07.ざわざわ


自分で言うのも何だけど、すごく調子がいい。

練習への集中力、練習の成果、監督やコーチからの評価、チームメイトからの声。全てにおいて今までのバレーボール生活の中で最高だった。

瀬見さんも、最初のほうはあまり積極的に声をかけてはくれなかったけど最近は牛島さんへのトスのコツなんかを教えてくれるようになった。

俺の周りのすべてが、俺を白鳥沢学園のセッターとして活躍の場へ送り出そうとしているかに思えた。
インターハイ、必ず最後までコートに立ち続けてやる。


「…賢二郎、けんじろう」


ついさっきまで、インターハイ初戦に向けて意気込んでいた俺の視界は一変していた。
さあこれからコートに向かうぞと足を進めていた、と思ったのに。

どうして俺はジャージを羽織り、カバンを持って、ここから去ろうとしているんだ?


「賢二郎」


太一が俺の名前を呼び、我に返った。


「……なあ…何でみんな帰ろうとしてんの」


俺が聞くと、太一だけでなく大平さんや牛島さん、その他の部員達までこちらを見た。なにか不思議な物体を見るかのように。

その全員の視線が暗く、虚ろになっていたのを見て血の気が引いた。
おかしいのは太一や皆じゃない。俺だ。


「…試合には負けたよ」


太一が言うのと同時に、脳裏に全てのシーンが映し出された。





白鳥沢学園はインターハイに出場し、一回戦で敗北した。

こんな事は誰も想像していなかった。
メンバーは全て優秀だし、俺もそのメンバーからの信頼を得られるまで血の滲む努力をした事は皆が認めてくれている、だからスタメンで試合に出られた。


しかし、俺の身体は全国大会に適応できるほど柔軟ではなかった。


中学の頃だって自分が試合に出たのは県大会まで、前回の春高やインターハイは観客席から応援をしていた。
それが今回初めて白鳥沢のユニフォームを着て全国に望み、身体がうまく動かなかった。


途中からセッターは瀬見さんに代わったものの時すでに遅し。
今日の敗因はきっと俺だ。
死んでこの場から居なくなりたい、消えたい、どこかに飛び降りたい…


「賢二郎、着いた」


バスが学校に到着し、太一はまだ俺の意識が飛んでいると気付いていたらしく声をかけてくれた。
太一とのコンビネーションミスを犯したシーンもいくつか思い出される。どこか俺のことなんて誰も知らない場所に逃げ出したい。


しかし現実にはそうもいかず、全員まずは体育館へ入り監督からの指摘ダメ出しを受けることになった。


「賢二郎、あのままだと次の試合には出せんぞ。気合入れろ」
「………はい」


全く気合いも気迫もこもらない俺の返事に、監督がため息をつくのが聞こえた。


何やってるんだ俺は、せっかく白鳥沢に来て実力を認められレギュラーになることが出来たのに。
スタメンとして地区予選を勝ち抜いて、文句無しの全国大会出場を果たすことが出来たのに。ほかの部員からの視線が痛い。


瀬見さんや他のセッターは、これをチャンスと捉えるに違いない。
俺はこのままだとレギュラーではなくなる。どうすればいい?どのように練習したら?誰に頼ればいい?誰か助けてくれよ、くそ。


その時、目の前に驚くほど白い腕がすっと伸びてきた。


「……賢二郎、これ」


その手にはタオルが握られていて、顔なんか見上げなくても誰の声なのかが分かった。

すみれが俺にタオルを差し出している。彼女もすぐ横からあの試合を見ていた。俺が途中で交代させられた、どうしようもない試合を。

あんなものを見られた後に、こんなふうにタオルを受け取るなんて情けなくて格好悪い。なにより悔しい、顔を見られたくない。


「賢二郎?」


タオルを受け取らない俺を不審に思い、すみれがもう一度名前を呼んだ。


「…ごめん。ちょっと」


俺はそれを受け取る余裕も、別の気の利いた言葉を言う余裕もなかった。
顔を隠すように立ち上がり、すみれの横をすり抜けて100本サーブの音が響く体育館の外に出た。一人になりたい、その一心で。


