01.さよなら



「もう無理。別れよう」


すみれが消え入りそうな声を絞り出してそう言ったのをきっかけに、俺たちは別れた。

俺は彼女を引き止めることもしなかった、引き止める理由なんか無かったから。どうせ時間が経てば「ごめん、あれは嘘」なんて泣きついてくるもんだとたかを括っていたのだ。





別れを切り出される前の一ヶ月間、俺はとても苛々していた。
本当なら苛々なんかせず、誇らしく自信満々で居なければならない筈だった。なぜならやっとの思いで、正セッターの座を瀬見さんから奪い取ったのだから。

もちろんマネージャーであり、彼女であるすみれはそれをとても喜んでくれた。しかし俺が瀬見さんに負けている部分だって沢山あるし、瀬見さんが正セッターに返り咲くのを諦めているわけが無い。

俺の課題は山積みだった。もっともっと練習し、さらにさらに突き放し、瀬見さんと俺の間にある最も残酷な「牛島さんとの1年間の信頼関係の差」を埋めなければならなかった。


「賢二郎、お疲れ!」


そう言ってタオルを渡してくるすみれにお礼を言う余裕もなく、無言で受け取っては顔をぐしゃぐしゃと拭いてあれこれ考える日々が続いた。

それについてすみれは何も言わなかった。それにも苛々するし、何か言われたところで俺はきっと苛々するのだろう。呆れるほどに自分の沸点が低くなっていることが分かった。
すみれも勘づいていたのかも知れない。なんたって太一が気付いているくらいだから。


「お前最近こえーんだけど」
「……は?どこが」
「それが怖い」
「意味わかんねー」
「俺はいいけどさ…すみれにも同じように接してるとしたらヤバいよ」


太一はそれだけ言うと、天童さんに呼ばれて立ち上がった。

太一は白鳥沢の中では高身長である事と反射神経の良さ・何でもそつなくこなすオールラウンダーな事もあり、俺よりも一足早くレギュラー入りを果たしている。すみれがどうこうの前に、俺にとっては同級生に先を行かれる事だって神経をすり減らされる要因の一つだ。

部員の多い白鳥沢バレー部の中で監督の目に留まりさらにレギュラーに入るまで、俺がどれほどの努力をしてきたことか誰ひとりとして知る者は居ない。
遡れば中学二年の時から、ひたすらここを目指してやって来たのだから。

そしてやっと手に入れたこの座を簡単に開け渡すつもりなんか無い。守り抜くには今まで以上の努力と、そしてプレッシャーとの戦いが必要だった。


「賢二郎、新しいタオル持ってきた」
「あー…まだいい」
「でもそれ、もう湿ってるんじゃ」
「うるさいな。いいっつってんだろ」
「ご、ごめん……」


何に苛々しているのかも分からなくなり、わざとらしく大きなため息をついてやるとすみれが「一応ここに置いとくね」とタオルを置いて去っていった。

どうしてこんな態度の俺に「その言い方は何だ」と怒ってこないのかも不思議だし、俺に気を遣っているつもりなのかと思えばそれはそれで苛々する。

そうでなくても俺はレギュラー入りしたばかりだ。期待の新人、ホープと言われれば聞こえはいいが最も危うい存在である事に変わりない。いつだって後ろには瀬見さんや、その他の正セッターを狙う連中がスタンバイしている。
そのプレッシャーはさらに俺の苛々を増長させて、行き場のない苛々は必然的に心を許した太一やすみれへと当てられていく。

太一は上手く躱していくし、「今の傷付くわ」とか何とか意見を言ってくるがすみれは何も言ってこなかった。本当に何も。


「白布、ちょっといいか」
「はい」


きた。
牛島さんからの直々のお誘い。

自主練のこの時間にいかに牛島さんとコミュニケーションを取れるかが大切な要素だ。そして約三年間憧れていた選手へのセットアップは、回数を重ねるごとに俺のアイデンティティを確立させていく。

今はこの時間がとても大切でかけがえのないものだった。だから、それを邪魔するものは何であろうと振り払いたくなる。


「賢二郎、あのさ」
「どいて。牛島さんに呼ばれてるから」
「え」
「邪魔なんだってば」


ぽかんと口を開けたすみれが本当に邪魔だったので、軽く押しのけて前に進んだ。
俺に押されたすみれがバランスを崩して、近くを通りかかった太一が「うわっ」と声を上げて支えているところまでは視界の端に写っていた。

俺は別に本気で押したわけじゃないし、あれくらいでバランスを崩すほうが悪い。そんな事より何より、牛島さんとの練習を邪魔しようとするのが悪いんだ。





「…賢二郎さあ…ちょっとすみれに当たりがキツイんじゃないの」


夕食と入浴を終え、いつものように俺の部屋まで来ていた太一がぽろりと言った。


「…キツイって何が?」
「いや、なんか…ちょっと乱暴かな?と」
「そうかな。あんなもんだろ」
「そうなの?まあ俺も威張れるほど恋愛経験無いから何とも言えないけど」
「少なくとも俺らはあんな感じだから」


もうこの話は終わりにしてくれ、という意味を込めて言うと太一は理解したらしい。別の話題として、今自分が世話になっている天童さんの面白エピソードの話へと切り替えて話を進めてくれた。





思えばあの時太一の忠告を聞いていれば、すみれから別れを切り出されることなんか無かったのかも知れない。


「急に何?忙しいんだけど…」


昼休み、俺のクラスを訪ねてきたすみれを追い返すわけにも行かなくて、言われるがままに付いて歩くと人気のない場所へ出た。
このロケーション、すみれの神妙な面持ちからしてあまり良い内容でないことは予測がついた。


「…賢二郎、私のこと好き?」
「……はあ?」


予測がついてはいたものの、こんな馬鹿らしい質問をされるとは思ってもいなかった。
面倒くささを前面に押し出した返事をしてしまったが特に後悔はしていない。


「どういう意味それ」
「あの…賢二郎、最近なんか…大変なのは分かるんだけど…もうちょっと前みたいに優しく…」
「優しくしろって?」
「し…してくれたら嬉しいなって」


俺が威嚇すればいつもはこのあたりで意見するのをやめるすみれだが、何やら様子が違った。
しかし、それに気付いたところで俺の行動パターンを変える決定打にはならない。


「お前自分で言ってんじゃん。俺が大変なの分かってるんだろ?それならこんな下らない事で呼び出すとかホントやめて」
「………ごめん」
「分かったらさっさと教室戻れよ」
「ごめん。無理」
「は?」


無理って、何が?

とすみれの顔を見下ろすと、どうやら泣いているらしかった。さすがにぎょっとして、「なに泣いてんだよ」と手を伸ばすとすみれの手で弾かれる。


「…どうしたんだよ急に?」
「もう、耐えられないよ…」
「は……」
「もう無理。別れよう」


すみれが消え入りそうな声を絞り出してそう言ったのをきっかけに、俺たちは別れた。

俺は彼女を引き止めることもしなかった、引き止める理由なんか無かったから。どうせ時間が経てば「ごめん、あれは嘘」なんて泣きついてくるもんだとたかを括っていたのだ。

でも俺の読みは大きく外れて、そこから溝はさらに深まっていく事になるなんてこの時には気付けなかった。