1st Wednesday


翌朝、重いまぶたを開けてやっとの思いで起き上がる。
今日は水曜日、つまり補習はあと3日でおしまい。今日と明日と明後日だけ、1日1時間しかない補習すら耐えられないなんて情けない。ちゃんと行こう。

…と、自分を叱咤する気持ちもあれば「中学のころは補習なんて考えられなかったのに」という過去の栄光が頭を過ぎる事もある。補習嫌だなあ行きたくない。
五色くんの先輩からも「お馬鹿」のレッテルを貼られてしまったし…まあレッテルじゃなくて実際お馬鹿だから補習になったんだけど。


「部活でも始めたの?」


朝ごはんを食べながらお母さんに聞かれた。


「へ?なんで」
「最近ちょっと遅いから」


一昨日から始まった補習のせいで、もともと帰宅部の私はいつもより遅い時間の帰宅となっていた。
補習が行われることは先週には分かっていたけど、まさか言えるわけない。テストの点数だってはぐらかしているのに。


「放課後、友達と喋ってるの」
「ふーん?暗くならないうちに帰ってきてね」
「うん」


どうせ家に成績の通知が届けばバレるけど、それまでは補習のことは内緒にしておく。


偶然早い電車に乗れたので、いつもより10分ほど早く学校に到着した。

それでも生徒は半数くらいは既に登校していて、グラウンドからは朝練をしている部活の声も聞こえる。

野球部のバットとボールがぶつかる気持ちのいい音、サッカーのホイッスルの音、テニスボールの弾む音。
そして、たくさんの人が走る足音。陸上部かな?と思って隣を通り過ぎる人だかりに目をやると、何やら全員背が高い。


「オハヨ!」


追い越しざまに声をかけてきたのは五色くんだった。バレー部が朝のロードワークに出ていたらしい。
私が「おはよう」と返す間もなく五色くんはバレー部の集団に紛れて走っていってしまった。

こんなに早くから汗をかいて、いまから昼間はまるごと授業。そして放課後も練習だろう。
…朝、気だるい身体に鞭打ってやっと起きて登校してきた自分が恥ずかしくなってきた。


放課後、ホームルームが終わったのでトイレを済ませて補習の用意を始めた。用意と言っても荷物を鞄にまとめて、補習が行われる教室へ移動するだけ。

その教室の前まできた時、中から見知った顔が現れた。


「あ、白石さんじゃん!」


その女の子は生田さん。
同じ中学出身で、テニス部に所属する同級生。

私たちの中学から白鳥沢の入試に合格したのは私と彼女、あと知らなかったけれど五色くんも同じ中学って事は、そうなのだろう。
そのため地元中学から名門白鳥沢の門をくぐることに成功したのは私たちの代ではこの三人だけ。


「久しぶり。全然会わないね」
「そうだね…部活?」
「うん。白石さんは?」


生田さんは今からまさにテニス部の練習に向かおうとしているところだった。
中学の頃にはこの子も頭が良くて有名で、テニスも上手くてまさに文武両道だ。…そんな中、彼女より成績が良かったはずの私は今から補習。


