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合宿の最終日、最後に梟谷との試合を終えたとはいえシャワーを浴びた飛雄くんの服からはとても良い香りがした。けれど背中に回した手の感覚は前と少し違い、飛雄くんに少し触れない間に身体が大きくなっているように感じる。


「…なんか小さくなってねえ?」


頭の上から不思議そうな声が聞こえてきた。飛雄くんからも私が少し小さくなったように感じているらしい。


「飛雄くんが大きくなったんじゃないかな」
「そんな急に大きくならねえだろ」


急に大きくならないという事は小さくもならないという事だが、それを突っ込んだところで飛雄くんは首を傾げるだけだろう。それに今はそんな事より別の話をしたい。


「あれ、成功したんだよね?」


身体を離して聞いてみると、飛雄くんはこくりと頷いた。


「けど、何回もやらないと」
「そうだね…」
「でも正真正銘、成功一発目だな」


互いに個別で練習していたものを試合で合わせて、初めて成功させる事が出来た達成感は、燃えるような彼の瞳を見れば一目瞭然だった。
別々に練習していた理由はコーチに指示されたから、というのも挙げられるが恐らく別の理由もある。私だ。自意識過剰かも知れないけれど、たぶん私。


「…私、謝らないといけない事がある」
「え?」
「翔陽の事で」


私は勝手に飛雄くんを翔陽の相方として歓迎し過ぎていたかに思えた。
10年来の幼馴染である私と翔陽の間に突然飛雄くんを突っ込んでしまった事で、私を含めた三人とも少なからずバランスが崩れただろうなと。それが特に大きかったと推測されるのがこの人、影山飛雄だ。


「あれも飛雄くんの集中を削いでる原因だったのかなって思う」
「………」
「…ごめんね」


浮かれて無神経になっていたかな、と頭を下げると飛雄くんからはしばらく何も聞こえなかった。たぶん怒っているのではなく、こういった正面からの謝罪に慣れていないのだと思う。が、今の彼は正直に応えてくれると分かっていた。


「正直言うと気分は良くなかったけど」
「だよね…」
「おお。全然良くなかった」
「うっ」
「でも俺だって日向が嫌いなわけじゃないから…いや好きでもねえけど。断じて好きでは無いけど」


好きではない、の部分を強調するところは普段どおりの飛雄くんでほっとした。でも翔陽のことは恐らく好きなんだと思う。変な感じだけど、けっこう好きなのだろうなと思う。


「すみれと仲良くなれたのも、少なからず日向のお陰なわけだし…まあ…日向の事なんか全く好きじゃねえけどな」
「ぶっ」


否定の仕方が面白すぎてついに笑ってしまった。もちろん飛雄くんはそれを見て眉を釣り上げる。


「なに笑ってんだよ」
「ごめん…」
「こっち向け」
「ふふッ無理、いま不細工だから」


しかし飛雄くんは長く、そして少したくましくなった腕を伸ばし私の肩に置いた。

無理矢理ではないが決して弱くもないその力で固定され、身体を動かすのは不可能だ。私の胸は真っ直ぐに飛雄くんのほうを向き、彼もまた私を真っ直ぐに見下ろしていた。


「………と…飛雄…く」


思わず名前を呼んだ。こんなにも長い間見つめ合うのは久しぶりか、あるいは初めてだった。昼間とはいえここは校舎から少し離れており、夏休みで生徒も居ないのでとても静か。
そんな場所で恋人同士が長いこと見つめ合っていれば、する事は恐らくひとつだ。しかし、まだ私たちはそれをした事がない。

だから身体が固まってしまった私に気づき、飛雄くんもはっとして手を緩めた。


「……悪い」


でもこのまま離れてしまうのは勿体無い。と言うと語弊があるが、「もっとこうしていたい」という気分が勝り飛雄くんの腕を掴んだ。


「待って」
「!」


飛雄くんがぴたりと動きを止めた。
身体だけでなく瞼の動きも止まったようで、瞬きもせずに私を見下ろしている。そんな目に見られるのは恥ずかしいけれど、それに耐え抜いてでも成し遂げたい事がある。

私だって健全な女の子だ。好きな人とふたりきりで恋人らしい事をしたい。本当はもっと早くにしたかったのに、ここ数週間それが許されなかったんだもん。我慢したんだからそのくらいの我儘は聞いてもらえるでしょう、と言わんばかりに私は顔を上に向け、目を閉じた。そして短く、


「ん」


と言って唇を捧げる決意をした。
私の肩に置かれたままの飛雄くんの手に、少しだけぎゅっと力が入るのを感じた。


「…………いいのか?」
「いいよ」
「…ほんとか?」
「ほんとだよ」
「……でも」
「もう!早くしてよ!」


私はずっと目を閉じたままだから彼がどんな顔をしているのか分からないけど。キスを待つ顔を延々とさらけ出している私の身にもなって欲しい。


「私だってずっとしたかったんだよ」


ずっと、こうして話すのを延々と待っていた私の身にもなって欲しい。

するともう一度、彼の手に力が入った。かと思えば弱まって、その代わりだんだんと体重がこちら側に寄りかかってくるのを感じる。顔が近づいている。…深呼吸が聞こえる。
その吐いた息が私の頬に当たって気持ちがいいなと思っていると、ついに唇へ何かとても柔らかいものが触れた。

そして、一瞬だったのか数秒経過していたのか分からないが、とにかくあっという間にその柔らかいものが離れた。それと同時にゆっくり目を開けると、目の前には感極まっている影山飛雄。


「…………やわらけえ…」


ふわふわのソファに初めて腰掛けた瞬間みたいな、ほわほわのマシュマロを初めて口にした瞬間みたいな感想。しかし私も同じことを感じていた。


「飛雄くんのも柔らかいね」
「……も…もう一回確かめていいか」
「確かめる?」
「どのくらい柔らかいのか」


私はごくり、と息を呑んだ。しかし彼の喉仏もごくりと動いていたので、互いに息を呑んだのだと思う。
私がイエスの返答をする前に飛雄くんは再び私の肩に手を置いてその美しい顔を近づけてきた。これを拒否する理由もなく、むしろ私の方こそ懇願したいくらいだから。


「……何回でも確かめていいよ」


唇の柔らかさをこの身で覚えることができるまで、何回でも。

おかえりなさいこんにちは