愛とはとてもこわいこと



 夕方以降の帰宅する人々の時間帯と重なってもいけない。飲食店や喫茶店も混んでるだろうということになりどうしてか天の家に招かれることになった。この場合は招かれたといっていいものか曖昧なところではあるが。家具が少なく自分の部屋とはだいぶ違うなあ、と眺める余裕もなく陸は天に説明を求められるがまま改めて一通りの経緯を説明することになった。ある日突然苺を身体が欲するようになったこと、体温調整が次第にできなくなっていったこと、そうしてそれらの症状がうさぎ病という奇妙な病のせいであることを改めて説明すると天はなんだか信じられない病気だね、と言った。信じられないけど否定はしない、とも。天には診断書を見られているため今更嘘や誤魔化しで取り繕っても仕方がない。
 天のおかげで命拾いしたこと、あの時の言葉がなければ今頃どうなっていたか分からないと素直に気持ちをもう一度述べると天はそれを聞きながら次第に表情を険しいものに変えてゆく。

「陸はボクが言った言葉が病を救うことだけのものだと思ってたんだ」
 信じられない。不機嫌を隠さずに天は眉を寄せてそう言った。
まさか天とおかしな恋の病について話をすることがあるなんて思わなかった。仕事の終わりに天が二人きりで会ってくれるなんて余程のことでなければあり得ない。少なくとも陸の記憶の中では一度もない。目の前の天をどこか信じられない面持ちで見つめる陸に天は聞いてる? とますます機嫌を損ねていく。咄嗟にごめんなさいと謝れば天ははあ、と呆れたように息をついた。
 ここにどんな気持ちでいればいいのかいまだに分からない、天の自宅についてからぐるぐると悩み続けている。病を患っていた頃は生きるか死ぬかの境目にいたせいか天に好きだと伝えることに対してそれほど重視して考えていたわけではなかった。寧ろ、そんな余裕がなかった。けれど、今になって思い返してみればそれがどれほど重要なことであるか理解できる。天は陸が天を好きであることもそのせいで病を発症したこともすべて知っているのだ。

「ボク、すごく真面目な話をしてるつもりなんだけど」
「オレだって真面目に聞いてる、つもりだけど……」
 天にぃそんなに怖い顔しないでよ、と陸がソファに座った天を見上げる。その視線から逃れるようにふい、と横を向いた天が「誰が怖い顔させてると思ってるの」と言う。

「ボクが陸のことを好きだって言ったの、一時的な救済措置だと思ったわけでしょ?」
 天の涙を嘘だと思ったわけではない。もしかすれば天なら仕事だと言われればそういったことも器用にやってのけてしまうかもしれないが優しい天はそんなことで嘘をつかない、そのことについては少なくとも自信がある。けれど、あの時の天の言葉に関してはどうやって受け止めるのが正解か分からない。天のことが好きだ、それに間違いはないけれど病を発症した自分を救うために同じ感情を貰いたいわけではなかった。

「……べ、別にそういうことだとは思ってないけど」
 目の前で怒りを隠さない天が怖くてつい言い訳がましい言葉が口をついて出る。

「けど?」
「……」
 思わず言葉をつまらせてしまう。
 仕事場ではアイドルとして接する、昔のように優しい愛情だけを向けてくれていた天ではない。本当のことを言ってしまえば天が自分のことを嫌っているのではないか、と考えていたことだってある。

「……天にぃは、オレに生きててほしい…でしょ?」
 天が大事に、大切に守ってくれた過去が存在しているようにあの頃と変わらず心配してくれていることは陸も知っている。子供扱いされるのが嫌で、とんだ矛盾だなあと思いつつ天に心配をしてもらえるのは天とまだ家族である証拠のような気がしてどうしようもなく嬉しい。

「なんで疑問形なの? そんなの当たり前じゃない。というか、陸はボクのことが好きなんでしょう」
「す、すきだけど」
 改めて言葉にしてみるとなんて恥ずかしい言葉なんだろう。昔はなんてことなく伝えられていたはずなのに、それがただの家族愛やそういったものではないと気づいた途端にそれがとてつもなく恥ずかしい言葉に聞こえてしまう。ドラマで見るような恋人らしいことを自分は天に求めているのだ。

「ボクは陸に愛してるから生きていてって言ったんだよ」
「……」
「生きてほしいから愛してるって言ったわけじゃない」
 本当は分かってるんじゃないの、陸。
 天に真っすぐ見つめられ、動けなくなる。その場から逃げることを許されなくなったように、視線に縫い付けられ陸は何を言うべきか必死に考えた。
天から受け取った言葉を素直に受け止めきれないままでいるのは愛されなければ死んでしまう病を患ってしまったからだ。天は困っている人や弱い人を見過ごせるような人間ではない。天使のように優しい、というのは陸が一番よく知っていることだった。だからこそ天から貰った言葉を素直に受け止めて、貰ってしまってもいいのか躊躇ってしまう。
 自分の身体が弱かったから、天と双子に生まれた自分が偶然丈夫でなかったから。あらゆる偶然か運命か、どちらか分からないものがいくつも重なった結果天が家を出た要因が自分にあったのではないかと悩んで考えて、涙を流し続けていた。無力で、弱虫で何もできない自分は天が傍にいなければ何も世界を知らないままだった。

「……もう病気は治ったんだ。天にぃの愛がなくちゃ生きられないオレじゃないから。あ、でも天にぃがオレのこと好きって言ってくれるのが嬉しくないわけじゃないよ」
 天がいなければ生きられなかった。陸が身体を動かせなければまるで陸の代わりになったかのように天は姿を変えて、夢を作り出す。何かを代償にして、愛を貰うことは狡いことなのだ。

