恋のやまい



 ケーキの上に乗った苺を暫くじっと眺めていたせいか天が不思議そうな顔をする。それから、「もしかして食べたい気分じゃない?」と不安げに訊ねる。慌てて首を振った陸は食べるよ、とスポンジの部分にフォークを乗せる。
 病が治って以来、苺を欲することはなくなった。甘くて酸っぱい苺は好きではあるけれど、どこか敬遠してしまっていた。苺を見るたびにあのおかしな病のことを思い出してしまうからだ。

「何かあった?」
 ゆっくりとフォークに乗せたスポンジを口に運んだ陸に向けて天が徐にそう切り出した。予想もしなかった言葉に陸は目を見開く。 
 今日は二人とも午後からオフだったため、行きつけの喫茶店のケーキを食べにいくことになった。天と会うのは久しぶりな上に、貴重な時間を自分のためにくれることが嬉しくてずっと楽しみにしていた。ただ、そうでないように見えるならば魚の小骨のようにつかえているものが原因だろう。天と久しぶりに会うということは天の映画を見て以来一度も天に会わなかったことになる。あの映画を見ていた時に感じていた気持ちの整理のいまだにつけられずにいる。

「な、何かあったって?」
「いつもはあれもこれも、って話しかけてくるのにここにきてからケーキ見てぼんやりしてるから」
 天にそこまで気づかれていることに驚く。自分はそんなにも分かりやすく態度に出ていたのか。
 まさか目の前にいる天のことで悩んでいる。とは伝えられない。こうして陸の些細な変化に気づいていたとしても、少し前の天ならば口に出してくれることはなかっただろう。天はこんなにも自分のことを思ってくれているのに、陸の悩みの種は天自身が何かをしたわけではない。陸が勝手に悩み、そうして複雑に思っているだけだ。そのことが少しだけ後ろめたいような気持ちにさせる。

「お、お腹すいてたから……!」
「その割にはなかなかケーキにも手をつけないし」
「ちょ、ちょっと冷房ききすぎてるのかも……!」
「冷房を気にしてる素振りなんか一度も見せなかったじゃない。それと寒いなら早く言って、羽織るものかしてあげるから」
 何か、あった?
 天はもう一度、答えを先導するように訊ねた。陸が避けたいものについての遠慮や配慮は一切ない。それは、陸が何かを抱えていることに確信を得ているような囁きだった。その柔らかい瞳と、声がかつて陸の傍にいた七瀬天の姿を彷彿とさせる。天にならどんな些細なことだって悲しいことだってすべてを打ち明けてしまいたくなる。
 視線を逸らし、ほんとだよと小さく呟いた陸は誤魔化すようにケーキの上に乗っていた苺を口に入れた。最初に酸味が広がるが次第に甘さがそれを緩和させる。苺を咀嚼する陸をじっと眺めていた天は何かをいいたげな雰囲気をだしながら、けれど「ボクの勘違いかな」と言っただけだった。

「苺、おいしい?」
「へ?」
「その苺、おいしい?」
「お、おいしいけど……」
 陸がぎこちなくも頷くと天は自らのケーキの上に乗っていた苺にフォークを刺して、そのまま陸に向ける。

「え、て、天にぃ?」
「陸にあげる。特別だよ、ほら口あけて」
 え、いいよ。だってそれ一つしかないのに。陸が遠慮がちに身を引くも天がフォークをさげる気配はない。昔の自分ならば遠慮なく口にいれていたかもしれない、けれど今になってみればこれは少し、いやかなり恥ずかしいような気がしてならない。店内を思わず見渡すが他に客はいない。天と陸が通されたのは二階の席だった。元よりテーブル数が少ないこともあり、ここにくるたびに気さくなオーナーは上の席を貸し切りにしてくれる。天と陸がアイドルであることは知っているが、それよりも自分の店のケーキを食べてもらえることが嬉しいらしく、どうせなら気兼ねなく食べてほしいということだった。

「照れてるの? 今更じゃないこんなの」
「また子供扱いしてる、」
 オレ、もう子供じゃないんだからな。と、不満を吐き出そうと陸の口に苺が押し当てられ、やむを得ず口を開くことになった。口の中に入れられた二つ目の苺もやはり酸っぱくて、甘い。天に視線を向ければ満足そうに口角をあげて笑っていた。
 天の言う通りこんなことに逐一意識をするなんて自分がおかしいのかもしれない。他の兄弟たちの一般的な距離感というものを具体的に知っているわけではないが、双子で生まれ、どんなときもずっと一緒だった自分たちの距離感がある程度近いものだという自覚はある。しかしながら「今更」だと分かっていても、どうにもならず早く鼓動を刻んでいく心臓はどこまでも素直だった。そういうところに天との気持ちの差異を感じてしまう。 

「良かった、陸がおいしそうに食べてくれて」
「……天にぃのほうが何かあったの?」
 陸が伺うように訊けば天は「浮かれてるのかもしれないよね、普段より」と言った。

「陸とデートしてるわけだし」
 天の率直な言葉に暫し口を開き固まった陸は徐々にその意味を理解する。天がくすくすと楽しそうに笑う声が揺れている、揶揄われているのかもしれないが不思議と不快には思わなかった。

「やっぱり、今日の天にぃちょっと変だ……」
「そうかな、そんなことないよ。ボクだって浮かれることぐらいたまにあるよ、知ってるでしょ」
 天に言われた言葉が陸なら、という風に捉えられてそんな小さなことでも嬉しくなってしまう。口元に少しついた生クリームを指先で拭い、天のほうをみやる。

