好きだから愛せない




「それ、本当?」
 半ば信じられないような気持ちで問いかける陸に紡は本当です、とにっこりと頷いた。

「陸さんと九条さん、二人でのお仕事ですね」
 よかったですね、とほほ笑む紡は純粋に喜んでくれているのだろう。天と二人での仕事があればお話しできる時間があればいいですね、といった気遣いをかけてくれる素直な紡の優しい気持ちが今は少しだけ複雑だった。
 雑誌内の対談企画はIDOLiSH7を含めたTRIGGERとRe:valeの三グループのうちから二人を一組として行うものだった。今回で通算三回目となるのは、ファンから好評だったため引き続きやってほしいという声が多かったからだという。グループの垣根を超えた珍しい組み合わせも好評である理由のうちの一つらしいが。

「……何かご心配なことでもありますか?」
 紡が心配そうに首をかしげて問いかけた。慌てて首を振った陸は楽しみだよ、と返した。
 楽しみなのは事実だ。二回目の企画の際はロケ場所が海外のリゾート地だったこともあって休憩の合間や、宿泊先でも楽しかった記憶が残っている。今回も同じように普段行かないような遠い場所に行けるならば、楽しみに越したことはない。不安が残るのは陸の相手が天ということだった。
 再発した病は確実に進行している。それがどれだけゆっくりであろうと進行が止まることはない。以前のように天に思考を巡らせていると肌の上を走るような寒気に襲われる。目のまわりが泣いているように赤らんできた。初期の段階であれば苺の効果が働くが時間が経てばたつほどその効力はなくなってくる。

 ――もし、同じ撮影場所で倒れるようなことがあっては。そんな考えがふと脳裏を過る。病が再発したことは天にはまだ伝えていないのだ。狡猾で卑怯だと分かっていてもせめて天が知るまでは、純粋に恋人として隣にいたかった。

「今回も行き先が海外らしく、移動時間も配慮して宿泊付きなので楽しみにしていてください」
 さすがに同じ部屋ではありませんが、と困ったように笑う紡と陸はきっと同じ顔をしていただろう。建前上は仕事が忙しく都合がつけられないため天と暫く会っていないことになっている。けれど、実際は気持ちの整理がつけられない陸の中での問題だった。天と最後に会った日のことを思い出すとどんな顔をすればいいのか分からなくなるのだ。病のことがあっても、天が許してくれるなら傍に居続けたい。そう決めたはずなのに、なぜか足が竦んでしまう。

「仕事とはいえ、九条さんが一緒で良かったですね!」
 当日お話いっぱいできるといいですね。とほほ笑む紡に陸はうん、と頷くだけの相槌を返した。


  ◇◇


 日本から目的地の首都までの直行便はおおよそ十二時間にも及ぶフライトだった。そこから更に国内線を乗り継いだ観光客に人気のリゾート地に辿り着く頃には移動からくる疲労が蓄積されていた。バスやフェリーを乗り継いでもよかったが国内線を乗り継げば首都に降り立ってから一時間程度で済むためすべて飛行機で移動することになったのだ。企画の段階で断念しようかって案も出てたんですけど、とどこか申し訳なさそうにほほ笑むスタッフに陸はいえ、と首を振った。元々アイドルという活動をするまで長い公共交通機関の移動に慣れていなかったせいもある。

「天くんは平気そうだね。慣れてるって感じ?」
「そんなことないですよ。ボクもさすがに少し疲れましたね」
 スタッフの言葉に天は恐縮だと言わんばかりに肩をすくめてみせた。長いフライトの間、天と陸は隣同士に座っていたものの会話らしい会話はさほどなかった。スタッフも一緒であるためうっかり天にぃ、と発してもいけないため自制していたこともあるが天から声をかけられることは殆どなかったに等しい。逃げるように帰ったことを怒ってるのだろうか、訊いてみようにもあの時の気まずさが蘇っては口を噤んだ。