「……病気を理由にしてるわけじゃないよ。ボクが言ってること、信じられない?」
 顔を俯かせた陸に優しい声が降ってくる。まるで心を見透かされているようだ、とつい考えてしまう。頑張って取り繕ったところで天の前ではそういった見栄や虚勢は通用しない。天の言葉はすでに病気が治ったことが証拠となり証明している。疑わなければならないことなんて一つもない。単純に怖いだけだ。

「……天にぃが、オレのことを好きになるなんておかしいもん。オレは男で、天にぃの弟で、家族だし……アイドルだもん」
 本当のことを言ってしまえば、天を不幸にしてしまう可能性を自分が背負っていることが恐ろしいのかもしれない。天に好きであることを伝えてしまった以上もう後戻りはできないけれど、陸にとっては天がこうして自分の思いに応えてくれることが不思議でならなかった。自分が焦がれ続けた言葉が向けられているのに、素直に受け止めてしまうことに足踏みをしてしまう。

「その理屈がまかり通るなら、陸がボクを好きなことだっておかしいんじゃないの」
 天がこちらを見て笑う。その笑みを見て思わずむっとしておかしいってなんだよ、と言い返せば言葉通りだよと素っ気なく返される。

「陸がボクのことを好きなのはボクが陸に天使みたいに優しくしてあげて、陸のおねだりを何でも叶えて、陸のために歌ってステップを踏んで見せたからだ。陸がボクのことを好きなのは、恋とか愛じゃなくて」
「そ、そんなわけないだろ……!」
 声を張って天に詰め寄る。天本人に気持ちを否定されることだけは耐え難かった。
 天を好きになってしまってから、病の悪化を防ぐために「好き」の感情を必死に押し込めて辛い症状にも耐えていた。体温調整ができなくなってゆく身体に、次第に情けない顔になっていく自分に、好きな人に殺されてしまうかもしれないという悲しみを味わった事実に嘘は一つもない。天のことが心の底から好きだからこそ起こったことであり、そうでなければあんなに苦しみを味わうことはなかった。それを、

「オレが、どんな思いで……!」
 なんにも知らないくせに。そんな言葉をぶつけようとして、自分の勝手な傲慢さとそれを天に押しつけることはあまりにも理不尽だということに気づき唇をきゅっと噛んだ。唐突に勢いを失った陸に天が僅かに目を見開いているのが分かった。
 天は知らなくて当然なのだ、天に向けていたものはあくまで陸が勝手に恋をしただけであって天はそれを知らなくても仕方がないことなのだ。天はどこまでも優しい人間だ、誰かの命が危うい状況あってそれを少しでも救える可能性があるのなら見逃すような真似はしないだろう。それに多少の代償が伴うとしてもだ。愛がなければ死んでしまう、と目の前で宣告する人間が例え自分でなかったとしてももしかすれば天は誰かを救うためなら愛をあげようと必死になっていたかもしれない。そんなことを考えて、勝手に気持ちを沈めてもそんな資格は血の繋がった双子として生まれた自分が持ち合わせて良いものではないはずなのに。

「……恋とか、愛じゃなければ、よかったな」
 小さく吐き出した言葉が自分に跳ね返って、胸を抉る。
 恋でなければうさぎ病で苦しい思いをすることも、実らない恋に思いを馳せて泣くことだってなかっただろう。

「……そんな顔をするのに」
 天の言葉はまるで、認めてしまえばいいのにと言っているようでもあった。どんな顔か自分では分からない。けれど、きれいな桃花色の中にうつる自分を取り繕うことはできない。
 天が陸の頬をそっとなぞるように手を添えた。どうしてかその優しい声で名前を呼ばれると泣きたいような気持ちに駆られてしまう。
 目の前の美しい人を恋という病で縛り付けてしまうことが苦しい。自分でなくとも、もっと幸せになれる相応しい相手はいるはずなのに――恋とはとてもこわいことだ。それをむざむざと突きつけられる。

「例え陸が病気でなかったとしても、ボクは陸を愛していたよ」
 天に腕を引かれそのまま抱きしめられる。この暖かい体温を何度渇望しただろう。
 自分のものなのに、心臓を差し出したかのようにまるで心を相手に操られているようだ。
 天の些細な仕草や言葉にだって感情があちこちに忙しなく動いてどうしようもない。天が好きだ、――その感情が自らを苦しめるものだとしても。


 あの日から天とは恋人という関係になった。陸が嫌なら無理強いをするつもりはないけれど、と切り出してきた天が少なからず自分との関係に変化を求めていることが陸にとっては驚くべきことだった。
 何かが急激に変わるわけではなかった。お互いに忙しくてオフの日が重なることは滅多にあることではなく、仕事のある日は終日レッスンや予定が埋まっている。寧ろ、そのほうが心の猶予的には安心できた。しかし、そうは思いつつも進展があまり訪れない関係にどこか落胆してしまう自分は正直だった。そのたびにどうしてがっかりするんだよ、とひとりでに恥ずかしくなることも少なくはなかった。ドラマや小説で読んだように手を繋いだり、キスをしたりするのかもしれない。知らず知らずのうちにそんなことを望んでいることに気づいたときは身体が沸騰するぐらい熱くなった。
 幼い頃ずっと一緒にいた天のことが確かに恋愛的な意味で好きだということの自覚があっても誰かに恋をすること自体陸は初めてだった。何も経験してきていない自分が恋、というものに対してあれこれと理想を抱くのはなんだか違うような気がしてむず痒い気持ちになった。