体育館から少し離れて、あまり人通りが多くないくせにきちんと整備された花壇のある場所に出た。

花のにおいがつんとする。日差しはうだるように暑い。額からは汗が流れた。

拭っても拭っても収まらないそれは汗なんかじゃなく、俺の目から流れ出ている事なんかとっくに分かっている。


「……くそ…畜生、くっそ…、…」


どうしてあんなに練習したのに、あんなに何年間も頑張っていたのに、せっかく出場したインターハイの一回戦で負けてしまうんだ。
しかも、俺の浮き足立ったプレーが原因で。もう何もかも嫌だ。


「賢二郎!」


全てが嫌で忘れたいのに、俺の背中を追ってきたであろう人物の声で我に返った。
慌てて涙を拭おうとするが、とめどなく溢れるそれは一瞬で拭いきることは出来ない。


「……ごめん。どうしても言いたくて」
「…何を?」


すみれはゆっくり近づいてきて、手に持ったタオルを再び俺に差し出した。が、俺は頑として受け取らなかった。


「…タオル使ってよ」
「いらねえ」
「目、腫れちゃうよ…」
「うるさい」
「賢二郎」
「…うるせえな、何しに来たんだよ!」


試合前の声出しの何倍も大きな声で怒鳴ると、すみれがびくりと固まった。ああ、怖がらせてる。でもそんな事気にする余裕はない。


「俺が泣いてるからって笑いに来たのか?途中交代させられて格好悪いって思ってんだろ」
「…な…何言ってるの?」


本当に、何を言っているのか理解できなくなってきた。

こんなに頭に血が登っているのに心のどこかに冷静な俺がいて、その冷静な俺は感情任せに怒鳴ってる俺を嘲っている。悔しい。俺は自分にも笑われるほど格好悪い生き物なのか?


「………俺は…すみれなんかには分かんねえよ…白鳥沢で…ずっと、ずっと…」


すみれとは白鳥沢に入ってから出会った。だから俺が高校受験をどれほど頑張ったのかなんてすみれは知らない。
もちろんスポーツ推薦枠だって応募したが、かすりもしなかった。だから自分の頭で白鳥沢に入り、そこからは自分の力でのし上がった。

この過程全てを知らないくせに、知った顔して慰めに来るすみれがどうしても腹立たしくてしょうがない。


「あそこにいる誰も、賢二郎のせいで負けたなんて思ってない」
「嘘つくなよ」
「そんなこと…」
「嘘だって言えよ!誰が見たって俺が下手くそだったから負けたんだろ。賢二郎のせいじゃないって、本気か?あの試合のどこを見てそんな呑気な事言えるんだよ!」


理不尽なのは分かっている。頭では理解している。でも俺の心は破裂しそうだった。


「……呑気って、なんで」
「…お前は気楽でいいよ。いくらチームが負けたってレギュラー落ちの心配も何も要らねえんだからな!」


酸素を使い切ったかというほどの声で言い放つと、次の酸素を求めて俺の肩は上下した。
大きく息を吸い、吐く。気持ちに任せて酸素を無駄遣いしていたのが、新しい酸素が取り込まれてだんだん頭が冷えていく。

そして、はっとした。

…最悪だ。


「………もう、いいよ。もういい」


弱々しくすみれが言った。さらに弱々しい力でタオルを投げつけられて、キャッチできなかった俺の足元に落ちる。
すみれはタオルの行方を確認しないまま振り返ると、無言で走り去っていった。


さっきまで何も聞こえなかったのに、蝉の声が聴覚を襲ってくる。


頭がおかしくなりそうなほど、規則性のない多種類の鳴き声が終わらないオーケストラのように響く。

このまま耳が聞こえなくなるんじゃないか?それもいいかも知れない。
好きだったのに、大切に出来なかった女の子。だから振られたのに、また自分の感情に任せて酷いことを言ってしまった。

こんな俺なんか、耳が聞こえなくなるくらいの罰は受けるべきだ。


「賢二郎」


しかし、俺の耳は正常だった。
太一の声に振り返ると、どうやら一部始終を見ていたらしい。歩み寄ってきて俺の足元に落ちたタオルを拾った。


「…俺、お前のこと嫌いになりそう」


そう言うと、タオルを俺に差し出してきた。太一はそれ以上何も言わずにそのまま通り過ぎ、体育館へと戻って行った。


「………俺だって」


俺だって、こんな俺は嫌いだ。


タオルについた砂を払ったとき、すみれが苦手な裁縫で「けんじろう」と刺繍した文字が見えてまた全てを投げ出したくなった。