「………え、と」


だから、すっと「補習なんだ」と答えられなくて口ごもる。恥ずかしいし情けないし、消えてなくなりたい。
でも残酷な事に、生田さんはすぐに気付いた。


「ここ私の教室だけど、今から補習で使うんでしょ。…もしかして補習組?」
「………」
「マジで?頭良かったのに?」
「……うん…」


頭良かったのに、という言葉はもう褒め言葉ではない。


「でも補習ってさ、よっぽど悪かったんだね。私ですら平均点いってるよ!頑張れっ」
「うん……」


頭がくらくらしてきた。
「あなたの置かれている状況はとってもおかしい」という事を冷静に突きつけられた。

勉強は嫌いじゃないし得意だったはずなのに、何でこうなってるんだろ…やばい、涙が出るかも。
その危機感を感じた瞬間、べつの声が頭上で響いた。


「入ろ!」


見上げるとそこにいたのは五色くんで、いつの間にか彼も補習のために教室の前に来ていたらしい。


「あ、五色くんジャン。久しぶりー」


当然同じ中学で、さらに運動部だった生田さんは五色くんを知っているらしく声をかける。と、五色くんは目を丸くした。


「……どこかで会ったっけ…」
「ちょっと!同中出身でしょこの三人」
「あれ?…ゴメン覚えてない」
「ひどっ!まあいいや、補習ファイトね」


そろそろ部活に遅れると思ったのか、生田さんは鞄を持ちかえてさわやかに去っていった。

今から、背中に背負ったあのラケットでテニスをするのか。私は補習。彼女がテニスをしている間も勉強しかしていなかった私が補習。


「……始まるよ?」
「あ、うん…」


五色くんが教室に入るよう促してくれたけど、どうも返事をするので精一杯。


「だいじょうぶ?」
「………」


様子がおかしいと思われたのか顔色を伺ってくれたけど、答えることは出来なかった。

だって情けないのは自分だもん。自分の駄目なところを指摘されて見抜かれて、今すごく惨めなんだもん。泣かないようにこらえるので精一杯。





その状況は補習が始まってからも続いた。
先生の話をぼんやり聞いて、手に持っただけのペンはもちろん動かない。

頭の中には「どうして私は今ここで補習のクラスに居るのか」という、答えなんて分かりきっている疑問を何度も何度も浮かべていた。


中学レベルの勉強で、あんな田舎の学校で成績が良かったくらいで周りの意見に流されて白鳥沢なんか受けるんじゃなかった。合格しなければ良かったなあ。

そう考えた瞬間にとうとう、広げたノートに水滴が落ちた。あ、やばい。


「先生!白石さんがお腹痛そうです!」
「!!?」


耳をつんざく大きな声が隣の席から聞こえた。
五色くんが一昨日のように手をひゅっと垂直に上げ、先生に向かって訴えている。
…その訴えている内容とはまさに私の事だった。


「ずっと!補習始まる前から調子が悪そうです!吐きそうです!」
「お!?大丈夫か?帰るか?」
「え……」
「帰るそーです!下駄箱まで送ります!」
「あ、ああ分かったお大事に」


吐きそうだとも帰るとも言ってないけど五色くんがものすごい勢いで先生にアピールしたせいか、先生はすっかり私が吐きそうなほどの病人だと認識したようだ。

当事者である私は何が起きているのか頭を整理しようとした。
その間に五色くんは私の机の上にあるものを全て、横にかけた私の鞄に突っ込んだ。私を強制退席させる気だ。


「行ける?」
「…………」


さきほど「帰るそーです!」と叫んだ人と同一人物とは思えないような、小さな声で五色くんが言った。それにも少し驚いてしまい、私は無言で頷いた。





「余計なお世話だったらごめん」
「………」


無言で歩くのが辛かったのか、五色くんが言った。


「昨日、天童さんが失礼な事言っちゃったし…」


でもどうやら無言が辛かったのではなく、あの赤い先輩が私に発した事や生田さんの言葉のせいで私がいつもと違うのだと思ったらしい。

どちらも悪気があったようには見えないけれど、今の私にとって痛いところをピンポイントで突かれたから。


「テスト難しかったよね。俺全然分かんなかったもん!補習の内容も分かんねえ!」


だから五色くんは、わざと明るく言葉を続けているかのようだった。


「………五色くん。ごめん、私いま…」


気の利いたこと言えない。


「いーよ!俺よくうるさいって怒られてて、一人で喋るの慣れてるし…あ、着いた」


下駄箱に到着し、私たちは立ち止まった。

あの教室から抜け出させてくれたお礼を言うべきなのだろうか。
でも、逃げたのは良くない事のような気がして素直に感謝できない。五色くんは私を思って連れ出してくれたのに。


「明日もし、しんどくなかったら来てよ」
「……考えとく…」
「うん。じゃあ気を付けて!」


五色くんは、私が靴に履き替えたのを確認してから補習の教室へと戻って行った。

彼だって補習は嫌なはずなのに、私だけ逃げ出しちゃった。

こんなの絶対良くない事だ、私の出来損ないめ、と考える一方で、五色くんに対してはなんだかよく分からない感情がわき出てきた。
これ、なんだろう。

助けられたWednesday