「こんにちは、七瀬さん。今日はよろしくお願いします」 
 現場で会う天は何も変わらなかった。完璧な笑みを張り付けて、他の事務所のセンターの九条天としてそこにいる。天と二人で組まれる仕事も少なくはなかったが二人きりでいたとしても仕事の現場で甘い雰囲気など一切漂わせることはない。以前のようにそれに寂しさを覚えても身体が寒さに震えることがないことがまだ救いだった。

「よろしくお願いします。九条さん」
 そこにアイドルとしての九条天しか存在しなくても自分はもう大丈夫なのだ。
 前のように寂しさを感じないように天との距離を図って考えて、恋の病にもう怯えなくてもいい。
 不思議だった。天を好きになった明白なきっかけを覚えているわけではないけれど、自らを卑下するわけではなく純粋に天がどうして自分を好きになってくれたのか考えてみてもわからなかったのだ。多くの人から好かれる天ならば、別に自分でなくとも他に良い人がいたかもしれないのに。兄弟だからという理由があったとしても、陸が最初諦めていたのはそういった理由にもあった。

「天にぃは、オレのこといつから好きだったの?」
 陸が問いかければ答えは決まっていた。困ったように笑い、天は必ず同じ言葉を言う。

「いつからだったかな、気づいたら好きになってたんだよ」
 その決まり切ったような常套句に自分だって明白な境界線を区別できないにも関わらず、恐らく何か心のどこかで飢えを感じていたのかもしれない。天が自分を好きだという、愛しているという証明がなければ、と。優しい兄ではなく、大勢の人々に愛を分け与えるアイドルではなく、自分を愛してくれるたった一人の九条天がいい。天には口が裂けてもそんなことは言えなかったけれど、じれったいほどの距離がもどかしくてどこか焦りを感じていた。
 一度だけ、天にキスがしたいと伝えてみたことがある。厳しいけど優しい天ならば、そうして恋人となった自分たちなら、とつい落ちていった願い事が天に拾われると信じていた。

「ボクらのペースでゆっくり進んでいくのがいいと思う。焦らなくていいよ」
 心の内に秘めていた焦燥が天には知られていた恥ずかしさと、そうじゃないのにと否定をしたくてもうまく伝えられる自信がなかった自分に陸は天に合わせそうだよね、といい子の姿を見せるほうを選んだ。恋人なんだし、口づけぐらい減るもんじゃないのに、と駄々をこねてもよかったのにそれ以上食い下がることを阻むような天の柔らかくて優しい笑みに陸は何も言えなかった。



「陸、大好きだよ」
 まるで夢を見ているようだ、そんなことを何度思っただろう。自分が見ていた夢が具現化してそのまま出てきたように思ってしまうのはこんなことは絶対にあるはずがないと思い込んでいたかもしれなかった。
 あの苦しい病の症状を乗り越えて、渇望していたものが今手元にあることが信じられないような心地にさせる。
 心地よくて安心する声で名前を呼ばれるたびに昔の記憶が脳裏に蘇る。昔より低くなった声はそれでもどこか安心させるような柔らかな音を持っている。仕事場で会う際にどれだけ他人でいたとしても二人きりでいる時の天はとびきり甘くて優しい。陸の他愛のない話に耳を傾けては丁寧に相槌を打ってくれる、それからと話の続きを促されるとこちらを見つめる天の視線につい視線を逸らしてしまう。優しい眼差しは昔と同じなのに、昔と同じではいられない。九条天は兄であり、恋人でもある。そのことが感じたことのない感情を連れてきて頬をあつくさせる。どうして今更、と思うがきっとそれは天のことが好きだからなのだろう。
 外でデートをすることは滅多にないけれど、天が昔のように優しくしてくれることが幸せだった。天にぃ、と呼ぶことを当たり前に許してくれて陸がおねだりをすればしょうがないね、と笑って聞いてくれる。どうしようもなく嬉しくて、この上ない幸福を覚えていた。
 天との距離は穏やかに、緩やかに、時折喧嘩をしながらも程よい場所をずっと保っていた。二人の間に恋人らしい進展はこれといって訪れない。つかず離れずの同じ場所に立ったままだったのだ。
 オフの日が重なればどちらかの部屋で過ごすこともあるし美味しい店を見つけて出かけることもある。いまだにテーマパーク等は天が少しだけ苦々しい顔をするためまだ行けてはいないが、いつかは一緒に行ってくれるかもしれない。天と陸の関係は言い方を変えてしまえば、恋人になってからもずっと平行線を辿り続けていた。手を繋ぐことはするけれどキスすら一度だってしたことがない。何度か期待をしたことはあるが、結局そういった雰囲気に一度もならなかった。意図的に天がそうならないようにしているのかもしれないが陸にそれを確かめる方法はない。そうして自分だけがそういったことを望んでしまっているのかもしれないと自分の浅はかさを恥じてはぐっと堪えた。いつなら、どのぐらい待てば、そう自分に言い聞かせるたびに寂しい気持ちになる。
 天は一体自分のことをどう思っているのだろう。そんなことを考えるたびに天の「好きだよ」という言葉に疑いをかけているようで苦しくなった。
 恋人として自分たちは付き合っているはずなのに、これでは兄弟でいた頃とあまり変わらない。置いて行かれた子供のような寂しさを覚えてしまうのは自分の我儘でしかないのに。天が以前と同じように自分の傍にいてくれる幸福以上に望むのはあまりにも欲張りな気がしてならなかった。

