03


あの話を聞いてしまってからというもの瀬見くんはずっと、クラスではやっぱりいつもと変わらなかった。彼の手には無造作に貼られた湿布ではなく、きちんとした包帯が巻かれている事以外は。


全治三週間だと聞いた怪我の事も、バレー部での事も気になるけれど私は元々瀬見くんと特に仲が良いわけじゃない。一日に一回話すか話さないか程度のただのクラスメートだ。
だからあんな話を私なんかに聞かれてしまい、瀬見くんはたいそう嫌な気持ちになっただろう。あれから彼は何も言ってこないし目も合わず、私から話しかける事もなく、その状態で数日間が過ぎた。


あのような事があってからも変わらず体育館の裏でスケッチをするのは少し気が引けた。
けれどあの花壇に咲く花を描くのだと心に決めているのでいつかは再びあそこに行かなければならない。


そんな時、丁度よくバレー部が数日間の遠征に行く事を耳にした。と言うことは体育館は使用されず、私があの場に座っていてもスキャンダラスな会話が聞こえてくることもない。
バレー部が出発した日の放課後、ここぞとばかりに足早に花壇へと向かった。





いつもの場所に到着して、念のため通気口から体育館の中を覗いてみる。
誰もいない事を確認して胸をなで下ろし、ビニール袋の上に座った。


久しぶりに静かな環境で練習に集中出来るなあと思いながらも、瀬見くんの心境を思うと胸が痛くなる。
強豪校運動部のレギュラーで居続けるのは大変なのだろうけど、一度レギュラーとなったのに外されてしまう事の悔しさは計り知れない。スポーツ未経験の私ですらこんな気持ちになってしまうのに、本人はどれほど辛い事か。


「………描こ」


他の人の事にばかり構ってはいられない。
私は色えんぴつで絵を描くにはまだまだ練習が足りないのだから、今はこっちに集中しないと。

と、その時背後で音がした。
私が背を向けている体育館の中からだ。

誰かが体育館倉庫にでも用事があるのかなと思っていると、その足音が近づいてきた。
何だろうなともう一度通気口から顔を覗かせた時、突然目の前に何かが落ちてきた。


「ん」


と声を上げたのも束の間、どうやら落ちてきたそれはペットボトルか何かだったらしく大きな音をたてて体育館の床に転がった。

それだけでなく蓋が空いていたようで、中に入っていた飲み物が勢いよく通気口のほう…つまり私の顔めがけてばしゃっと零れてきたのだ。


「うひゃっ!」
「うわっ?」


当然、顔面に液体を浴びた私は驚きの声をあげたがその私に驚いて別の声が聞こえた。


「すんません大丈………」


犯人は膝を付いて足元の通気口を覗き込んできた。互いの顔を見た瞬間私も相手も動きが止まってしまった、その人は瀬見くんだったのだ。


「白石!?わり、顔ぐっしょぐしょ」
「瀬見くん…あれ、遠征…」


バレー部が遠征で居ない時を狙ってきたのだが体育館には瀬見くんが。

そして彼が持っていたのは買ったばかりの水だったようで、きんきんに冷えていた。私の顔だけでなく髪、制服までもちょっと濡れてしまっている。


「俺はコレだから…今回は留守番」


瀬見くんは包帯の巻かれた右拳を示した。ああやってしまった、嫌なことを言ってしまった。

しかし彼は勢いよく立ち上がるとすぐに体育館の外に出てきてくれて、持っていたタオルを渡された。


「悪い、キャップがうまく開かなくて触ってたら手元が狂って…」


そういえば瀬見くんは片手を包帯で巻かれているので、ペットボトルを上手く開けることが出来なかったらしい。
そんなの仕方が無い事だし、もしジュースなら大変だったけど幸い水だから乾けば問題ない。


「いいよ、乾くの待つから」
「でも…これまだ使ってねえから」


瀬見くんにもう一度タオルを差し出されたので、お言葉に甘えて顔とか頭を少しだけ拭かせてもらった。
タオルが揺れる隙間から瀬見くんの顔色を伺ってみると、何か言いにくそうな事を言おうとしているかに見える。何の事か察しがついた私は頭を拭くのをやめた。


