幸せだけの愛を
「――ボクが陸に厳しくしてるのは仕事の同業者だからだ、もう家族じゃなくてボクらはライバルなんだ。間違えないことだよ」
天に言われたことが頭の中で螺旋のように渦巻き、繰り返し再生される。そんなのは、わかりきっていることだったがあんなにも天を怒らせるとは思っていなかった。
陸の優しくしてほしい、という懇願を天はどうやら今の同業者としての冷たい態度への不満を募らせ、家族として接してもらえないことへの我儘だと解釈したらしい。こんなときに昔と同じように我儘だと捉えられ子供扱いされることも悔しかったけれど、天に誤解をさせてしまったことが悲しかった。もっと段階を踏んで説明をしていれば何かが変わっただろうか。少なくとも陸が死んでしまうのだと伝える直前の天は心の底から心配している様子を見せていた。
冷え切った視線は思い出すだけで背中が冷たくなる。そのあとの撮影はもちろん地獄に近かった。悪寒が止まらず、天と一緒であることが余計に体調を悪化させるが天を怒らせた手前仕事で下手なミスはできない。なんとか我慢してやり切ったものの、うっかり口を滑らせた自分を陸は恨んだ。
洗面台の鏡に写った自分の顔が随分と酷いものになっていた。冷え切った指先でうっすらと色づいた瞳のまわりをなぞる、心なしか赤みが増して悪化しているような気がした。まるで本当に泣いているようだと心の中で自嘲する。
好きな人に愛情をもらえなければ死んでしまう。
そんなのはあり得ないと思っていたが実際に患ってみると薬を飲んでゆっくり休めば治ってしまうような風邪やそういったものとは訳が違う。どれぐらいの速度で進行するかは人それぞれらしいが明らかに自分の病が進行していくのを陸は感じ取っていた。寝つきが悪いのは布団に包まれていても身体の内側から襲う刺すような冷たさが邪魔をするからだ、苺を食べても補えなくなってきた身体の変化にこのまま本当に動物に生まれ変わってしまったほうがどれだけいいだろうと思ったぐらいだ。
「……どうしよう」
恋が絡んでいることは伏せて病であることの理由を説明すれば恐らく天はどうにか助けてくれるかもしれない。一度はそんなことを考えてみたけれどあの時の反応を見るに天からの好意をもらうのは無理だろうと判断した。もらえたとしてもそれは兄弟として残された愛情の類で、決してそれが恋にならないことは明白だった。
助かるという道は絶望的に閉ざされている。
本当のことを話せば、と考えてみても同情で相手の恋心を買うのは卑怯者の使う手段だ。そんなことをしてしまった暁には陸は自分のことを二度と許してやれないような気がした。けれど、愛情がなければ死んでしまうというのは伝えてしまった。あれを本気と捉えてもらわなくて寧ろ正解だったと喜ぶべきだ。
鏡に写る自分の顔は青白くなっているせいか、普段よりも九条天に近い姿を映し出す。二卵性で生まれたためあまり似てはいないはずなのに、天のことを考えているときは双子であることが余計に意識の中に天の存在を色濃く残してゆく。ぼうっと暫く見つめながらどうして好きになってしまったのが自分の兄だったのだろうと陸はしばらく思案した。けれど、考えるまでもなく結論は簡単に出てしまう。他の誰かと比べるまでもなく陸は天だけのことが好きだった。優しくて、何でもできて、かっこよくて、自分のためにどんな夢だって作り出してくれた。
代わりなどは考えられない――天が好きになってくれなければこの病の行き着く先は恐ろしいものだとしても。
満足のゆくまで歌って死ねたらいい、長生きするよりも自分の生きたいように人生を全うして死にたい。人より長く生きることにもとより強い執着があるわけではないがまだやりたいことはたくさんあるのに、という病に対する理不尽さに胸が苦しくて泣きたくなる夜が訪れるのも珍しいことではなくなっていた。それはどこか幼い頃の経験に似ているような気がした。
「でも、天にぃなら――」
――この病気で死ぬってことは、一番愛してる人に殺されるも同然なんですよ。
一番愛している人に殺されるなら、まだ後悔はそれほど残らないかもしれない。