 天が主役を飾った映画の公開が近づいていた。
 時間がもしあれば一緒に見に行きたいと天にねだったが素直にうんと頷いてはくれなかった。仕事が忙しくて恐らく時間がとれないだろうから、という天は陸の気持ちは嬉しいがせっかくの二人の休日を自分の映画で消費してしまうのは勿体ないと困ったように笑った。陸は少しもそんなことを思わなかったけれど、天が自分と二人で過ごす時間を惜しんでくれているように感じられてそれなら仕方がない、と陸は結局一人で映画を見に行くことにした。IDOLiSH7の誰かを誘っても良かったが早く見たいという気持ちを抑えることのほうが難しかった。

「……楽しみだな」 
 手に持ったチケットを眺めてつい頬が緩む。座席は後ろのほうを選んだ、公開から数日しか経っていないこともあって客席はほぼ満席に近かった。
 本当は天にぃと一緒に見ることができたら良かったのに。そうは思いつつ、自分の恋愛映画がもし公開されたとして隣に天を座らせて見ることを考えて恥ずかしくて無理かもしれないと頭を振った。勿論、まだそういった話がまわってくることはないけれど。いつかは自分だって、と意気込むたびに果たしてうまく演じられるだろうかという不安は少し残ったままだった。
 恋愛ドラマや映画を天が演じることは数ある仕事の中でも左程多いわけではない。ミュージカルの出演等がキャリアを重ねていくごとに増えていく中、今回の恋愛映画も珍しいものだった。年齢を重ねても天使だと未だに言われる天は、年齢を重ねていけばいくほど美しくなっていく。そんな錯覚を見てしまうのは恐らく身内の贔屓目ではないはずだ。ライブで甘い言葉を囁き、女性ファンを虜にする天が恋愛ドラマに抜擢されたとなったとき世間は確かに浮足立っていた。陸もそれは同じだった。
 上映時間が近づいた間際、館内に入り席につくとざわざわと人の囁き声がきこえていた。すぐに館内が暗くなったためぴたりとざわめきは止み、静寂がゆっくりと劇場内を包み始める。天と恋人になる前、陸がまだうさぎ病を患っていた頃に天が主役の恋愛ドラマを見て体調を崩したことをふいに思い出した。またあんなことが起きたら、そんなことはあり得ないはずなのに自分でもどうしてそんな不安を抱いたのか分からなかった。
 思考を追いやるようにして振り払う。そうして漠然と、ここにいる人たちは天のファンなのだろうかと考えた。もしかすれば純粋に映画が気になって見に来ただけの人もいるかもしれないが、この中に天を思う人はどれだけいるだろう。
 幼い頃の陸の世界は殆ど天が作り出したといっても過言ではない。陸の知らないこと教えてくれたし、陸の知らない外の世界も天のほうがよく分かっていた。陸が外の世界に憧れを抱き、絵空事のような理想を述べても天は否定せずいつか一緒に行こうねと優しい笑みを湛えていた。陸は天の外の世界での様子を知ることはなかった。入退院を繰り返していたころは学校に行ける回数が少なく、院内学級に通っていたからだ。けれど、どうしてか天は多くの人から愛されているのだろうというということは知ったようなつもりでいた。
 やがて、それを確信に変えたのはアイドルの九条天という存在だった。
 かつて自分だけに向けられていたものが多くの人間に向けられていることに何とも言い難い気持ちを持っていたのを覚えている。天は最初から自分だけのものではなかったのに、街頭ビジョンを見上げながらTRIGGERのセンターとして花々しくデビューした天を見たときに感じていたものは自分に向けられていたものが失われてしまった寂しさだったのかそれとも子供じみた嫉妬だったのか、陸自身それは判断できかねた。

「……」
 上映前の映画の予告がいつの間にか終わっていた。
 天の演じる主人公とヒロインは同じ大学に通っている。天の演じる主人公は学内でもずば抜けた才能を持ち、その歌声とギターは周囲から一目置かれる存在となっている。バンドのボーカルとギターをつとめる主人公はその容姿からも目を惹き、学内でも高い人気を誇る。芸術大学で音楽科と国学科に通う二人が出会うのはヒロインが恩師の慈善活動として行う演奏会へ出演交渉しようとするところから始まる。
 ギターを鳴らし、歌を歌う天の姿に陸は思わずわぁ、と小さな息をこぼしていた。かっこいい。素直にそう思った、心臓の鼓動が早くなる。
 天がギターの練習をするところは一度も見なかった、それどころかこの映画の話が二人の間で引き合いに出されることすら少なかった。陸が楽しみだといったことに対して天がありがとう、と嬉しそうに微笑んだことは覚えているがそれだけだった。
 新鮮だったのは主人公の役が普段の天のイメージとは真逆だったことだ。王子と持て囃される容姿は正しいのかもしれないが、音楽以外に無関心で自信家。関心のない相手に好意を寄せられても迷惑だとあっさり切り捨てる。以前にも天はmechanical lullabyと星巡りの観測者という映画の中で一人称も普段とは異なった役を演じていたが、それらの役ともまた少し違う。けれど、違和感なくそれを演じてしまえるのはすごいと感服するしかなかった。
 ヒロインが依頼した演奏会の当日、主人公は妹の急病により病院に付き添うことになったため当日になって出演をキャンセルすることとなる。それまで冷たいイメージだった主人公の印象が柔らかくなったように感じられたのは彼がそこで初めて見せた人間らしさだった。身内のために切羽詰まった様子で駆けつける姿は意識せずとも陸が持つ過去とリンクしてしまう。陸は知らないうちに手のひらを強く握っていた。
 事情があったとはいえ、当日になっての出演キャンセルに事情を知らないヒロインが憤り、言い争いに発展する。演奏で対決するところまで発展した二人は結局主人公が勝ち、負けたヒロインは数週間使いっぱしりになることを言い渡される。素っ気なくて、偉そうな主人公に苛立ちながらもヒロインは次第に惹かれていく。けれど、主人公である天には他に想いを寄せる人物がいた。主人公が想いを寄せることに気づき、好きなのかと訊ねるヒロインを「関わらないで」と突っぱねる。
 思い人を切なそうに見つめる天の眼差しにきゅっと心臓がしめつけられる。あくまでもこれは映画であって天じゃない――分かっているのに、頭では理解できているはずなのに。
 最初こそ険悪な仲だった二人も、主人公が思い人にきっぱりとふられたことで踏ん切りをつけたのか雰囲気そのものが変化してゆく。そうしている間にも大学の周年記念公演が決まり、二人の距離は着実に縮まっていく。一度は主人公のことを諦める、と決断したヒロインの心を揺らしたのは他でもない主人公だった。二人きりで合宿の最中、星を眺めながら天が「もう一度好きになってほしいってお願いした」とヒロインに告げるシーンを陸は食い入るように見つめていた。
 想いが通じ合った二人はくちづけを交わす。ちり、と胸が焦げるような引っ掛かれたような痛みを感じたのはせめて恋人である以上許されたかった。

