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一昨日の夜、食堂の片付けを手伝っていたところ赤葦さんがやって来た。
てっきり水を飲みに来たものかと思ってグラスを渡したところ、「さっき…」と話しかけられたのだ。


「影山が走りに行ったよ」
「………え?」


飛雄くんが動き足りない時に走りに出るのはいつもの事だけど、どうしてそれを赤葦さんが私に報告するのか不思議だった。更に第3体育館での練習の際には、翔陽や木兎さんには聞こえない程度に飛雄くんの様子を伺ってきたし。

同じポジションだから意識しているのかなと思ったけれど、私と飛雄くんの関係を知っているからこその行動かも知れない。…今、別れていることは知らないのだろうけど。


「いつも走ってるの?」
「……大体は、そうみたいです」
「練習はどのくらい?」


グラスに二杯目の水を注ぎながら、赤葦さんが言った。たくさん汗をかいたのだろうか、という事はよほど身体を動かしたんだろうな。
でも赤葦さんの練習量なんて知らないけれど、私は胸を張ってこう言えるのだった。


「……たぶん、誰よりも沢山です」


そうでなければコートに立つ飛雄くんの美しい姿を見る事なんか出来ないのだから。赤葦さんは私の答えに満足した・あるいは興を引いた様子で笑った。


「そう」
「何でそんなこと聞くんですか?」
「…何か難しそうな顔してたから」
「影山くんが…」


基本的には小難しい顔をしているけれど、今は特にそうなのだと思う。秋に控えた春高予選に、私という存在に、他校のセッター達の存在。でもそれらの軸となる新しい速攻を決める事こそが、一番大きく頭の中を占めている。


「…今は秘密の特訓してるので。だから色々考えてるんだと思います」
「ふーん…良い人なんだろうね」
「……良い人?」


飛雄くんは確かに良い人だ。関われば関わるほど、話せば話すほど。でも赤葦さんは合宿期間中の彼しか知らないのに、どうして良い人だと認定しているんだろ。


「彼ってさ、闘志も敵意も好意も真っ直ぐぶつけてくるだろ」
「…まあ。でもそれって良い人ですか?」
「すごく良いと思うよ」


つまり既に飛雄くんは、赤葦さんへの闘志・敵意・好意をそれだと勘づかれるほど強く発信しているのだ。
そして赤葦さんは飛雄くんの闘志なり好意なりを感じ取っている。その都度何も言わないのは飛雄くんを観察しているからか。


「けど、試合では負けない」


そして、試合で示すためだ。
だから私も今、赤葦さんから感じた挑戦は試合で返すことにした。もちろんそれは、彼に託すこととする。


「……飛雄くんも、負けません」





そんな会話をしてから一日半が経過し、ついに合宿最終日。コーチはまだ翔陽と飛雄くんへ、新しい速攻の許可を出してはいない。本人達も「やらせてください」と言わないということは、そういう事なのだろう。

けれど試合の相手は梟谷学園、烏野高校はなんとなく押し気味のように見えた。なんだか、少しだけみんなが集中しているかのような。


「……なんか…」
「どうしたの?」


やっちゃんが私の呟きに反応した。どうしたのと聞かれると、具体的に言葉にするには難しい。


「…よく分かんないけど…」


私の勘違いかも?と思わせるほど微妙な微妙な違いだったのは飛雄くんの様子。
まわりの集中に押されているのか、普段でも充分きびきびしているのにいつも以上の的確な動きを見せている、かに見える。その程度。


「あっ?」


試合を見ているやっちゃんの口から声が漏れた。彼女もずっと二人の練習を近くで見ているから、その明らかな変化には容易に気づいたに違いない。

それは一瞬の出来事だった、翔陽の助走がいつもより早くコート内の誰もが少なからずそれに気付き意識しただろう。もちろん飛雄くんも。そして、ここ最近ずっと彼らにボールをあげていた先生も、やっちゃんも、私ですら「これだ!」と確信する攻撃が決まった。





合宿がすべて終わり、バーベキューだ!と全員が盛り上がっている中私はある一人の人物のもとへ走る。
潔子先輩とやっちゃんが「準備は人手があるから大丈夫」と言ってくれ、申し訳なさはあったもののそれを上回る興奮で溢れていた。


男子バレーボール部員がシャワーを浴びて汗を流し、着替えを済ませてバーベキューの準備までひと休みしているところへ向かう。体育館の中や、出入口のところに座り込んでいる部員たちの中に彼の姿はあった。


「……か、…」


苗字を呼ぼうとしたのだが、例え「飛雄くん」ではなく「影山くん」と呼んだところで目立ってしまうことに気づいた。烏野以外の人もここには集まっていたから。


「俺、トイレ行こーっと!」
「……おれも行く」


飛雄くんのそばにいた翔陽と孤爪さんが立ち上がり、連れ立ってどこかへ歩いていった。
周囲の注目を私ではなく自分たちのほうへ向けるためにわざと大きな声を出したのかもしれない。すれ違いざまに目が合った時、笑っていたから恐らくそうだ。


ふたりが去っていくのを見送っていると、知らない間に飛雄くんが立ち上がり私の横まで来ていた。そしてほんの少し、本当に少しだけ立ち止まり目が合った。

彼はすぐにそのまま歩いていったけどその一瞬で全部通じた気がして、私も飛雄くんのあとを追った。


「あの、」


私が呼びかけると、そろそろ誰も居ないと思ったのか飛雄くんが立ち止まった。そのまましばらく振り返らずに居る。私は飛雄くんのうなじを見つめながら、色んな事を我慢していた。

例えば「合宿お疲れ様!」とハイタッチする事。「速攻成功して良かった!」と思い切り抱きつく事。「これで私たち、元に戻れる?」と聞く事。


「すみれ」
「はっ、はい」
「もう遅いかも知んねえけど」


ぴりりと緊張が走る。囁くように話す彼の低い声を聞き逃さないため、私は一歩近付いていく。同時に飛雄くんが左脚を一歩引いてゆっくりと振り向いた。


「まだ遅くないなら…」


いつもながら、大事な事を言う時にはっきりと口を動かせない彼の口元は今も小さくもごもごしていた。
しかし飛雄くんが何を言おうとしているのかは、その目を見ればすぐに分かった。


「………遅い」
「悪い…」
「遅いよ…」
「ごめ、」


飛雄くんがその謝罪の言葉を言う前に、とうとう我慢出来なくなった。こんなに思い切り両手を広げた事はあるだろうか?こんなに強く地面を蹴ったのはいつぶりだろう?
記憶にないほどの力を使ってジャンプして、私は彼の胸へとダイブした。

良い人