無傷ではない。何がどうなったのかとすみれを見れば、なんと彼女の手がグーで握られていた。


「……ごめん」


すみれが謝ったが、それはハヤシに対してではなく賢二郎に対しての言葉だった。


「マネージャーが居なくなるかも…」
「……え」


握っていた拳をぷるぷる震わせながら、同じくらいすみれの口元も震えていた。この子が今ハヤシを殴った。顔を。そして、見たこともないほど充血した目でハヤシを睨みながら言葉を続けた。


「でも、賢二郎は辞めたら駄目」
「………」


俺も賢二郎も言葉が出なかった。さっきまでかっとなって真っ赤になっていた賢二郎の顔はいつも通りの肌色へ戻っただけでなく、透き通りそうなほど白くなる。すみれは深呼吸してハヤシに向き直ると「ごめんなさい」と頭を下げた。


「私に殴られたって言って、先生に。一緒に行く」
「………は?」
「私がバレー部辞めるから。今問題を起こしたのは私だもん。それでもうハヤシくんとも賢二郎とも関わらない」


そこは白石すみれのオンステージだった。俺も賢二郎もハヤシですら彼女を眺める傍観者のように無言で、次に発する言葉の正解が分からない。
やがてハヤシが口元を拭い、首を振った。


「…いい。そんなのいい。もういいよ…」


ハヤシは賢二郎に向かって言ってはいけない事を言ってしまったが、すみれへの気持ちが暴走した結果なのは全員が分かっていた。
だから彼が自分の寮へ戻っていくのを誰も止めなかったし、この事を誰かに言い付けてやろうなどと考えている者も居ない。きっとハヤシも考えていないと思う。

ハヤシの姿が見えなくなったと同時に、すみれはその場にへたり込んだ。全身の力が抜けてぐにゃりと曲がったようにも見え、それに驚いて我に返ることが出来た。


「………すみれ」


そうだ、ここで声をかけるべきなのは賢二郎だ。俺は一歩後ろに下がり、賢二郎は前に進んですみれの隣に片膝をついた。


「…大丈夫?」


すみれの背中に恐る恐る手を添えて、賢二郎は彼女の顔を覗き込んだ。するとすみれは俯いたまま力なく訴えた。


「……馬鹿じゃないの、何で賢二郎が殴ろうとすんの?手、怪我したら駄目じゃん。暴力行為なんてしたら試合に出れなくなるじゃん。ほんとに馬鹿だよ」
「………ごめん…」
「…けんじろ、やっと、スタメンになれたんじゃん。こんなので辞めるなんて許さないから…絶対に許さない」


すみれの顔は見えなかったが地面に涙の粒が落ちていたので、俺は二人から視線を外した。
その後も賢二郎は「うん」「ごめん」と言うだけで、決して反論したり話を遮ったりせずに最後まですみれの話を聞いた。





すみれは泣き止んで落ち着くと、「自分で行ける」と言って一人で女子寮に戻っていった。去り際に初めて俺の存在に気づいたみたいで「太一も居たの…」と言うので、何故か申し訳ない気持ちになりながら頷いた。


「……今日はすみれに助けられたよな」


入浴を終えて、俺の部屋。話しかけたけれど賢二郎は無言だ。
考え事をしている時はいつも無言のくせに、一人で解決できる自信が無い時には決まって俺の部屋で黙りこくる。だから俺はいついかなる時も賢二郎の精神状態を分かっているのだ。おそらく、恋人同士だった頃のすみれよりも。


「……俺、殴るとこだった」
「そりゃそうなるわ。賢二郎が殴らなかったら俺が殴ってたかもな」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃありませーん」
「………ありがとな」


気持ち悪いほど優しい声で賢二郎が言うもんだから寒気がした。だって嘘じゃないから。殴らなかったとしても代わりに胸ぐらを掴むぐらいの事はしていたと思う。

…けど、ハヤシもハヤシで気の毒なやつだ。賢二郎の事を忘れ新しい恋に挑戦しようと一歩踏み出したすみれなのに、その相手を好きになれず曖昧にしてしまった自分を一人で責めていたのかな。ハヤシにも自分にも賢二郎にも素直になれない自分を。


「俺はさ、礼とか言われる筋合いないから」
「………」
「すみれに言わないと」


あの時すみれがハヤシを殴らなければ本当に賢二郎は手を出していただろう。こいつのあんな顔は初めて見た。かっとなる事は時々あるが、残暑の涼しげな空気を業火のように塗り替える迫力を賢二郎が持っていたとは。


「…そうだな。すみれに言う」


今やその炎はすっかり治まって、賢二郎が静かに言った。


「俺、全部言うよ」


すみれは賢二郎からの冷たい態度にひどく傷ついていたし、俺だって「あれは無いよ」と何度も忠告をした。それを聞かなかったから賢二郎は別れを告げられた。自業自得だ。

けれど白布賢二郎という男がどんなにどうしようもない奴だって、心の底から悪だなんて事は無い。たったひとりの女の子の存在で、男なんて簡単に心を入れ替えるのだ。その子を大切に思っていればいるほどに。

賢二郎は、そうなるまでに他人よりも少し時間がかかるだけの男なのだ。けれど時間をかけたぶんだけ、すみれを想う気持ちは広く優しく大きくなっていると信じてる。