02


翌日の授業では、瀬見くんの様子はとても普通に見えた。
昨日出血していた拳には湿布のようなものが貼られているけど、保健室で施された処置では無いように見える。

瀬見くんは授業中、先生に当てられてもいたって普通に答えていたし正解していた。
私から見て彼の席は斜め前にあり、三つほど離れている。黒板を見上げるたびに見える横顔からは感情が伺えなかった。

しかし次から試合に出られない事を彼がどう思っているのかなんて、その手を見れば一目瞭然だ。ぶつける場所のない感情を内に抑えていた結果、壁を殴るという行為に至ってしまったんだろう。ぼんやり考えていると、後ろの席の女の子が私の肩を叩いた。


「白石さん、当てられてるよ」
「えっ!?」


どうやらぼーっとし過ぎていたらしい、知らない間に当てられていた。


「授業中だぞー」
「すみません…えーと…」
「24ページの問2」
「あ、ありがと」


後ろの女の子が助け舟を出してくれたので何とかどの問題を当てられたのかは分かったが、結局答えは分からなくて赤っ恥だった。

ついてないなぁと机に視線を落とし、ふと思い出して瀬見くんのほうを見る。と、彼も私を見ていたらしく目が合った。


(うわっ)


つい今しがたの失態を見られていたのかと思うと恥ずかしくて、私はすぐに目を逸らした。…と言うのは嘘で、昨日あんな話を聞いてしまった手前、瀬見くんの顔から直接感情を読み取るのが恐ろしかったのだ。





その日も私はバレー部の体育館の裏に座り、花壇をスケッチしていた。

どうしてもここの風景を描くのは譲れなかったし、三年生になる今まで何度かこの花々に助けられた事のある私は最後にそれを絵にしたいと考えている。けれど色えんぴつで表現するには難しく練習が必要で、だから瀬見くんの話があったとはいえ今日もここに座るしか無かった。

でもやはり背中には通気口があり、そこから色々な話が聞こえてくるのだった。


「あれ、瀬見さんは?」
「…あ。そういえばドコだろ」


瀬見くんの姿が見えないらしく、このような会話が聞こえる。まさかまた壁でも殴ってるんじゃ、と冷や冷やしながら続きを聞いた。


「病院いってるんだってさ」
「病院?」
「なんか、ヒビいったらしい」


冷や冷やどころか、完全にひやりと背筋が凍るのを感じた。


「ヒビ?またどうして」
「昨日のほら…」
「あー…大丈夫か?セッターだろ」
「知らねえよ。自暴自棄ってやつかな」


昨日壁を殴り出血していたあの拳は、骨にひびが入ってしまったらしい。

ポジションとかはよく分からないけれど、手を使うスポーツで拳の骨を痛めるのは致命的ではないのだろうか。…そのようにするしか、彼の気持ちを落ち着ける術は無かったのだろうか。

そのうち壁際で話していた部員たちはどこかに行ったらしく、瀬見くんについての話は聞こえなくなってしまった。





それから、どのくらいの時間が経っただろう。考え事に集中しすぎて今日はあまり絵を描く練習にはならなかった。幸いこの花は開花期間が長く、あと半年ほどは変わらず咲いていてくれるのが救いだ。

今日はこのへんで止めておこうと色えんぴつを仕舞っていると、また部員たちの声が聞こえた。注意して聞いてみると今度は体育館の中ではなく、外での会話だ。


「うるせえな、大丈夫だって」


私の心臓は冷えっぱなしだ。
瀬見くんの声である。


「大丈夫じゃないから言ってる」


これは、聞いてはいけない会話かもしれない。しかし声の主たちは少しずつこちらに近付いているようで、どちらか片方の後ろ姿が角からちらりと見えた。

私は音を立てないように色えんぴつを戻しスケッチブックを閉じる。あとは携帯とペットボトルと鞄と…ああもう今日に限って荷物が多い。その間にも二人の会話は続く。


「すぐ治るっつーの」
「そういう問題じゃない」


もう片方の声はバレー部の牛島くんだと気付いた。時々瀬見くんを訪ねてうちのクラスにやって来るし、そうでなくとも彼は有名人だから。

その牛島くんと瀬見くんが穏やかではない雰囲気で話している。瀬見くんの怪我の事を。


「どうしてそんな馬鹿な事を?」
「………」


馬鹿な事、と言われて瀬見くんは言葉に詰まった。

わざわざ望んでそんな行動に至った訳ではない事に牛島くんは気付いているのだろうけど、同じ部活の仲間として自ら怪我を負われるなんて気持ちのいいものでは無いだろう。
少し間を開けて、瀬見くんは自嘲するかのように言った。


「そうだよな。馬鹿な事だと思うよ」
「全治三週間だと聞いた。治っても次の予選までにはあまり時間が、」


牛島くんの言葉が止まった。
思わずそちらに目をやると、体育館の角からは既に二人の姿が見えている。瀬見くんが相手の言葉を遮るように手のひらを牛島くんへ向けていた。


「…いいだろ、それは。白布が出るなら」
「それでいいのか?」


声のトーンを変えずに牛島くんが問う。「それでいい」なんて微塵も思っていない事を分かっているのだ。
しかし今の瀬見くんはそれを素直に口にする事が出来ないらしく、しばらくの無言となった。


「…じゃあどうするのが正解なんだ?」


絞り出すように震えた声で、こう聞こえた。

このまま聞いていては駄目だ。
去らなくては。

でもここで事件は起きてしまった、細かい荷物を鞄に詰め込み足早に去ろうとした時、入れ損ねたペットボトルが音を立てて地面に落ちたのだ。


「……あ」


やってしまった。
落ちたペットボトルを見るより先に二人のほうを向くと、当然の結果だが二人とも私に気づき瀬見くんのほうと目が合ってしまった。しかし授業中とは逆に、今度は彼のほうから目を逸らされた。


「ごめん………」


私も二人から視線を外してペットボトルを拾い、そのまま反対方向に逃げるように立ち去った。

…向こうから目を逸らしてくれて良かった。男の子の瞳が涙で潤っているのを見るのは、あまりにも辛い。

限りなくくろに近い感情