 ――恋とは、いったい何が正解なのだろう。恋と友情の境目は一体なんなのだろう。
 自然とそんな思考が浮かび上がっていた。休日に出かけることもするし、恋人になる前は殆ど陸が一方的に送っていたラビチャだって天のほうから送ってくることも珍しいことではなくなっていた。でも、それは別に恋人ではなくともできることかもしれない。そんなことを考えてしまった自分に嫌気がする。けれど、それでも考えずにはいられなかった。
 映画の中の天は最初こそ他人には一切無関心で、にこりとも笑わない役ではあるがヒロインを見つけると嬉しそうに少しだけ笑うようになる。ヒロインが壁にぶつかり落ち込んでいれば逃げるのなんてみっともない、と厳しい言葉をかけつつも優しさで補う。

「…………」
 自分が恋の病を患っていなかったとしても、天は今と同じように自分に同じ好きを返してくれるだろうか。
 映画の終盤、ヒロインに捧げる歌はバラード調でしっとりとした曲だった。大学卒業後、お互いの進路のため少しの間時間を空けて再会した恋人に送るために作った歌だった。
 エンドロールにさしかかり、陸はぼうっと暫くの間ただスクリーンを見つめていた。これまでにないような天の役が新鮮でかっこよかった。劇中で歌われる曲も素晴らしくて、ありきたりな言葉を使うならば良い映画だった。それなのに、その感動よりも勝る何かの感情が蜷局を巻いて居座っている。
 天は陸を好きでいてくれる。それはきっと事実であり、偽りではない。その愛が一体どれに該当するものか、天にしか分からないことだとしても。
 映画の中の二人は確かに恋をしていた。それにみっともなく嫉妬していたのだ。恋とはどちらも相手を求めて成立するものであり、陸も天に同じ感情を抱いている。けれど、きっと天は陸に何も求めない。求めていないのだ、映画を見ながら唐突にその事実に気づかされた。気づいてしまった。何かを求められればそれに応えることはあるが天から何かを求めるようなことは恐らくない。そのことになんとなく気づいて、察していながらも天が好きであるという事実だけが足元にしがみついていた。
自分が病に侵されてしまったから。自分が、弱い人間だったから。天は放ってはおけなかったのかもしれない。

「……オレ、は」
 恋で、間違っていないのだろうか。
 館内の冷房のせいか、身震いがするような冷たさを一瞬感じた。



「体調はどうですか」
 少し体温が低いかもしれませんが問題のない範囲ですね。モニターを見つめながら医師がそう言った。調子はいいと思います、呼吸も苦しくないです。と、陸は微笑んだ。

「好きな人とは順調ですか」
 最初こそ天との関係を赤裸々に話すようで、どことなく気恥ずかしさを覚えたものの診察のうちの一つだと言われれば受け入れるしかない。
 問いかけられた言葉に陸は順調です、と答える。嘘ではない、天との関係は良好だった。最近は喧嘩をした記憶もないし、週末には会う約束をしている。

「このまま安定した状態が続けば大丈夫でしょうね」
 医師が微笑む。そうですか、と相槌を打ちながら陸は訊くべきかどうか迷っていた質問を逡巡させる。顔を俯かせていた陸に医師が何か気になる点でもありましたか、と訊く。 
 顔をあげて陸は、ゆっくりと重たい口を躊躇いがちに開く。

「……もしも、の話なんですけど」
「……」
「次にオレが、うさぎ病にもう一度なったら、どうなるんですか……?」
 まるで自分自身が天との関係を否定しているようで、幾度なく訊ねようと思っては口を閉ざしてきた。経過観察ということで定期的に病院に今も通っているのはこの病の完治が人によっては差がある、という理由だった。元より治療法がない病であるため、症状が例え治ったように見えたとしても慎重にみていかなければならないという。

「だって、オレにもし次に同じ症状が起きたら好きな人がいても意味がないってことなんですよね」
「……」
 陸の言葉に医師は瞬きを何度かした後で、陸を見据える。

「それは、七瀬さんが今の状況でその可能性を考えているということで良いんですか」 
 医師の問いかけに思わず言葉を詰まらせる。そんな陸に「別に責めているわけではありません」と言った医師はひとつひとつ糸を解くように冷静に言葉を紡いでいく。