「飛行機で酔ったりしてない?」
「へっ」
 ぼうっとしていたせいで声をかけられたことに驚き、思わず頓狂な声をあげる。陸に声をかけたのは天だった。分かりやすく疲弊の色が滲んでいたせいか、心配そうな瞳がこちらをのぞいていた。そのことに動揺しつつも大丈夫だと笑ってみせる。首を動かし、周囲の景色を示唆しながら「この景色見たら少し気分も楽になったんだ」と言えば天は安心したようにならよかった、と頷いた。
 海岸に面するように築かれたこの都市は岸壁と、それに見合った街並みの建物の美しさが相まって観光客に人気のスポットとなっていた。海岸は世界遺産にも登録されているほど美しいと有名らしい。事前情報はいくつか聞いていたものの実際目にするのとでは感動が違う。

「なんかこの街を見てると、シレーナを思い出しちゃうね」
「綺麗な街だったもんね。なんとなく似てるかも」
 ちょうど一年ほど前に星巡りの観測者という映画で共演したことがある。星玉という、どんな人々の願いも叶えてしまう力を持つ石を中心に六つの星で巻き起こる物語が主軸となる映画だった。その映画の中でシレーナという水路が張り巡らされた美しい星が出てきた。その景色と今見ている景色がどことなく似ていたのだ。

「ね、て……もし、時間があったら」
 ついいつもの調子で話しかけて陸は途中で口を閉ざす。ここにいる間の自分たちはアイドルとして、同業者として接することに違いはないけれど、天はあの日のことをどう思っているだろう。別れを告げられたわけでもなければ、何かを言われたわけではないがまだ恋人気分のままでいいのだろうか。唐突に浮かんだものに陸がやっぱりなんでもない、と口を開こうとしたところでそれにかぶせるようにして天が口を開く。

「時間があったら、一緒に街のほうに行ってみる?」
「えっ」
「夜も少し時間があるみたいだし」
 陸がよければだけど、と添えた天をまじまじと見つめる。視線の正しい位置が見つからないのか彷徨わせる天は珍しかった、天の言葉は寧ろこちらのセリフだった。天に誘われるなんて思ってもみなかった、瞬きを繰り返してばかりの陸に「嫌ならいいけど」と天が言う。

「や、やじゃない! てっ……九条さんと一緒がいい!」
 思いのほか大きな声を出してしまったせいか周囲にいたスタッフも振り向く。じわじわと熱を帯びる頬に恥ずかしくなって俯けば天の笑う声が聞こえた。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ、と。

「……うれしい」
 まるで熱に浮かされたように陸がぽつりと呟けば天が大袈裟、と瞳を細めた。
ここにいるのはあくまで仕事であることは理解していても、ほんの少し顔を出していた下心が存在するのは認めるしかなかった。その下心が思ってもみない形で天に救い上げられたのだから、陸にとっては大袈裟でも誇張表現もない。

「こんな場所にこられるなんて、もう二度とないかもしれないし」
 陸の言葉に天がそれもそうだね、と同意する。それからさすがにこのフライト時間は人生に数回だけでいいとも。恐らくその同意は陸と同じものではない。
天の笑顔を見ているだけなのに、傍らに立っているだけなのに、寒さが身体から抜けることがない。真冬のリゾート地ではなかったことに感謝しなければならない、日本ではすでに初秋が見え始めているせいか朝夕は冷え込むようになった。ただでさえ冷える身体に外気の気温ともなれば陸にとってはますます厳しい環境となる。
 あと、どれぐらい天の傍にこうして立っていられるだろう。こんな状況だというのにどこか自分の命に係わることについて客観的に眺められる気持ちの余裕さえある。恋の病で死んでしまうという事実が馴染まない故のことかもしれないが、陸はすでに自分のこれから先のことを受け入れていた。

「……陸、この間は、」
 横に並んだ天が小さな声でそっと呟いた。その先を制止するように陸はいいんだ、と笑みをかぶせる。自分がその先を聞きたくなかっただけかもしれない。

「大丈夫だよ、オレ。気にしてないから」
 決して無理をして笑っていたわけではないがこちらを見つめる天の表情は険しかった。何か言葉を言いかけてやがて口を閉ざす。悔しそうに引き結ばれた唇は、出ていきそうな何かを必死に押し込めているようでもあった。