「あ、そういえばこの間天にぃの映画見てきたんだ」
 ふっと浮かんだ話題を口にすると天がもう見てきたの? と驚いたように僅かに目を見開く。

「うん、早く見たくて我慢できなくなっちゃって。天にぃギター上手だね凄かった!」
 ギターを弾きながら歌うなんて凄いね、と陸が褒めれば天はさすがにたくさん練習したからね、と答えた。それから矢継ぎ早に称賛の言葉を述べる陸にありがとうと微笑んだ。
 映画のシーンをあれこれ浮かべながらひとつひとつほめていく陸に天は飽きることなく丁寧に相槌を打ちながら時折撮影中にあった出来事等も交えて教えてくれた。何か撮影中にあったおもしろい話を聞かせて、という陸のリクエストにも少し困ったように眉をさげつつそういえばね、と話してくれる。
 天の話を訊く間にも、天はあの役を演じるにあたってどんなことを考えていたのだろう。ついそんな考えが浮かんでしまう、それらを本人に直接訊ねる勇気を今だけは持ち合わせていなかった。天は共演者とご飯を食べに行く際も陸に連絡を入れてくれる、それは恐らく恋人である陸への配慮なのだろう。そこまでしてくれる天が特別な他意を持たず話すのを聞きながらどこか胸が軋むような感覚を覚えていた。
 なぜなのだろう、どうして自分はこんなにも小さなことすら寛容に受け入れられないのだろう。ただの映画の中のヒロインに嫉妬してしまうなんて情けなくて、なんて心が狭いのか。

「――陸、」
 物思いに気づいたときには沈んでいた陸の意識を引き上げたのは天の声だった。
はっとして天を見やれば僅かに険しい表情を浮かべた天がこちらを見つめていた。会話に集中できないことに呆れられてしまったかもしれない。

「あ、ご、ごめん……ぼうっとしてて」
「ううん、大丈夫だけど。ボクじゃないものに夢中になっちゃうぐらいの考えごと?」
 天の問いかけにそんなことはない、とすぐさま首を振って否定する。

「そんなことないよ。ただ、……いいなって」
「いいなって?」
 天に反復され陸はつい自分が言うつもりのなかった言葉を外に出してしまったことに気づく。吐き出した羨望は裏を返せばただの嫉妬だった。そんな醜いことは天に知られたくない、片鱗を見せるつもりだってなかった。
 たとえ演技だとしても天にあんな風に切に思われる相手に胸がぎゅっと捕まれるような痛みを覚えた、くちづけを交わす二人を忘れようと思えば思うほど思考に浮かび上がり忘れられなくなる。
 陸の表情が明らかにまずい、というものに変わったせいか天が追及するようにどういうことなの、と畳みかける。

「あ、えと……い、いいなって! お、オレもあんな風にギターが弾けたらかっこいいだろうなって思ったんだ!」
 咄嗟に考えた嘘を並べ必死に笑う。けれど天はそんな陸をじっと見つめ、暫くの間何かを考えるように黙り込んだ。沈黙の空気が肌に刺さるようだった、何かを言ってほしいのに天は何も言わない。

「…………映画に嫉妬した?」
「えっ」
 驚いて思わず大きな声をだしてしまう。はっとして口を抑えるがこれでは事実だと認めてしまったものと等しい。必死に言い訳を考えようとする陸に天がくすりと笑って「嫉妬してくれたんだ」と言った。

「そ、そんなんじゃないよ……! 大体、映画だって仕事だもん」
「仕事ならボクが誰と恋人になってもいいんだ?」
「……仕事だし、」
 そんな言いまわしをするのは卑怯だ。と言い募りそうになるのをぐっと堪える。天と恋人でいられるのも、仕事である部分ではきちんと割り切っているからだ。誰かがいる場所では天と陸はあくまで他人同士であって、縁もゆかりもない人物ということになっている。
 もし天と恋人でなかったとしたら、自分はあの映画を幼い頃のような瞳を向けて見ていただろう。天の相手役に嫉妬することもなく、ただ純粋に役にはまりきった天に憧れを向けて見つめていただろう。ここで仕事と割り切れず、言うことのきけない子供のように嫉妬したということを天に知られたくない――知られたくないのは単に天の中に居続ける自分を守りたいだけだとしても。

「陸のことなんだって分かっちゃうんだよ」
「へ、」
「素直に言ってくれたらいいのに」
 どこか呆れを含んだような、それでいて物寂しげな物言いだった。
 つまるところ陸の嘘や誤魔化しなんて少しも意味がなくて、天はそのことに対して言及したのだろう。瞬きを繰り返してから陸はゆっくりと、ともすれば天に届かないような小さな声で「……そりゃあ、すこしは、」と呟く。 

「そう言ってくれるのを待ってた」
 天が柔らかい瞳でこちらを見つめていた。目の前にいる相手はしっかりと拾っていた。それに何とも言えない恥ずかしさを覚えた陸は「そういうかっこいい顔しないで」と顔を俯かせる。映画の中で見たような、それよりももっと、何か特別な意味を孕んだその視線を向けられることに慣れていなかった。

「ふふ、かわいい」
 こっち向いてよ、陸。ねだるような天の声がおちてくる。自分が求めてやまなかったものが今は現実となってここにある。


 喫茶店を出た後、どこか行きたいところはあるかと訊かれ咄嗟には浮かばなかった陸に天のほうから「じゃあこのあとはボクの家でいい?」と提案したのだった。珍しいことだった、普段は陸の行きたい場所や提案を優先してくれるからだ。天の申し出に断る理由もなく陸は素直に頷く。体調が優れないのかもしれない、と陸が天に「天にぃ大丈夫?」と訊けば天は具合が悪いわけじゃないよと言った。