「好きな人がいる状態で、病を患うことは確かにおかしな話です。前提としてこの病は愛情の欠落によって引き起こされる。パートナーが傍にいても、病を再発するならそれは摩訶不思議な話です。好きな人がいても愛情が欠落してしまうなんて、それはもう誰にだって救えない話になります」
「……なら、」
「おかしな話なんですよ。結ばれて、病が治った患者が恋の病をもう一度患う事例は過去に一つもありません」
 え、と陸は思わず目を見開く。だって、と続けようとした陸の言葉は「再発した患者はいずれも好きになった人とやむを得ず別れてしまった人たちばかりです」と遮られる。やむを得ず、という言葉にどんな意味を孕んでいるのか、説明されなくてもなんとなく予想はできる。

「恋とは理屈では解明できるものではない。人間の心拍数や脳派、そういったものは数値化できても誰が人生で誰と恋に落ちて結ばれるかなんてことまでは解明できない。確かに医学で解明できないことや、難病と呼ばれるものは世の中に存在している。治せないものだってある、医者は神様ではないという常套句通り、神様でなければ万物を救うことはできない」
「……」
「でも、神様じゃなくたって救えるものはこの世に存在する。理屈で解明できなくても恋の病は人の心との結びつきです。好きな人と結ばれたのに、それ以上の愛を求める人間なんて存在しないでしょう」
 好きな人と結ばれたのに、愛情の欠落を引き起こすなんて確かにおかしな話だ。それ以上誰に愛を求めるというのだろう。医師の話を聞きながら陸は、そうじゃないのにと否定したくなるのをぐっと堪えた。

 ――もし、この恋が本物でないとしたら。愛や恋の類ではないものだとすれば、一体どうなってしまうのだろう。
最初に恋のやまいだと診断された際に、愛情を貰うのであればそれは友愛や家族愛の類のものではダメだときっぱり告げられている。

「……難しいです、」
 そっと陸は小さな声で吐き出す。
「好きな人が傍にいてくれるのに、それが今でもちょっとだけ苦しいんです」



 読書をする姿は絵になるなあ、と率直な感想を抱く。口うるさいところはあっても、口を閉ざしている限りは素直に綺麗な青年だと思う。
 まさか恋の病の定期健診だと伝えるわけにもいかないため、一織には病院内にあるカフェで待ってもらうよう伝えた。さすがに患者でもないのに待合室にいるのは居心地悪いだろ、と言った陸に何かを言いたげな顔をしつつも一織は従った。
 病院での携帯の使用はなるべく控えたほうがいいに越したことはないが待合室等では携帯を眺めている人間も少なくない。ましてやここは院内備えつけのカフェであり、さほど配慮する必要はない。彼の性格から考えるに、きっと携帯ゲーム等で暇を潰すということはあまり習慣づいていないのだろう。
 一織らしいな、と陸は小さく笑った。

「待たせちゃったよな。ごめんな一織」
 陸が声をかけると一織が本を閉じて顔をあげる。それからいえ、と緩く首をふったあと「どうでしたか」と訊ねる。
 二人での仕事が終わった後一織が陸の病院に付き添うことになった。大人が付き添っていなければ病院に行けないほどもう子供ではない、けれどどうしてかIDOLiSH7の中では時間のあるメンバーが自然と付き添うことが暗黙のルールのようになっていた。別に大丈夫だよ、と陸が言えばまだ甘えられるうちは甘えておくほうが得だぞ、と返されたことがある。以来、メンバーの好意には素直に甘えるようにしている。本音を言ってしまえば、病院という場所に誰かに同行してもらえるのは有難かった。この場所で染みついたさまざまなものがいまだに離れずにいるため誰かがいてくれたほうが、気がまぎれるのは確かだからだ。

「いつも通りだったよ。最近は調子も良いから、大きな発作が起きてないのはいいことですねって」
 一織が座っていたカウンター席の隣に腰をおろす。オレも何か飲んでいい? と訊けばどうぞ、と一織が返す。一織が飲んでいたコーヒーのカップは空になっていた。一織も何か飲むなら奢ってあげるよ、と陸が言えば一織は結構です、と断った。

「可愛くないなあ。特別にオレが奢ってあげるって言ってるのに。年下なんだからそういうのは素直に甘えておくのがいいんだぞ」
「たかが飲み物一杯で威張らないでくださいよ。なら、今度お願いします」
 今度、と添えられた言葉に陸はつい頬を緩める。なんだかんだいいつつ一織が心配してくれていることは分かってしまう。本から目を離した一織が陸に診察結果を訊ねた際の少しだけ瞳が不安そうにゆれていた。そういった人間を何人も、何回も、繰り返し見てきた。だからこそ、意識せずとも自然と気づいてしまう。
 メニュー表を眺め、近くにいた店員に「りんごジュースお願いします」とオーダーを伝える。

「何読んでたの? そういえば一織ってお伽話とか読んでた?」
 すでに一織が鞄にしまい込んでしまった小説は一体なんだったのだろう。そのあとに続けた質問は殆ど思いつきのようなものだった。陸が訊けば、「最近映画化した小説です」と簡潔に答える。けれど、そういう返事を求めていたわけではない。そういうことじゃなくてさ、と口を開こうとした陸より先に一織が「お伽話ぐらい誰だって読んだことはあるでしょう」と続ける。質問は一つずつにしてください、と小言を添えて。 

「あなたは好きそうですね。お伽話とかそういったものが」
「そうかな?」
「ええ、ハッピーエンドを好みそうです。皆仲良く幸せに、誰も不幸にならない。めでたいですね」
「なんだよその言い方、なんか馬鹿にされてるような気がするんだけど」
 大体オレ、そういう話以外だって読むからな。
 陸がむっとして言い返せば一織は知ってます、と答えた。SFやミステリー、サスペンス、基本ジャンルに拘らず広く読む。身体を動かさずにできることが読書だったということもあるが陸の趣味であることを言うと驚かれることは珍しいことではない。