 撮影は滞りなく、順調に進んでいった。ロケ場所の紹介についてある程度のシナリオは用意されているにしろ、それ以外の部分については殆ど本人たちの自由に進めて良いというこがこの企画の趣旨だった。天と二人で撮影しているのに変に緊張しなかったのは寧ろ台本がなかったおかげかもしれなかった。台本通りというのは完璧でなくてはならないが完璧すぎてもつまらない、その塩梅が難しいのだ。観光客が訪れるピークは過ぎていると聞かされていたものの街中を歩く人の数は多い、日本の都心とはまた違った騒がしさに自然と胸が躍った。景色が違えばまるで違う世界のように感じられるのが不思議だった、現地の人々が何を話しているのかは言語が違うためさっぱり分からない。けれど、この場所は笑顔が溢れている。

「何か楽しいことでもありましたか?」
「えっ」
「七瀬さんがすごく楽しそうに笑っていたので気になって」
 天に問いかけられ顔に出ていたのか、と気恥ずかしい気持ちになる。素直に皆楽しそうなのでオレも楽しくなっちゃいました、と言えば天はそうだったんですね、とつられるようにして笑う。カメラを通した天は少しだけ大人びているような気がした、依然として子供扱いされているような感じがするのは否めないが。

「あ、あと憧れの九条さんも一緒なので、歩いてるだけでも楽しいです!」
 陸が力強く言うと天が歩いてるだけでですか、と繰り返しくすくすと笑う。冗談じゃないですからね、と言えばわかってますとかえされる。

「ボクも七瀬さんが一緒だと楽しいです」
 天の言葉に本当ですか、とつい声が大きくなる。七瀬さんはよく驚きますね、と天に言われ首のうしろが僅かにあつくなる。
 天と海外に来るのは初めてだった。それどころかこんなに遠くにくることすら陸にとっては初めての経験だった。幼い頃は陸の身体のこともあり、さほど遠くには出かけられなかったからだ。いつか仕事上の二人としてではなく来られたらよかったのに。ついそんな欲張りな考えが顔を出してしまう。

「――――っ」
 そんなことを考えていたせいか急激に身体が冷えていく。寒さはすぐに痛みへ姿を変え、じくじくと皮膚を焼くような冷たさに襲われる。それは叶わないのだと現実を突きつけられるようだった。

「……七瀬さん、」
 天の声にはっとして今が撮影中であることを思い出す。何でもないです、と笑みをどうにか作って浮かべる。何も考えないようにしていれば次第に治まってくるはずだ。まだ耐えられないほどの痛みじゃない。これぐらいのことで今日の撮影を台無しにもしたくないし、天にがっかりされるのも御免だった。

「ずっと歩いたので少し休憩でもしましょうか」
 喉乾いてないですか、と天に訊かれそれほど乾いているわけではなかったが陸は素直に頷く。天の気遣いが今は救いの手のように感じられる、皮膚の上で暴れる痛みは動いているよりもじっとしていたほうが緩和する。スタッフに少し寄り道してもいいですか、と訊けば二つ返事で頷かれる。
 気づかれないようにそっと息をついた。天のことを考えれば考えるほどうさぎ病は酷くなる一方なのが余計に辛かった。好きな人の傍にいるのに、好きな人のことを考えないでどうしていられるだろう。そんな八つ当たりのような気持ちが出てくるが、すぐにそれを収めてくれるのは天と陸の間にあるものの違いだった。どれだけ陸が天に焦がれ、好きを求めていたとしても同じものを持っていなければ意味がない。愛情の枯渇によって引き起こされるこの寒気はまるで好きな人への焦がれる気持ちを凍結させてしまうようだった、叶わない恋をするだけそれは何の意味もないことなのだと。天へ思いを募らせれば募らせるだけ苦しい思いをすることになる。それは理解できていても、気持ちをどうにかできる方法があるわけでもない。

「フライトも長かったですし、何か甘いものでも飲みましょう」
「……こんなところにもタピオカってあるんですね」
 近くに喫茶店がないかと歩いていたところで、黒い粒のよく見かける飲み物が売られているのを見つける。すごい、と陸は思わず感嘆の声をこぼす。日本でブームになっているのは知っていたが今ではだいぶそれも落ち着きを見せ始めている。行列に並ばずとも買える店もちらほらと出てくる中、最近初めて挑戦した壮五がうまく吸えず苦戦していたのを思い出してしまう。海外でも同じように当たり前に売られている飲み物だとは思わなかったのだ。