「二人きりのほうが色々と楽でしょ」
「いろいろ」
「そう、」
 ここじゃ手を繋ぐことだってままらないしね。と、天が陸の手をそっと握る。その体温に僅かに驚いて天を見れば天も同じような表情を浮かべていた。けれど、どこか訝しむような顔をしたのは一瞬ですぐににこりと形の良い笑みを口元に浮かべて帰ろう、と歩き出した。天が陸の手を握ったまま歩き出したためつられるようにして陸も歩き出す。人目の多い場所では滅多に手を繋ぐようなことはない。陸がはぐれないようにという名目で繋ぐというよりは手をひかれることはたびたびあることではあるが。

「て、天にぃ」
「どこか行きたいところでもある?」
 天の笑みに思わず言いかけた言葉をのみこんだ。ううん、と首を振って大人しく天の隣を歩く。
 温かい体温が掌を通って伝わってくる。手を繋ぐたびにどうしてか昔の記憶が勝手に蘇りどこか泣きたいような気持ちになってしまう。こんな日は二度と訪れることはないのだと思っていたからだ。

「へへ、天にぃの隣を歩けるの幸せだな」
「隣を歩いてるだけなのに」
「だけじゃないよ、すごいことだもん!」
 天にぃにはわかんないだろうな。と、笑いまじりで言ってきゅっと力を入れて握り返す。隣を歩くことを許される事実もまたもちろんだが、天の隣にいる陸が恋人ととして傍にいることを許されることが普通のことではないのだ。陸にとってはそのことがより一層今の場所を特別にさせていた。

「ボクにとっては陸のために涙を流すことだって、陸が隣にいることだって全く特別なことじゃなかった。だって、ボクにとってそれは当たり前のことだったから」
 陸は知らなくて当然なんだ、それはボクが陸に知られたくはなかったことだから。
 天が前を見据えたまま言葉を紡いでいく。目線を前に向ける天はどこか違う場所へ思いを巡らせているようにも見えた。
 あの日生きていてほしいと陸に懇願して涙を流した天を見たことはきっと簡単には忘れられないだろう。天があれほどまでに渇望してくれるとは思ってもみなかった。雨の中、ライブをしていたTRIGGERを見たときのような天の知らなかった片鱗を見た。あんなに一緒にいたのに自分は天のことを知ったようなつもりでいて、知らなかった。
 天が泣いている姿は記憶を探ってみてもさほどない。天はいつだって陸の前ではヒーローのように完璧であり続けたからだ。発作で倒れ暫く眠り続けていた陸が目をあけた際、目のふちに涙をいっぱいに溜めている姿は覚えているもののそれは大人になった天の涙ほど痛烈に残るものではない。

「でも、そう思うのは贅沢なことなんだきっと。失うことが怖いぐらい、幸福なことだから」
 噛みしめるように呟く。自分自身に言い聞かせるように、自分自身の中にあるものをしっかりと確かめるように。
 まるで初めて授かったかのような新鮮さを持ったその言葉は単純に受け止めるにはしっかりとした重さ持っていた。言葉を返すのも忘れ、陸は暫くのあいだその美しい横顔をみつめていた。



 肩がくっつく程近くにいるのに、そんな距離が少しだけもどかしく感じてしまう。
 九条天という人物は完璧だった、中途半端なことや妥協は許さない。他人にだって、自分にだって人一倍厳しい。最初こそ天の厳しい言葉に戸惑ったものの、やがてそれは誰かを思うが故の厳しいものであるということを理解した。天はまだ子供だった幼い頃から完璧だった。学校の勉強では良い成績を残し、走ることも得意だった。陸が生まれながらに持たなかったものを全てその身に受けたような天のことを、けれど陸は妬んだり恨んだりすることはなかった。最初からひとつだったものが二つに分かれたように、天と陸は双子として生まれたときから二人で互いの人生を背負って生きていた。陸ができないことは天が代わりにやってあげたし、陸が願うことを天はなんだって叶えてくれた。

「天にぃ、あのさ」
「なに?」
 レンタルショップで借りてきた映画のエンドロールがちょうど流れ始めたところで陸は口を開く。二人で立ち寄った際に見たかったのにタイミングを逃してしまった、という理由でかりてきたコメディ要素の強い映画だった。途中身体を揺らし笑いながら見ていた。天も隣で笑いを堪えつつながめていた。いい映画だった、けれど映画が終わりに近づくにつれ次第に中身が頭に入らなくなっていた。中身は全く違うはずなのに白と黒の画面で構成されるエンドロールがどうしてかあの時と同じ気持ちを呼び起こすのだ。

「……天にぃの、映画、みたんだ」
「……聞いたから知ってるけど」
 陸が言ったのに。と、天が不思議そうに陸を見る。

「お、オレたちって付き合ってるんだよね……っ」
「そうだけど」
 今更何を、と言わんばかりの口調だった。天が陸の様子に僅かに眉を寄せる。

「あ、あの映画みたいに、あのヒロインの女の子にしたようなこと、お……オレにしたいっておもったりしないの」
 言った後で後悔が次から次へと押し寄せる。言葉が途中でつかえ、最後はやや上擦った情けない声になってしまった。あくまで焦燥を悟られないように冷静に、と思っていたのに結局耳の奥で大きな音をならす心臓と追い立てられた思考で冷静さはとっくに失っていた。
 こんなにも近い距離にいても、恋人らしい事は一切しない。そういうことをしたいがために天と恋人になったわけではないしそういうことを望んでいるから恋人になりたかったわけではない。けれど、その理屈では賄いきれない感情が大きくなっていく。兄弟と恋人の境目となる、なにかきっかけが。これが紛い物ではない本当の恋だと思わせてほしかった。