「……まあ、昔はよく読んでもらってたんだけど」
「九条さんにですか」
「オレ途中で寝ちゃって最後を知らない話もあったりしたんだけど、たぶん最後はハッピーエンドで終わってた」
 天に読んで貰った話の結末は大抵幸せな終わりだった。どんなことがあっても、王子さまはお姫様と結ばれ周りの人間も幸せに暮らす。皆が最終的に笑顔でいる様子が絵本には描かれていた。

「あ。でも、ハッピーエンドじゃないお話もあったかも」
 記憶を手繰り寄せ、ふっと浮かんだのは有名な話のひとつである人魚姫だった。
 お伽話の中でも有名な人魚姫は王子様のために人間となった人魚姫は泡となって消えてしまう。王子様からの愛を貰えず、王子を殺して生き延びるかどうするかの瀬戸際に立たされた彼女は愛しい人のために自らの命を絶った。王子は結局隣国の姫と婚姻を結ぶことになり、人魚姫の想いが報われることは一つとしてなかった。まだ幼い頃絵本を読んだ際は子供向けに作られていたせいか、人魚姫が泡になって消えてしまうことを左程悲観して考えることはなかったように思える。けれど、今になってみればあれはどうしようもなく悲しいお話だ。
 愛を貰えなければ泡になってしまうなんて、まさにうさぎ病のようだと陸は自嘲する。

「人魚姫って最後泡になって消えちゃうだろ?」
「そうですね」
「……自分の命と、他の誰かの命って選べるもんじゃないし比べられるものでもないよな」
 魔女に美しい歌声を代償として支払い、歩くたびにガラスが皮膚を裂くような痛みを伴い、声を失ったために王子に何一つ真実を伝えることも叶わなかった。それなのに人魚姫は王子の命と自らの命を天秤にかけたとき、王子が生きるほうを選んだ。
 店員がグラスを一つ運んでやってくる。ごゆっくりどうぞ、という声を聞きながら陸はグラスの中の気泡を眺めた。氷に張り付いた僅かな泡もやがて消えてしまう。この気泡のように、いずれ消えてしまう運命を辿ることを選んだ彼女はどれだけ報われなくとも、人生で見つけたたった一つの恋のために全てを捧げた。

「…………天にぃはオレのこと大事にしてくれるんだ」
「は? 人魚姫の話をしてるかと思ったら突然九条さんの話ですか?」
 一織があからさまに顔を顰める。ブラコン、と小さく聞こえた声に「なんだよ、お前もだろ」と反論する。

「天にぃは、……オレの命を大切にしてくれるんだ」
 陸の落とした言葉に一織が口を噤んだ。
 以前発作が起きたふりの演技をしてみせた際、酷く焦燥していた天がのちに演技だと知って憤り頬を叩いたことがある。陸の病で両親がどれだけ悲しい思いをしてきたか、そう激昂し声を荒げる天は陸から見ても分かるほどに取り乱していた。家族だったことに対して否定的なことを言うことは少なくなってはいたが、いまだに天が家族だった七瀬に抱える蟠りは簡単には消えてなくならない。だから、あそこで両親のことが天の口から出てきたことが陸にとっては不意をつかれた衝撃だった。
 幼い頃の兄弟喧嘩は滅多になかった、ましてや天が陸に手を出すことも一度だってなかった。それは一重に陸が天よりも弱かったせいかもしれないが。
 双子として生まれた天に大切に守られていた自覚はある。天が自分の命をまた大事にしてくれていることも。それは陸の自惚れではなく事実だった。天が自分を好きでいようが嫌っていようがどちらであろうと恐らく九条天という人物は七瀬陸の双子として、兄として生まれ、そうして偶然にも弟の身体が弱かった時点でそうなるようにできていたのだ。生まれたときから自然と人間に組み込まれる遺伝子と似たようなものであり、一般の人々がある程度持ち合わせている良心があればそれはきっと備わってしまうものなのだ。
 自分のせいでどれだけ周りの人がどれだけ涙を流してきたか、見えない部分も知らないことだってある。けれど、昔とは違って自分は丈夫になった。走れないことも外に出られないだなんてこともない。それでもなお天は今でも変わらず自分の命についてはあんな風に必死になって声をあげて感情を揺らすことができる。そのことが嬉しいのに、けれどそうではない感情が胸を食うのも事実だ。
 発作で倒れた幼い頃、目をあけるたびにあの美しい顔が涙を溜めているのをみるたびに胸が苦しくて天を悲しませてしまうことが辛くてたまらなかった。

「選べるものじゃないって分かってるんだ。分かってるんだけどでも声を失っても、立つことすらままならなくなっても、天にぃが例えばオレ以外の家族と幸せになったりしても……オレ、天にぃと自分の命どっちを選びますかって言われたら」
 一織の表情は険しいものに変わっていた。もしかすれば陸の言いたいことを察していたのかもしれない。一織が聡いのか、それとも陸が分かりやすいのか。
 人間の命は重い。それは陸が道徳的に身に着けるより先に、生まれたときから自分の周囲の人間の様子を見ていて理解したものだった。決して自分の命を軽んじているわけではない。発作が起きて喋ることすらままならなくなって蹲ると誰かの震える声が聞こえていた。自分の掌を握って祈りを捧げるように瞳をぎゅっと閉じる両親や天を見ていた。そんな人々を見ていると、自分の命が誰かにとっては自分が思うよりもずっと重みのあるものだということを知る。
 このまま死んでしまうかもしれない、と陸が諦めそうになっても両親や天は諦めなかった。それはまるで陸一人の命を共有しているようだった。