「元々台湾が発祥の地だとも言われてるらしいですからね。海外でも珍しいものじゃないのかもしれないですね」
「九条さん好きでしたよね、タピオカにしましょう!」
 目を丸くした天は七瀬さんがそれでいいなら、と遠慮がちに頷く。
 以前誕生日の催しとしてラジオ企画を行ったことがある。その際に天がタピオカに嵌っていることを知り、天と陸の誕生日の前には新しくできたという店に出かけたこともある。天はもとより甘いものが好きなこともあってか、甘いドリンクであるタピオカを気に入っているようだった。直接口に出していたわけではないがどことなく嬉しそうにしていた天の様子をみれば分かることだった。まだ恋人になる前で、デートと呼ぶには烏滸がましいかもしれないが天のほうから誘われたときは飛び上がるほど嬉しかったのを鮮明に覚えている。

「二人で前に飲んだことを思い出しますね」
「……お、オレも! ちょうど、同じこと考えてました!」
 カメラがあるためてっきりその話題は伏せなければならないと思っていた。天から切り出され、陸は驚きつつも頷く。同じことを天も考えてくれていたこと、なによりも天が自分との思い出を覚えていてくれたことが嬉しかった。
天がカメラに向けて撮影が一緒になったことがあって、一緒に飲んだことあるんですと笑みを向けた。

「奇遇ですね、嬉しいです」
 天の笑みが向けられ、それまで蝕んでいたものたちが霧散して消えていく。
 相手の些細な言動や仕草で一喜一憂する。天が笑っていると嬉しくて胸が躍る、心の距離が遠ければきゅっと胸が苦しくなる。それは陸が恋という感情を覚えてから初めて知ったものだった。
 恋とはどこか歌と似ている、それは陸が恋を知る前に抱いていた勝手なイメージだった。けれど、それは本当だったのかもしれない。人と人とを繋ぐものであり、人の感情をいとも容易く持って行ってしまう。



 手配されたホテルはロビーから慄いてしまうほどだった。天井に巡らされたフレスコ画はちょっとした美術館やそういった類の場所を彷彿とさせる。十八世紀の建物としての形を残し、きれいに手入れを施された庭園に囲まれている。さらに海岸添いを眺望できるレストランも併設されているという。街の中心街に近く、オーシャンビューが眺められるバルコニーもあれば、室内にプールも備え付けだ。こういうのテレビで見たことしかないです、と陸が言えばスタッフはせっかくなので息抜きもしてほしいですしと笑った。曰く、雑誌の企画でシャッフルトークを行ったことによって売り上げが伸びているのも確かであるためそのささやかなお礼ということらしかった。

「なんだか落ち着かないよ」
「ささやかなお礼だって言うけど寧ろ仕事をいただいてるのはボクたちなのにね、至れり尽くせりだ」
「天にぃプールに行く?」
「……そんな時間ないと思うけど」
 明日も仕事でしょ、と素っ気なく言われそうだよねと陸は視線をさげる。自分ばかりはしゃいでいるようで恥ずかしい。

「水着持ってきてないし」
「へ」
「さすがに洋服で入るわけにはいかないじゃない?」
 そうでしょ、と言われ確かにそうかもと陸は頷く。荷造りをした際、旅行ではないためさすがにそこまでは考えなかった。海岸添いにある街だとしても海に入ることまで思考を巡らせることはなかった。

「それに、」
「それに?」
 天が口を開いて、陸に視線を合わせる。けれど、陸の顔を見ているうちに開きかけた口を再び閉じてしまう。何かを言いかけたことは明白なのに天は険しい表情を浮かべゆるゆると首を振った。やっぱりなんでもないよ、と。

「なんで、気になるよ」
「大した事じゃないから」
「それでも気になるもん!」
「……ここじゃ話せないから、二人だけの時に言うよ」
 今日、ボクの部屋にきて。 
 まっすぐに見つめられ、その瞳の真剣さに陸は固まったように動けなくなった。何か、大事な話であることは察することができる。恋人をデートに誘うような甘いものではない、何か緊張の糸がぴんと張った大事な何かだった。

