16.すきなこ


今日は一年生が課外学習だか校外学習だかで午後からどこかに行っているらしく、部活には参加しないのだそうだ。そう言えば牛島さんが今朝言っていた気がするが、トイレに行くのを我慢するのに必死だったから覚えてない。

賢二郎と俺が体育館に入ると既に他の二年生がコートを張っていたり、ボールなどその他道具の用意も済んでいた。ラッキー。


「なあ太一」


賢二郎が靴紐を結びながら言った。相変わらず丁寧すぎる手つきだ…うわ、蝶結びの長さが均等じゃないからって結び直しやがった。


「おい聞いてんのか」
「あっ?ああごめん。几帳面だなと思って見とれてたわ」
「は?」
「ごめんごめん、何?」


賢二郎のエベレスト級のプライドを傷つけるのは程々にして、やっと俺が聞き返すと穏やかな顔に戻った。…絶対にすみれの話をする気だ。


「すみれなんだけど…」


やっぱり。


「何でハヤシと別れたんだろうな」
「………え?」
「大事にしてくれそうな雰囲気だったのに。少なくとも俺よりは」


何を仰るのかと思えば賢二郎さん。心の中では「別れてくれて良かった」と思っているくせに、いつの間にか偽善者ぶるというテクニックを使いこなせるようになったらしい。


「それは分かんねーよ?て言うか今にもシュートされそうだったじゃん」
「はは、シュートね…」
「それに、」


それに俺は、ハヤシと別れたすみれが以前よりも明るい顔になっているような気がした。賢二郎は気付いているのか知らないが。
ハヤシからの猛烈なアプローチが重荷になっていたのかもしれない。加えて本当は賢二郎の事が好きなのに、それを隠して付き合っていた罪悪感から解放されたことも原因かな。


「…それに、何だよ?」


俺はうっかりこの一連の思いを声に出すのを忘れていたので、賢二郎からの催促があった。


「いやーごめん…忘れた」
「はあ?」
「お前その、はあ?っての怖いから辞めて」
「無理。やめねえ。絶対やめるもんか」
「すみれだって嫌だったろうなあ…」


と、ついつい言ってしまった俺は「やばい」と思った。言っちゃいけない事だったかも?また賢二郎の魂がどこかに飛ぶ、あるいは地中深くに落ちてしまうかも。

しかしその心配には及ばなかったらしい。すんごい顔して特大の「は!?」が返ってきたから。





賢二郎は可もなく不可もなくと言った様子で今日の練習をこなしていた。
もちろん俺は安堵したのだが、こういう時は次から次へとトラブルが起こるものだ。安心してはならない。なんたってハヤシはまだすみれの事を諦めていないようだし。

そのすみれがひとりでドリンク補給に向かうのが見えたので、俺も喉が渇いたし一緒に行くことにした。


「ありがとねー助かる」
「いいよ、練習休めるしな」
「レギュラーのくせにそんな事言わない」
「へい。」


相変わらず賢二郎に似て真面目なすみれだが、特に怒った様子はない。それどころかちょっと笑ってみせたりして、以前のような…賢二郎と上手くいっていた頃のような華が戻っているかに見えた。


「あの日、ハヤシくんと別れたよ」


ボトルをゆすぎながらすみれが言った。俺は「知ってるよ」と言うべきか「あ、そうなんだ?」と言うべきか迷ったが、俺の答えを待たずにすみれが続けた。


「ちょっと揉めたけど。でも自分の気持ちに嘘はつけないもんね」
「揉めたんですか」
「まあ、ほんのちょっと」
「………ふーん」
「…それよりさ、賢二郎ってさ…」


すみれがハヤシの話をしている最中に「それより」と賢二郎の話を始めた。ついに来たのか、俺の頑張りが実を結ぶ時が?


「賢二郎って、なんか変わった?」
「……??変わった、とは?」
「さっき…何か、前と違った気がしたから」


その時俺は、きゅっと蛇口を締めるすみれの手が偶然目に入った。怪我してる。何の怪我だろう?いつの怪我だ。ハヤシと揉めた時に負ったとか言わないよな。


「太一聞いてる?」
「お、おお」
「さっき、賢二郎が私に謝った」
「………ん?」
「付き合ってる時は私が注意したりお願いしても、謝られる事なんか無かったのに」


むしろ逆ギレしていた。最後のほうは。
確かに賢二郎は先ほど体育館に入る時、今日は二年が用意をする日だから早くしろとすみれに言われて謝っていた。「忘れてた、ごめん」と。


「……やべえ。謝ってたわ」
「でしょ。…インターハイの時の事とか、前に謝ってくれたけど…そういうのじゃなくて…自然に謝られた」


賢二郎が自然な流れですみれに謝罪するなんて。別れた後に「悪かった」と謝ったのは知っているが、そういう改まった謝罪ではなく口からぽろりと「ごめん」の言葉が出てくるなんて凄い成長なのだ、彼にとっては。


「あいつ丸くなってんなぁ」


俺は本当に感心した。だからこう言ったのだが、すみれは顔を伏せて悲しそうに呟いた。


「好きな子でも出来たのかな…」
「…………」


俺は悔しい。
この場で発言権を持っていない事が。俺には賢二郎の気持ちを代弁する資格が無いという事が。俺は白布賢二郎ではなく川西太一であるという事が。


「…ま、恋したら性格丸くなるよね」
「……や…どう…かな?知らね」
「どもり過ぎだよ太一。やっぱり新しい恋してんのかなあ…私も頑張らないと!よしよし」
「いや、」
「じゃあねー」


すみれが突然全てのボトルを無理やりまとめてカゴに入れ、体育館ではない別の方向へと走っていった。まだゆすぎ終えていないボトルだってあったのに。


…100パーセントの確率で彼女は人目のつかないところへ到着したら涙を流すだろう。
これって俺のせい?賢二郎のせい?ハヤシのせい?