「……大学生を今更やり直すわけにはいかないでしょう」
 天の返答は陸が求めていたものとあからさまに違っていた。落胆するよりも先に天があえて陸の趣旨から外したのだということが分かって息を潜めていた感情があふれ出す。

「そ、そういうことじゃないじゃん!」
「……ボクは、何も急ぐことはないと思ってるよ」
 糾弾するように詰め寄った陸に天はようやく陸の発したものについての真ん中を捉え、淡々とそう言った。天のその様子に少なからず、自分が言ったことについて恥を覚えたのは確かだった。天の返答は以前と変わらない、一体いつまで待てばと言い募るつもりはなかったがそれにショックを受けていたのは事実だ。
 天の言う通り急ぐ必要はないのかもしれない、元々自分たちは兄弟で双子として生まれた。いくら恋人であろうと、そういった接触についてはすぐに受け入れられるものではないのかもしれない。
 隣にいた天の肩に手を伸ばす。驚く天をよそに、そのまま力をいれて押せば身体が傾き、ソファの上に倒れ込む。その上に覆いかぶさるようにして天を見下ろす。困惑が混ぜられた天の瞳が次第に剣を帯びたものに変わっていく。形の良い眉が吊り上げられ「陸」と咎めるように名前を呼んだ。

「――オレが弱くなくても、オレのこと本当に愛してくれた?」
 天が目を見開き、硬直する。
 自分の言葉が身体を刺すような鋭利な武器に変わる。病気を持って生まれたことについて、誰かを恨んだこともなければ誰かを憎んだことはない。天が幸福な時間をくれたために、禍福の境目を気に掛けることもなかった。寧ろ、天という双子の兄がいてくれる自分は幸せなのだろうとすら思っていた。
 しかしながら病気を持って生まれた自分について、陸はそれなりに理解しているつもりではあった。病を持って生まれた人間は他の人間より弱く、誰かの手を借りなければ生きられない。自分に向けられる人々の感情を享受していくたびに、人の命が驚くほど脆いということを生まれながらの環境の中で知るたびに自分が一人では立てない人間だということも同時に知ることになる。天が自分を愛してくれることを何ら疑問に思わず受け止めてきた。けれど、天が家を出た後にしった絶望と喪失感の中で自分たちの間にあったものについて考えていたのも確かだ。
 どうして自分は人より弱いのだろう。家を出た天が自分の面倒をみることに対して何とも思わずに当たり前にその身に余るほどの幸福を貰い受けてきた自分はどうして天の気持ちを一切考えられなかったのだろう。あの日家を出た天がどんな景色を求めていたのか、何を欲していたのか陸は何も分からなかった。

「天にぃのことが好きなんだ、オレは」
 天の気持ちを正しく読み解こうとすることはあまりにも難しい。幼い頃、あんなに一緒にいたのにと言ってしまえばそこまでだが誰よりも理解している自信を残しつつそれに自分自身確証を持てないのは違いないことだった。きっと天の傍にいる楽や龍之介のほうがよっぽど九条天という人間については理解しているのだろう。
 それでも、そうであったとしても、

「……本当に嬉しかった、天にぃがオレのことを救おうとしてくれて」
 天にぃがオレを救ってくれるなんて、まるで昔読んだ絵本のお話みたいで。
 真実の愛が誰かを救う。神様でも救えないものを、運命の相手なら救うことができてしまう。そんなのは所詮絵本の中の話でしかないと思っていたのだ。それが、この世にも真実の愛で救われる人間は確かに存在している。
 お互いの吐息が聞こえてしまうような距離で見つめ合う。形のいい唇が動き、陸の名前を確かに呼んだ。空想の話だとしても現実では考えられないことだとしても、天が自分の運命の人であったならばそれはどんなに幸せなことなんだろう。

「……っ」
 唇を重ねようとした陸を咄嗟に止めたのは天だった。掌で陸の口元を覆い、口づけを制止する。それがこれまで陸の中で蔓延っていたものの全ての答えであるような気がした。恐らく咄嗟のことだったのだろう、殆ど反射だったであろう天ははっとしたように罰の悪い顔をするとごめん、と小さく呟く。
 身体中に、あの頃と同じような心までも凍らせてしまいそうな冷たさが蔓延していく。
 ううん、と小さく首を振った陸は天の肩口に頭をぽすりと落とす。弟となんて気持ち悪いよね、と言った陸に天は違うとすぐに否定を返すが今はそのフォローですら緩和剤として作用することはない。

「……やっぱり、」
 すっと体温がさがっていくような気がした。
 胸が痛い、このまま天の胸で泣きたいような気持ちに駆られる。苦しいし、痛くてたまらない。



 考えてみれば、予兆がないわけではなかった。兄弟として、双子として生まれた天は幼い頃は陸を一番に甘やかして面倒を見ていた。天に大事にされるたびに、天が自分を大切にしてくれることが陸にとってはひどく幸せなことだった。
 恋人になってからの天は昔、そばにいた七瀬天の姿を彷彿とさせた。二人きりでいる時のちょっとした失敗にはしょうがないね、と困ったような笑みで許してくれる。陸がおねだりをすれば少し考えるような素振りを見せながらも最終的には陸の願いことを聞いてくれる。
 天から愛情が欲しかった、愛される人に殺されてしまうなんて悲しくてつらくてたまらなかった。けれど、果たして自分が求めていたものはこれでよかったのだろうかと考えることもなかったわけじゃない。