「……わかった、」
 素直に頷いた陸に天は固い表情を浮かべたままだった。



 スタッフを交えて夕食をとったあと、部屋に戻った陸は一人用とは思えないほど大きなベッドに身体をぼふりと投げ出す。食べきれないほどの品の料理もおいしかった。瞳をとじているとまどろんでしまうほどお腹も幸福感にも満ち足りていた。
 用意された部屋からは庭園もオーシャンビューも一望できる。夜になればきれいな星空も、暗闇に浮かぶ街も眺めることができる。お金持ちになったみたい、と素直にこぼした陸はあまりの待遇に少し申し訳ないような心地になったのも事実だった。本当に一人用なのか疑わしくなってしまうような部屋がどれだけ綺麗な星空や夜景を眺められる場所だったとしても、一人で眺めるには心細い。陸が良い時間に来てもいいよ、と天から送られてきたメッセージを暫くの間ぼうっと眺めていたかこれはそんなロマンチックな誘いではないことを思い出し振り払う。

「……」
手のひらをこすり合わせる。夜風が冷えるのは日本もここも同じらしかった。天の傍にいる時間が長くなればなるほど自分の体温が下がっていくのを感じていた。末端冷え性だと偽るのも、限界があるかもしれない。何かと目敏い天には嘘や偽りが通用しない。というよりは、あの瞳を前にすると何か誤魔化しをしようとするだけで後ろめたさを感じてしまう。
 白いドレッサーは男の自分には似合わない、とつい笑ってしまう。鏡の中の自分は今にも泣きそうな顔をしている。目のふちを赤くして、悲しんでいるようだった。うさぎなんて可愛らしいものではない。泣きじゃくる子供のようだ。

「……これ以上、幸せなことなんてないのに」
 そうじゃないの。
 問いかけた鏡の中の自分が肯定を返すことはない。



 こんこん、とノックをすると扉があけられる。開いた瞬間ふわりと香る匂いは恐らく備えつけのシャンプーの匂いだ。天の部屋を訪れる前にシャワーを浴びることにした陸も同じものを使ったからだ。甘い香りはほのかに柑橘類の匂いがする。陸を見てすぐに髪の毛をちゃんと乾かしたかどうかということを訊ねた天も同じこと思ったのかもしれない。

「入って、」
 天に促されるまま部屋の中へ入ってからどこに座ればよいものか少し迷ったあげく、ソファに座ることにした。質がよく、座ると深く沈む感触に陸はすごい、と瞳を輝かせる。事務所にあるソファだってここまで柔らかく沈んだりはしない。

「すごい! ふかふかだ!」
「そんな跳ねると埃を吸っちゃうでしょ……っていっても、これだけいいホテルなら埃一つさえなさそうだけど」
 一人どころかアイドリッシュセブン全員泊っても余裕があるぐらいだよね、と天が部屋を見渡しながら言った。何か飲むかどうかと訊かれ陸は首を振った。

「何か、話したいことがあるんだよね」
 話題の糸口を探すより、気になっていたことを解決するほうが建設的だと思った。
どうして自分は天に呼ばれたのか、天が言いかけたことはなんだったのか。夕食の間も思考をかすめて気になって仕方がなかった。

「……そう、陸とずっと話がしたかった」 
 あの日からずっと。噛みしめるように天がそっと吐き出す。

「ボクが何を話したがってるか、分かる?」
 天がこちらに問いかけながら、腕をのばし陸の身体を抱き寄せる。唐突な出来事に頭が追い付かない。心臓がうるさくてまともな思考回路を失いそうだった。天に顔を寄せられ、心臓が跳ねる。動揺を悟られないようにわかんないから聞いてるのに、と誤魔化すように顔を背ける。手を伸ばされ、そのまま顎をすくわれるように添えられた。

「な、に」
 天の美しい顔が近づき、そのまま互いの吐息が重なるほど近くになったとき陸は思わず天の肩を押して制止する。今、何をされるところだったのか察することができないほど鈍くない。

「な、にするの」
「……どうして止めるの、ボクらはだって恋人なのに」
 その言葉にひどく傷ついている自分がいた。呼吸をするのが苦しくて、胸が痛い。それがまるでこの場を正当化させるための便宜上でなぞられたもののような気がした。