「天にぃのためなら、いいかもって思えるんだ」
 吐き出した言葉は枯れた葉がやがて地面に落ちていくように自然と落ちたものだった。
 天が陸の命を大事に、大切に守ってくれたからどちらか選ばなければならなくなったとき自らの命を下にするわけではない。蓄積された恩を返すのではなく、純粋に天のためなら、と思えるのだ。
 悲劇の恋として取り上げられる人魚姫も、泡になってしまった人魚姫の視点が描かれていたとすれば何かが違うかもしれない。周囲からすれば哀れで可哀そうなお姫様もハッピーエンドに辿りつくかもしれない。  

「七瀬さん、」
 一織が鋭い視線を向ける。呆れているような、それでいてどこか怒気を孕んだ瞳に陸は思わずたじろぐ。

「それ、九条さんの前で嘘でも言わないことですよ」
 誰かを救うために命を代償にするのはお伽話だけです。
 一織の言葉に瞬きを繰り返したあと、陸はふっと笑った。それに対して何がおかしいんですか、と一織が不満そうに言う。何かがおかしかったわけではないけれど、予想もしていなかった返答だった。確かにそうだなあと納得する。
 何かを救うために命を代償にするのはお伽話の世界だけでいい。所詮ただの作り話だと笑って終わってしまえる話ならどんなに良かっただろう。



 天が陸に読んでくれる絵本は殆どの結末がハッピーエンドだった。
 醜い姿に姿を変えられた王子様も、毒林檎で眠ってしまったお姫様だって、最後は好きな人と結ばれて幸せな結末を迎える。天が読んでくれる話は天の心地の良い声にもあるかもしれないが、現実の世界と結びつくものでなくそれが例え誰かの作りもの世界だとしても外の世界を知らない陸の胸を躍らせた。

「なんで、やじゅうは元に戻ったの?」
 天は陸の知らないことをなんだって知っていた。
 分からないことがあれば天に訊いた、陸が訊くと天は優しく微笑んで時折悩む素振りを見せつつも大抵のことは答えを返してくれる。
 天に読んでもらったその日の絵本は醜い姿に変えられた野獣が、最後は元の姿に戻り恋をした一人の娘と結ばれるという話だった。それまでどんなことを試みても元に戻ることができなかった野獣が物語の最後には本来の美丈夫な姿を取り戻す。陸にはそれがどうしてか分からなかった。天は聞かれたことに対し一瞬驚いたように目を見開き、それから困ったように笑う。

「女の子が怖い姿になっても、王子様のことを好きだったからじゃないかな」
「……好きだから?」
「そう。この女の子は、王子様のことを本当に愛してたんだ」
 幼いながらに、きっと陸が理解できるようにと言葉を選んだ結果だったのだろう。それでも陸にはまだ分からなかった。本当に愛していたから、愛と物語の結末が結びつくことが不思議だった。

「毒林檎を食べた白雪姫もね、王子様がキスをして目を覚ますでしょう」
「うん」
「おんなじだよ。王子様が本当に白雪姫のことを愛していたから白雪姫はもう一度目をあけたんだよ。自分を愛してくれる人がそこにいたから」
 天の言葉を聞きながら、陸はその言葉を自分の中でのみこもうと必死だった。
 愛してくれる人がそこにいたから、目を開ける。童話の中の王子様はまるで天のようだった。どんなに悲しい気分でも、楽しい気持ちにさせてくれる魔法を持っている。分からないことでも、自分たちに当てはめるといとも容易く溶け込んでくる。

「愛してくれる人がいるから、目をあけるの? すきなひとがいるから、王子様になれるの?」
 陸の言葉に天はそうだよ、と優しい微笑みを浮かべて頷いた。陸の耳元に顔を寄せる。特別な魔法を吹き込むように、宝物を授けるように天がゆっくりと口を開く。

「だって、愛してる人が待ってくれてるんだ。自分の居場所がそこにあるんだもの」
 だから、皆しあわせなんだ。それはね、陸。

「真実の愛っていうんだよ」
 女の子が王子様を思う気持ちが、王子様が白雪姫を思う気持ちがハッピーエンドにしたんだよ。天の言葉に陸はそうなんだあ、と感嘆の息をこぼしてから天を見つめる。じゃあ陸も、と言った陸に天が不思議そうな表情を浮かべる。

「陸も天にぃのこと大好きだから」
 陸の主張したいことが分かったのか天は嬉しそうに瞳を細めて笑った。

「そうだね、ボクも大好きだよ陸」
 ボクと陸の愛だって本物だよね。
 それは、陸にとって特別な言葉のように聞こえた。それまで言葉をなぞるだけの理解が唐突に体中に浸透していくような心地を覚えていた。その頃すでに自らの病が永遠に治らないものであることを知りながらも、その甘美な響きが新鮮でやけに魅力的なように思えたのだ。
 天と自分の間にある愛は、紛れもなく本物なのだ。自分はどれだけ苦しくても天のおかげで、天のために目を開けられるのかもしれない。子供らしく、そんなおとぎ話のような夢物語を描いていた。
 物語の中のお姫様と王子様のように結ばれるような関係ではないけれど、陸にとっての天はまさしく物語の中の王子様のようだった。誰かを幸福にできること、それは陸からすれば簡単に手の届かない虚像のようなものでもある。だからこそ、陸にとっての天は全てを備え、ハッピーエンドに導く王子様だったのだ。







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