「可愛いよね、この子達だって一生懸命努力してるんだから」
 九条ってどんなやつが好みなの。持て余した時間を雑談で消化するために偶然選んだ話題だったのだろう。IDOLiSH7が掲載された雑誌には同じく他のアイドルについても掲載されていた。それを眺めながらそういえばさ、と口を開いた大和に天は君が気にすることなの、とどこか呆れたような視線を向けていた。いいじゃんでもさ、減るもんじゃないんだし。と、へらりと笑って食い下がる大和の言葉に密かに陸は耳を傾けていた。
 TRIGGERというグループに属する天は、陸が昔見ていたような純粋な天使、というイメージからは少しだけ違っていた。甘い言葉を囁くことにだって余念がなく、些細にだってなれなくてすぐに照れが入ってしまう陸とは違い天はファンが喜ぶならば、求められることにならどんな要求をされても返すことができる。女の子を相手にしてもどぎまぎすることはないだろうし触れるだけで慌てふためくこともないのだろう。九条ってデートとかでもスマートにエスコートしそうだよな、という三月の言葉には思わず深く頷いてしまった。

「へえ、努力する人間なら誰だってかわいいって?」
「努力って口にするのは簡単だけど全ての人間ができることではないから」
 天の口から出たかわいいよね、と落ちた言葉に衝撃を受けていたのも確かだった。異性同士が付き合っているわけではないためどちらが彼氏だとか彼女であるかどうかは天と陸の間柄には必要ない。陸とて元々男性が好きだったわけじゃない、天だからこそ好きになったのであって天以外の男性に惹かれるかと言われればそんなことはない。天はどうだろう。同じように元々女性が好きかもしれない。そんなことを考えていたせいか天のかわいいよね、という言葉はそれまで間違えて覚えていたものを訂正するような衝撃でもあったのだ。天だって元々男性を好きだったわけじゃない、女性を好きになったことだってあるだろう。それだけの真実なのに、予想はできたことなのにどうしてか焦燥にも似た焦りがふつふつと湧き上がるのか。
 天が時折陸に向けるかわいい、と女性に向けるものには何か違いがある。それを明瞭に言い表すことは難しいが、そうだという自信はあった。天にだって陸じゃない人を好きになる余地はいくらでもあるのだ。それにどうして気づかなかったのだろう。

「恋愛とかまだ考えられないですね、が模範的な解答だと思ってた。九条の」
「ボクにだって恋人はいるからね」
 ああ、お決まりのね。と、大和が納得したように頷く。傍でじっと身を固めて聞いていた陸は自分が平静ではいられないことに気づいていた。
 天と一緒にいるのに、肌を撫でる僅かな寒気を感じることがあった。病が治ったはずの今、そんなはずはないと気のせいだと思い込んで目をそらし続けていた。好きな人と結ばれて、好きな人から愛情を貰っているはずの自分が愛情の飢餓によって引き起こされる病を患うはずはないのだと――そうでなければ、天から貰う愛が、本物ではないことを肯定することになるのだから。



 どういうことですか。
 目の前の医師が眉を顰めながら問いかける。驚きを滲ませるその様子と事例がない、という言葉に陸はどこか居たたまれないような気持ちになった。赤らんだ瞳はきっと情けない顔をより一層引き立たせているに違いない。
 オレにもよくわからないんですけど、と言いかけて陸はそこで一度口をとじる。わからないなんて誤魔化しはもう効かない。これまで何の不自由もなく以前の通り変わらない生活が送れていたはずなのに突然の再発。診察によればそれはもうほとんど確定事項のようなものだ。陸の状態が殆ど完治に近かったため医師にとってもこの展開は予想外だったのだろう。

「……どうしていいか分からないです」
「一度治った患者が病を再発するなんて」
 君、順調だったはずじゃないんですか。しかも、パートナーが突然亡くなったわけじゃないんですよね、相手と何かありましたか。
 医者が視線をじっと向けて問いかける。あの出来事しか考えられなかった。天に口づけを拒まれてから、以前と同じような症状を感じるようになっていた。再発したことは病院で診察を受けるまでもなく、自覚できてしまう。体温調整ができない身体のままではこれから冬に向かう季節の最中、地獄を味わうことになる。どうにかしたいのに、陸は半ば諦めに似た気持ちを自分が抱いていることにも気づく。

「……言い方を変えましょう。好きな人とは良好な関係を築けていますか」
「……悪くないとは、思ってたんですけど」
 もっと自信をもって言えたらよかった。自分でもどうしてこんなに情けない声が出るのか不思議だった。
 天と恋人関係を解消したわけでもなければ喧嘩をしているわけでもない。どうして病が再発してしまったのだろう、自分は天の恋人であるはずなのに。そんなことを考えながらも、すぐそこまで迫ってきているものに目をそらしたい気持ちでいっぱいだった。

「オレ、治ったんじゃなかったんですか」
 なんとか明るく振り絞ったはずの声が僅かに震えた。
 治らない病が恐ろしいわけじゃない。そんなのは慣れ切っていることだった。病気が寛解で一時的に収まったとしてもそれは気休め程度のものでしかなかった。単純に理由が知りたかった。口づけを拒まれたことなら、あの日だけではなく前に一度断られたことだってある。何が何だか分からなかった、考えるだけの思考をすでに手離してしまったせいかもしれないが絶えず胸の中でざわざわと不安が身を寄せ合っている。絶えず蔓延る寒気が身体を覆っていた。
 陸の患った恋の病は好きな人から愛情を貰えなければ死んでしまう、というものだった。考えないようにしているのに、何か恐ろしいことに近づいてくようで掌が知らず知らずのうちに汗を握っていた。