「もう大丈夫。あ…洗濯とか…」
「いいってそんなの」
「ほんと?ありがと…」


タオルを返し、それを受け取りながら瀬見くんはちらりと私の顔を見た。私が何を考えているのか伝わったらしい。


「…この前なんだけど…、カッコ悪い話聞かせて悪かったな」


瀬見くんはタオルを首にかけると、ゆっくり腰を下ろしながら言った。
私も元いた場所に座り、瀬見くんとはお尻二つぶん程の間を開けて並んで座る状態となる。


「怪我は大丈夫?」


なんと答えていいか分からなくて怪我の様子を聞いてみたけど、怪我の事も聞かれたくなかったかもしれない。失敗したかな、と冷や汗をかいたが彼は弱々しくも笑った。


「…大丈夫じゃない。全治三週間だってよ、笑えるよな」
「笑わないよ……」


やっぱり失敗だったろうか。
怪我をしたそもそもの原因は瀬見くんが壁を殴ったからで、壁を殴った原因はバレー部のレギュラーから外れた事だ。私が気安く振っていい話題では無かったかもしれない。


私たちは二人とも黙り込んでしまい、数分間が経過した。
風が吹くたびに緑の香りが漂ってきて、目の前に広がる小さな花壇の花たちが揺れる。瀬見くんはそれをぼんやり眺めていて、やがて口を開いた。


「…なあ。何でいつもここで描くの?」


本当にそれが気になったのか、わざと話題を変えるためかは分からないけど。瀬見くんの気分を少しでも紛らわせるために、その話に乗ろう。


「ここの風景が好きなの。あの花が」
「へえ…毎年咲いてるよな、あれ。なんていう花?」
「ガーベラ。って知ってる?」


聞いてみたはいいが、彼が花の種類に詳しいようには見えない。
瀬見くんは怪我をしていない方の手で頬をぽりぽりかいて「名前は聞いたことある」と言った。男の子だからその程度だろうなぁ、女の子でも花の種類に詳しい人はあまり居ないかもしれないし。


「色んな色があって綺麗なんだよね」
「確かになー」
「…うん。きれい」


ガーベラは珍しい花ではないし、育てるのが難しいわけでもないごく普通の花だ。ガーデニングが好きな家庭の花壇には結構咲いているし、こうして学校の花壇にも植えられて枯れることなく毎年咲く。
特別な事は何も無いんだけど、私にとっては特別なのだ。


「入学したばっかりの時、なかなか学校に馴染めなくてさ。周りはどんどん友達作っていくのに」
「ああ…」


昼休みとかに話す相手もいなくて、早く午後の授業が始まらないかなと思いながら意味もなく校舎内を歩いていた時にこの花壇を見つけた。
その時は、花そのものに何かの感動をおぼえた訳では無い。ただ時間を潰すために、なんとなくこの花について調べてみようと思ったのだ。


「これがガーベラだって知ったのもその時だよ、あんまり花に興味もなかったしね」
「ふうん」
「でもさ、なんとなく花言葉とか調べたらさ…ちょっと頑張ってみようかなって思ってさ」


そうしたらだんだん友達もでき始めて、美術部に入れば部活の友達も増え、学校に来るのが苦ではなくなった。二年の時には彼氏なんかも出来たりした。数ヶ月で別れてしまったけど。

そんな普通の高校生活を送れているのはたぶん、些細なことだと思われるかも知れないけど、この花壇のおかげなのだ。


「花言葉ねえ」
「まぁ男子は興味ないよね」
「はは、無えな」


瀬見くんはけろりと笑うと立ち上がった。そのまま花壇の方へ足を進めてガーベラの花を眺めたあと、「じゃあ戻るわ」と振り向いた。


「戻るって?…バレーするの?」
「さすがにボールはそんな触れねぇけど、身体動かさなきゃ調子狂う」
「………そっか」


「白布が出るならいいだろ」と牛島くんに言っていた瀬見くんだけど、やっぱり試合には出たいのだろう。当たり前だ。

立ち去る瀬見くんを眺めていたら、ふと彼は立ち止まった。


「…ガーベラの花言葉って何?」


それは単なる興味本位での質問だったかもしれない。
けれど後から考えると、とてもベストなタイミングでベストな質問をしてくれたと思える。私が瀬見くんに掛けてあげたいと思っている言葉を言うチャンスをくれたのだから。


「………常に前進、だよ」

まっしろな風景