「……な、なんで天にぃこの間」
 声が震える。この間天に拒まれた記憶が脳裏に焼き付いて離れない。あれはそれだけ陸にとって痛烈な体験だったのだ。たかだかキスを拒まれたぐらいで一体なんだと言うのだろう、そう思われるようなことかもしれないがどうしたって兄弟である壁を越えられない事実を突きつけられたのと同じことだ。

「この間はごめんね、陸」
「お、オレ本当に気にしてないんだよ天にぃ。だって、オレたちは双子だし、兄弟だし、別に無理することなんて」
 言い訳がましく並べていく言葉が鋭利な先端を持って胸を貫いていく。そうだ、自分たちは双子で、家族なのだから恋人らしい行いに多少の嫌悪を抱いていたとしてもしょうがないことなのだ。

「無理なんかしてないよ」
 陸のことが好きだから、と囁かれる言葉にちっとも嬉しさが伴わない。
腰に手をまわされた手に力が込められ、距離を詰められる。逃れようと思わず天の腕の中で後退ると後ろにあったベッドに足をとられ、そのまま倒れ込むように押し倒される。やめて、と顔を背けた陸はどうして天がこんなことをするのか分からなかった。素直に相手の言葉を受け入れるべきなのに、それができない。ひどく優しい天の声が恐ろしい。陸が望んだように、望んだ姿であり続ける天は陸がよく知っているものだった。

「……こんなこと、しなくたっていいんだよ天にぃ」
 こんな恋人みたいなこと、と掠れた声で呟かれた言葉に天の瞳が揺れる。なにそれ、と吐き出した言葉はわかりやすく厭悪が滲んでいた。
 好きな相手に偽りを被せてしまった自分はなんてことをしてしまったのだろう。

「こんなことって、どういうこと」
 陸の言葉に天が静かに言葉を返す。今度はあからさまな憤りがにじみ出ていた。侮辱を受けたような、大切なものを傷つけられ震える人間のそれだった。

「陸が、ボクらのことを否定するの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
 大体先に拒んだのはそっちだったくせに、そんな子供じみた反論も今の天を前にしては言うことができなかった。

「寂しいと、死ぬんでしょ」
 ねえ、陸。天はすでに確信を持っていた。

「寂しいと、陸はうさぎみたいに死んじゃうんだ」
 無機質で抑揚のない声は、けれど僅かに震えていた。

「……」
「掌が冷たい。まるでずっと泣いてるみたい。勘違いかなって思ったけど、そうじゃない。病気が治ったなんて嘘なんでしょう」
 天に手を握られ、返す言葉を失う。今更誤魔化そうにも頭がまわらない、嘘をつくことに慣れていなかった。この場を凌ぐ方法はすでに断ち切られていた。

「……ボクでは、陸を救えないってこと?」
 天の問いかけにどんな答えを返すのが正解かもはや陸には分からなかった。
 うさぎ病という恋の病は好きな相手からの愛情を貰えなければやがて死んでしまう病だ。けれど、それは友愛や家族に向けるものと同じものでは効果がない。陸が好きになった相手は天だった。天も陸を好きだと、愛してると伝えてくれた。それにも関わらず陸がいまだ病に侵され続けるのは、つまり二人の間にあるものが同じではないという証拠だ。だからといって陸を救えないとしても天に非があるわけではない。天を好きになってしまったのは、陸の勝手な一方的な願いであって少なくとも天はそれを叶えてくれようとしたのだろう。

「天にぃに、酷いことをしちゃった」
 天の隣に最後まで、せめて終わりを迎えるときまで一緒にいられるならそれでいいと思っていた。身体が凍えて、寂しさでやがて死んでしまうことになったとしても好きな人が最後まで傍にいてくれるならこんなに幸せなことはないと思っていた。天の優しさに付け込んで、自分の我儘を単に叶えたかった。それは、天からすればどんな気持ちだったのだろう。天の気持ちが本当の愛ではないことなどとっくに知っていたのに。

「ボクは陸のことが好きだよ、嘘じゃない」
「オレも天にぃのことを愛してるよ。でも、天にぃがそうやって頑張れば頑張ろうとするほど、身体が震えて寂しくってどうしようもなくなるんだ」
 天が目を見開く。

「……本当の愛だったらよかったのに、」









×