「以前にもお話したことがあるかもしれませんが、恋が実らなかったという事例も勿論あります。君に提案したように、救われたいがために最初から好意を抱いてもらっている人間からの愛を貰って助かったというケースも存在します。それもごく稀に見る珍しいものではありますが。けれど、恋愛はすべてにおいて百パーセント成功するものだとは言い切れません」
「……」
「人間の心理も関係するからです。恋と病が結びついたこれは非常に難しい病気でもあります。勿論、本命ではない人間と結ばれた人間がそのあと必ず成功するとも言い切れない」
「じゃあ、その人たちどうなっちゃうんですか……?」
 おそるおそる陸は問いかける。
 好きな相手を一途に思い続けても相手から向けられる感情がなければ恋は成就しない。けれど、当初好きだった相手ではなく別の人間と結ばれた場合でも助かったという話は聞いていた。陸も症状の改善が見えなかった頃医師に勧められた方法だった。生きるか死ぬかの二択に絞ればそれは致し方ないことなのだと。

「恋人としてお付き合いをその後も続けて経過を見守ることにした患者もいます。この人となら、と結婚した方もいます。けれど、いずれの方も一度は症状が治まるんです。自分を愛してくれる人と、一緒になれたことと死なずに済むという安堵が心に大きく作用するんでしょうね。病が治った後再発することはありませんでした。死ぬのはパートナーがいなくなってしまった時か、自ら死を選んだ場合です」
 君の病は、と続けようとした言葉を一度置いた。それから、すみませんと陸に向けた謝罪は病が殆ど治ったものだと医者である彼自身思っていたからなのだろう。いいえ、と首を振ろうとして身体が強張っているせいかうまく返事ができない。

「これまでのものから行くとこの病は一度治ってしまえばそこから再発することはありませんでした。難しい病ではありますが、とても単純な病気でもあったんです」
 この病気はずっと陸くんが一緒に歩いて行かなくちゃならないからね。幼い頃にそう言われた過去が脳裏に蘇る。けれど、あの時よりもどうしてかずっと恐ろしい。ひゅっと息をのむ、ばくばくと心臓の鼓動がはやまって息が苦しい。

「それってつまり、最初から、」
「……」
「…………相手の人が、オレを好きじゃなくて、本当の愛じゃなかったってことですよね」
 陸が辿り着きたくなくて、知らないふりをしたかった真実だった。
 その言葉を吐き出すだけなのに随分と労力を必要とした。認めたくなくて、受け入れたくなかった。病が再発してから蔓延していていたものは、きっと自分が目を逸らしたかったものだ。天は恋人なのに、愛されているはずなのに、それならどうして恋の病は治らないままなのだろう。愛情を貰えなくて悲しくて寂しいあの時の気持ちが蘇る、身体を震わせる寒気は愛情への飢餓からくるものだ。泣いているように肌が赤らんでいくのは、実らない恋への思いを募らせているからだ。

「君の症状は確かに一度落ち着いた。それは、君が好きな人に好きだと、好意を貰ったからです」
「それなら、どうして」
 天が恋人で、天も好きだというなら自分が恋の病に犯される理由は見当たらない。
 陸の問いかけに暫くの間医者は答えなかった。返事を慎重に精査しているのかもしれないし、適切な返事が浮かばなかったのかもしれない。どちらであっても俯いた陸にはそれを見分けることはできなかった。膝の上で握った拳が小さく震えていた、寒さからくるものではなく単純に自分の置かれている状況への不可解さに怯えていた。



 りっくん最近また苺食べてんな。
 口の中に入れた苺のチョコレートに環がすん、と鼻をならしてそう言った。それは、なんでもない指摘だった。けれどどきりと跳ねる心臓はどこまでも正直だった。

「環も食べる?」
「一つちょーだい」
ん、と手のひらを差し出した環に苺のチョコレートを一粒のせる。苺のシーズンが過ぎるとコンビニやスーパーでも苺のお菓子の種類が少なくなってくる。ここ最近は同じものばかりを食べていた。

「なんかやなことでもあった?」
「へ」
 携帯の画面に視線を向けたままの環は変わらず指は画面をタップし続けている。最近パズルゲームにはまっているという環はここ最近それに夢中だった。画面から視線を動かさないまま徐に訊ねられた言葉に陸は目を見開く。

「な、何かあったって?」
「最近りっくんずっとにこにこしてたけど、たまにぼーっとしてる」
 またてんてんと喧嘩?
 何の気なしに問いかけられ、思わず肩を揺らす。そんなに自分は分かりやすかっただろうか、これでは誤魔化しても意味がないと思い「喧嘩したわけじゃないよ」と正直に答える。
 天に口づけを拒まれてから、以前と同じような症状が表れるようになった。気休め程度にしかならないが苺を食べて、症状を緩和させている。あの日以来天とプライベートで会うことはない。天に誘われても、陸が都合をつけられないことを理由に断りを入れていた。けれども寂しさを感じれば感じるほど病は悪化する、自ら招く悪循環に陸はここ暫く頭を悩ませていた。
 天のことが好きなのに、天の傍にいてもうさぎ病を発症するということは天から貰う愛情が本物ではないことを示す。天の好きだよ、という言葉をいずれ信じられなくなってしまいそうになる自分自身が嫌でたまらなかった。本当のことを言ってしまえばいいだけなのに、あの日陸は逃げるように帰った。掌の体温で天にはすでに気づかれてしまってる可能性はあるが、それでもあのまま天の前で情けなくて惨めな自分を晒し続けることができなかったのだ。なによりも、天に自分が運命の相手でないことを悟られるのを恐れたのだ。

