05瀬見くんは怪我が治らない間もずっと部活には参加していたようで、朝は練習の後ギリギリに教室へ入ってくる日が続いた。
私はと言うとここ最近週末を挟んだり家の用事があったりして、一週間ほどあそこでスケッチをしていなかった。
早く描きたいなあ、という気持ちとともにもうひとつ、別の事が頭を過ぎる。瀬見くんの部活の様子はどうだろうかと常に考えるようになったのだ。
クラスではあまり話す機会も無く、休憩時間私は女友達と過ごしているし瀬見くんも男友達と居たり部活の集まりに行っている。時々目が合う時もあるし、すれ違えば挨拶はするけれどそれ以上の会話は無かった。
思えば瀬見くんと私はずっとその程度の関係だったのに、今やなんだか物足りない。
しかし今日やっと、約一週間ぶりに体育館裏の花壇へ行く時間ができた。
とは言え今日は、かなり汚れて散らかっていた美術室の掃除を終えてからなので夕日が沈みかけている。部員それぞれが色んな道具を使って色んな作品を好きなように作るので、沢山のものが散らかりっぱなしだったのだ。
色とりどりのガーベラはすべて夕日でオレンジがかっていて、これはこれでとても綺麗。この状態を見る事ができるのはサンセットの限られた時間だけだなんて勿体ないな。
体育館の外壁にもたれかかりしばらくそのガーベラたちを眺めていると、中からボールの音がした。
そう言えばいつもは沢山の声、シューズの音が聞こえてくるのに今はそれが無い。ボールがだん、だんと弾む音のみが響いている。
瀬見くんかな?
なんの根拠もなく、ただ私の心の奥にある期待だけがそんなふうに思わせた。
通気口からゆっくりと顔を覗かせると、ちょうど中からも顔が現れた。…瀬見くんの顔が。
「わあっ!?」
「おー、やっと来た」
驚きで後ろに倒れそうになったのを僅かな腹筋で支え、それを見た瀬見くんが「何やってんだ」と笑った。恥ずかしい。
「今日は今から描くのか?」
「いや、今日は…もう日が暮れそうだから見るだけにしようかと思ってたところ」
「ふうん」
私たちは小さな通気用の窓越しにそんな話をしていた。
なんだかそれがドラマのワンシーンみたいで、勝手にドキドキしている。瀬見君はおそらくそんなこと考えてなくて、ただ座り込んでボールを触っている。
かと思うと再び顔を私に向けた。
「中入る?誰も居ねえし」
「………へ」
「あ、それ見たいなら無理にとは言わないけど」
それ、と言いながら彼は花壇のほうを指さした。
そうだ私は花壇を見に来たのだった、瀬見くんに会いに来たのではなく。
しかしこの狭い窓口から瀬見くんの姿を見るのではあまりにも物足りなくて、「じゃあちょっとだけ」と鞄を持って体育館へ入った。
広い体育館の中にはほんとうに誰も居なくて、一面だけコートが張られていた。
そして、ボールが沢山入ったカートがあって瀬見くんが散らばったボールたちをそこに投げ込んでいる。私も足元にあったボールを山なりに投げてみると、うまくカートの中に入った。
「おお、上手いじゃん」
「へへ…」
そんな偶然の事を、ちょっとした事を褒めてくれて正直嬉しかった。
瀬見くんはひとつのボールを取り出して、その感触を確かめるようにバウンドさせる。空気の入り方を見ているようだ。
「一人で練習してるの?」
「サーブのな」
「…サーブ」
「そ。しばらく出来なかったから」
ああ、と私は納得した。利き手の拳を怪我してからの三週間、サーブの練習が出来ていなかったようなのだ。だから今日は部活自体は早めに終わったけれど、無理を言って体育館を使わせてもらっているらしい。
瀬見くんは、数回ボールを床に叩きつけたあと両手で持った。
その視線はボールではなくネットの向こう側を見つめている。どこに打つかの狙いを定めているのだろうか?ぎゅっと閉じていた口が小さく開き息を吸った。
そしてボールを高く上げ、私はそのボールを追うのに必死だった。気づいた時には瀬見くんは床を蹴り高く飛び上がり、完治した右手で思い切りボールを打ち抜いた。
「………っわ」
その威力といったら、怪我が治ったばかりとは思えないほど。
バレーボールは詳しくないけど、今のが凄いものだと言うのは分かる。つい先日までうちのバレー部のレギュラーだった彼なのだから。
しかし瀬見くんのサーブは予想とは違う場所に落ちたらしく、小さく舌打ちするのが聞こえた。
「くっそ」
「い、今のはハズレ?」
「ぎりぎりアウト」
「……」
何度かその場で腕を回して素振りしたのち、もう一度ボールを取り出す。そして、再び深呼吸。それからは何度も何度も一人でサーブを繰り返していた。
私はボールが勢いよく弾む音を聞きながらスケッチブックの新しいページを開き、えんぴつを持った。
体育館の中を描くのは初めてだ。
でも瀬見くんが練習に打ち込む場所だと考えれば、ここはとても親しみが持てる。描きなれない図だが一度描き始めると集中してしまい、気づけば周りの音は耳に入らなくなっていた。
「おーい」
突然、目の前でひらひらと大きな手が揺れた。私の顔とスケッチブックとの間に現れたその手は瀬見くんのもので、無心で絵を描いていた私は驚いて顔を上げた。
「わ、びっくりした」
「すげえ集中してたな」
「ごめんごめん…もう帰る?よね?」
「おう」
瀬見くんはすでに荷物をまとめていたようだ。ネットは明日の朝も使うから出しっぱなしにしているらしく、ボールのカートもコート脇に置かれたまま。
私も急いで広げていたものたちを鞄に入れようとすると、瀬見くんが床に置いたスケッチブックを拾った。
「白石って絵上手いな」
「げ!ちょ、見ないで下手だから!」
「どこが」
「初めて描いたし…」
私の制止を軽く躱しながら、瀬見くんは興味深そうに体育館の絵を見ていた。
舞台とか、バレーボールのコートとか、上のほうに設置されたバスケットのゴールとか、描き慣れないものばかりなので良い出来とは言えない。
「めちゃくちゃ上手いじゃん。遠近法っつーの?このへんとか」
「そんな事ないって」
「けど一個だけ足りねえな」
そう言って、やっとスケッチブックを私に差し出した。
足りないとは何だろう。何か描き忘れがあっただろうか。自分の絵を見ただけではそれが分からず瀬見くんに聞こうと顔を上げると、ぴたりと目が合った。
「俺が居ない」
瀬見くんは私の目をまっすぐ見下ろして言った。
その悪戯っぽさと優しさの混ざった瞳に釘付けになり、目が離せない。言葉も出ないまま自分をひたすら見上げる私に困惑したらしく、瀬見くんが軽く咳払いをした。
「…つってな!帰るか」
「う……うん」
彼に続いて歩き始めたその体育館では、ふたりの足音しか響いていない。外に出ても誰もいない、もう全員寮に戻っているかあるいは帰宅しているようだ。
夕日が沈みきっているお陰で、私の顔がももいろに染まっているのは気付かれていないと信じたい。
頬はももいろ