「……環、オレの手握ってみてくれない?」
 陸が掌を差し出すと、環は不思議そうにしつつも陸の手を握る。環の手は陸よりも少しだけ大きくて暖かい。

「りっくんの手、冷たいな」
「うん、冷たいんだ」
「なら、あったかくなるまで俺が握ってやる」
 環のほうが年下のはずなのに、どうしてか今は彼が誰かの兄、である事実が強く浮いているような気がした。ありがとう、と笑ってみせた陸におう、とどこか得意げに環が笑い返す。

「……自分の好きだった人が、自分のこと好きじゃなかったって知ったらどうする?」
 誰にも打ち明けずにいようと思っていたことだった。自然と落ちていったのは心も同じように弱っていたせいかもしれなかった。陸の呟きをひろった環は「りっくん好きな人いんの?」と頓狂な声をあげる。慌ててそれを「好きっていうか、友達とかそういう人!」と訂正すれば環はああ、と気の抜けたような返事をする。

「好きとか嫌いとかめんどくせーよな。学校でもたまにみる」
「そうなんだ」
 学校は色んな人間が混在する場所でもある。環が淡々と言い放った言葉に、環が知っていることに少なからず驚いていた。

「好きなやつに嫌いだって言われたら悲しいし、なんにも俺が悪いことしてなかったらなんでってむかつく。でも、そいつが俺のこと嫌いなことに何か理由があるかもしんねーし……考えても分かんなかったらチケット渡すかも」
「チケット?」
「そう。歌ってダンス踊ってる俺を見れば好きになってくれるかも。俺はそいつのことを好きだから、もっかい好きになってもらえたら嬉しいじゃん?」
 環の簡素な答えに陸は思わずふっと笑う。揶揄われたと思ったのか環が口をへの字に曲げてなんだよ、と不満を吐き出す。
もう一回好きになってもらえたら嬉しい、それは単純ではあるものの素直で飾り気がないからこそ陸にはすとんと落ちてくる正解のような気がした。
 環が言うように天にだって何か理由があるのかもしれない。自分を好きになれない理由が。けれど、それは天に答えを聞くまでもなく陸が知っていることだった。自分たちは血の繋がりがある家族だ。生まれた日にちだって生きている時間だって殆ど同じだ。だからこそ恋にならなくて当然なのかもしれない。それが真実なのに、認めたくなかった。受け入れるのが恐ろしかった。自分を好きだと言ってくれる天が存在する時間に、夢をみていたかっただけかもしれない。うんと甘い声で、優しい眼差しでこちらを見てくれる天が好きだった。一度手放したあの時間が例え夢でも傍にあるならば縋っていたかったのも事実だ。
 やめておけばいいのに、そんな胸の内で囁かれる言葉に真摯に耳を傾けていたならば何かが変わっていただろうか。きっと、決してそんなことはない。天を好きになったことを今更他の誰かに変えられない時点で、結果は同じことだった。気づいたときには好きになっていて、自分の意志で好きでいることを止められるものではなくなっていた。陸が好きになってしまった相手は、実の兄で血の繋がりのある九条天なのだ。天がもしも家族だから恋にはならないと最初から否定してくれていたならば深い傷を負うこともなく済んでいたかもしれないが天の優しさに理不尽な憤りをぶつけるのは間違いだ。

「りっくんの歌も聴けば、皆好きになるだろ。笑顔になるし」
「そうかな」
「そうだよ、ファンの皆がいつも言う」
「そうだといいな」
 環の言葉のように自分の歌を聴いて好きになってくれるように、そんな魔法のような力があればよかった。そう思わずにはいられなかった。歌は魔法のようだと思う。お客さんに幸せを与え、笑顔にできる。それは陸が幼い頃願っても手に入れることができなかった魔法だった。一人の魔法使いのステージを見て、手を叩いて称賛の言葉を述べながらもどうすれば自分にもあんな風にできるだろうかと考えていた。
 環の言葉を聞いてから不思議と胸が軽くなったような心地を覚えていた。好き、の種類が違っていたとしても誰かから好きだと言われることは幸福なことではある。そう、確かにそれはあまりにも幸せなことなのだ。



「好きな人に殺されてしまう病だって」
 先生最初に言いましたよね。
 それまで隠していたことを素直に医師には打ち明けることにした。好きになった相手が血の繋がりがある身内の人間であること。陸の言葉を受け取った医師は難しい顔をしながらも、陸に向けられるものが愛情の類の中でも家族愛に近かったのではないか、と言った。それについては陸もきっとそうなんだと思います、と頷いた。

「好きな人は今更変えられないから」
 陸が打ち明けたことに対し、医師は病が再発したことに納得したようでもあった。

「殺されてもいいってことですか?」
「そういう言い方じゃなくてもっと柔らかく言ってほしいです」
「これ以上適切な言葉の表現が見つからないです」
 遠慮のない医師の言葉にむっとしつつ「こう考えるんですよ」と陸は言った。

「オレがその人のために、人生を捧げてもいいと思ったんです」
 陸の言葉に僅かに目を見開く。
 たった十三才で家を出た天は十三才にこれまでの人生をすべて置いて行った。家族を捨て、七瀬の籍を抜けた天の決断を少しも知らされなかった陸はただ泣いて過ごし、いなくなった天に恨み言をぶつけていた。たしなめられるたびに腹が立って、その憤りが行き場のない悲しみとなって跳ね返ってくるたびに、メディアにうつる天を見るたびに裏切り者と罵ることをやめられなかった。けれど、蓋を開けてみれば天が家を出た理由には陸が関わっていた。

「やめておいたほうがいいんじゃないですか」
 君の考えが理解できないわけではありませんが、と付け足して医師はきっぱりとそう言った。陸を案じるために思って言ったことなのだろう。

「だって好きな人の傍にはずっといたいじゃないですか」
 今でも天が家を出た日のことを思い出すことがある。あんな思いはできればもう二度としたくない、天が傍にいてくれるならずっとこのままがいい。例え自分だけが望んでいる我儘だとしても。

「……」
 そうじゃありませんか? 陸が微笑みを向けるも苦々しい顔のまま医師は何かにこらえるように唇を引き結んだ。患者の意志を優先しなければならない場面があっても、患者の命の期限を早めるのとはまた違う。難しいところなのだろう。

「……確かに結局好きではない人が君を救ったとしても、君は幸せにはなれないでしょうね」
 最初の頃妥協案として提案されたものについては、この場で出されることはなかった。陸の意志が揺らがないことに諦めたのか、それとも意味のないことだと気づいたのか。

「……君は、きっとそちらのほうが幸せなんだろうな」
 あきらめたように、それでいて柔らかい笑みを浮かべた医師がぽつりと呟く。陸に向けた言葉というよりは独り言のように自分自身に向けたようにも思えた。それからすみません、と謝罪を続ける。それがどういった意味を孕んだものなのか、陸には分からなかった。先生は何も悪くないです、と思わず前のめりになって言えばいいえ、と首を振る。

「人は誰でも死ぬのが怖いんです。存命と幸せを天秤にかけたとき、どちらが幸せかどうかはいつまで経っても難しい問題だと思います。長く生きるほうが絶対に幸せだと、私はそう思っていました」
「……」
「人は生きているだけで、命があるだけで幸福だとも言えます。生きたくても、生きられなかった人は数えきれないほどいます。だけど、人の幸福を他人が推し量ってはいいものではないのかもしれませんね」
「……」
 周囲の人々には長く生きることを望まれていた。勿論陸だって死にたいと思ったことは一度もない。先の人生も生きていれば、やりたいことを叶えられるかもしれない。病気が原因で天と二人で見られなかったもの、できなかったことをできるようになるかもしれない。元気になって丈夫にさえなれば天から一緒に歌おうと言ってもらえるかもしれない。そんな未来に夢をみて、幼い頃は期待を抱えて生きていた。けれど、望んだものすべてを手に入れるのはひどく難しいことだ。何かを手に入れるためにはその代わりになるものを捧げなければならない。天は陸の命を望んで、代わりに七瀬を置いていくことにしたのだ。
 天に生きることを渇望されていた。当たり前に傍にいたせいで、陸はそのことに気が付けなかった。

「…………長く生きていても、好きな人が傍にいてくれなきゃ寂しいです」
 寂しくて、死んでしまうかもしれないです。まるでうさぎ病みたいに。
 陸が冗談めかして笑ったことに医師はそうかもしれないですね、と頷く。
 天と陸は二人一緒に同じ日に生まれた双子だった。そのことが、余計に天が家を出た後の日々を辛くさせた。絵本を読むのも、好きな食べ物も、おおよその好きなものは一緒だった。学校終わりの天が見舞いにきてくれることも、その日の出来事をきかせてくれるのも、夜が恐ろしくて眠れない陸に絵本を読んでくれることだって陸の日常の中の一つだった。天がいなくなってしまったあの日に絶望の中で味わった途方もない喪失感はまるで自分の身体の一部をなくしてしまったような感覚だった。

「毎日じゃなくていいから、好きな人にはやっぱり近くにいてほしいです。おはよう、とかおやすみって言えるだけでもすごく幸せだなって思えるから」
 天はデートの終わりにまた今度、と手を振ってくれる。次の予定が決まっていなかったとしても、次いつ会えるか分からなくても陸にとってそれは次があるという約束だった。幼い頃病室で毎日のように交わしていた天との約束だった。その言葉があるだけで、離れるのが名残惜しいデートの終わりが嬉しさに変わる。

「……ずっと傍にいてほしいと願う相手なら、」
 陸が好きになった相手のことを打ち明けた際驚きはしていたが医師は好きになった対象については否定的なことは口にしなかった。身内の人間を好きになったところで、とひとつやふたつ何かを言われる覚悟ではいた。恋をした相手が世間一般では認められない相手であることも、ましてや異性ではないことも自覚はしていたからだ。

「素敵な恋ですね」
 思わず目を瞠る。頭の中で反芻させ、理解するのに少しだけ時間を要した。嬉しいのに、どうしてか泣きたいような気持ちになる。鼻の奥が痛くて、目があつい。

「そう、……なんです」 
 返事をするのがやっとだった、声が僅かに震える。天を好きになったことに後悔はない、例え恋の病で死んでしまうことになったとしても。
 だから、自分はこの恋に命を捧げたっていいと思ったのだ。例え報われないことがすでに決められていたとしても。人が生きているだけで幸福というならば、それは恋にだってきっと同じことが言えるだろう。
 幸せなのだ、自分は今。とてつもなく。そう思えることが誇らしかった。






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