こんな時、ふいに過るのは幼少期の天の手を離した瞬間のことだった。あの時に天は自分のためにすべてを捨てたのだ、本人からそれを直接聞くことがないのは恐らく陸が責任を感じることのないようにというどこまでも優しい兄の配慮だろう。問い詰めても、きっと天がそれを陸に伝える日はこない。心配性で優しくて、まるで本当の天使のようだった。天がなんでもできたおかげで何かの一番になれることがなくても、陸のことを天は自らの一番にしてくれた。誰よりも自分のことを愛してくれて大切にしてくれていた、それにたとえ身体が弱かったからという理由が付随していても自惚れではなかったと陸は信じたかった。
「……」
こびりついた思考を振り払うように、陸はかぶりを振る。鏡の自分はやはりどこまでも、情けない顔をしていた。
「つめたっ」
反射的に手をひっこめた相手に対し陸は「ごめん」と謝った。内心ではひやり、としたが「こおりみてえ」と体温に対しての不可解な疑問を気にするわけではなくただ単純にその冷たさに環が驚いているようであったため陸は小さく安堵の息をこぼした。
寮に環と陸のみ残っているのは珍しいことだった。仕事で出払っているメンバーもいれば私用で外に出かけているメンバーもいる。偶然にも寮に残ったのが環と陸だった。普段であればどこかに出かけよう、と言い出す環も冷蔵庫に王様プリンがまだ残っていたことで外に出る用事がなくなったのかトランプしようぜと陸に寮に残ってできる遊びを持ち掛けた。
ババ抜きは二人でやるにはつまらない、大富豪はいまいちルールを把握していない、という理由から七並べをすることにした。出したいカードがなければ相手が持っている、という具合で互いの持ち札がすぐにわかってしまうためすぐに飽きるだろうと思われたが環が数字の二が描かれたトランプを出したところで「これはヤマさん、」から始まり陸の知らないエピソードを語り始めた。そこからなんとなくそういうルールができてしまい、メンバーの知らない話や仕事場での話を語ることで二人だけでもそれなりに盛り上がっていた。
「りっくん、めちゃくちゃ手つめてーな。朝、アイスでもくった?」
「おなか壊すから朝からアイスはダメって前に言われただろ、食べてないよ」
発想が環らしく、陸はくすくすと思わず笑った。
あまりにも熱い日があったため朝ごはんも食べずにアイスを食べようとしたところ三月に朝ごはんを食べてから、と以前叱られたことがある。夏バテを防ぐためにもアイスだけじゃなくご飯をしっかり食べなければ、という三月の正論に陸はその通りだと反省したのをよく覚えている。
「最近寒そうだよなりっくん。風邪でもひいた?」
こういうのなんか前にも言った気がすんな。
トランプを並べていた手を完全に止めて、環が心配そうに首をかしげてそう訊いた。一緒に仕事をしていてなおかつ同じ屋根の下で暮らしているため誤魔化すことが難しいのは陸自身も理解していたが夏が近づけば近づくほどに陸が寒さに震えるのは不自然に浮き出る。治療法も何もない病にかかっているのだと環に伝えれば悲しそうに顔をぐしゃぐしゃにして、どうにか助かる方法を探そうと必死になるだろう。母親を病気で亡くした過去を持つ環のトラウマを掘り起こすようなことはしたくなかった、気に入らないことに対して素直に感情をむき出しにするけれどそれは優しさゆえのことであることを知っている。陸は環の人を気遣うことのできる優しいところが好きだった。その優しさで妙な気を遣わせたところで、現状どうすることもできないとわかれば殊更悲しんでしまうだろう。
「風邪じゃないよ、元気だし!」
発作も最近出てないからさ、と付け足し陸は言いながらスペードの八の隣に九を並べた。
環は「でもさ」と口を開き、それから比べるように自らの顔を指差しすると「顔色もよくねえじゃん」と言った。そうかな、と曖昧に笑ったものの言い淀み、言葉を外に出すのをためらった。確かに体調自体は相変わらず思わしくない状態ではあるものの、天との関係が悪化しないようにと良好な関係でいられるようにと気を付けているつもりではいるのだ。現状、陸にできることはそれ以上他に何もなかった。
「りっくん最近そーちゃんみてえ」
「壮五さん?」
「へろへろなんだよ、折れそう」
「ひどいな、壮五さんに言いつけるぞ!」
言いながらも笑いが止まらなかった、へろへろという単語に合わせて環が変な顔をしてみせたからだ。環は手に持っていたトランプのうちの一枚をすでに七の隣に並んでいる八の上に重ねた。一体何を、と陸が見るとそれはダイヤの四だった。
「りっくんの隣に俺が並んでやる、がっくんより俺つえーから」
「なにそれ環天才じゃん!」
もはや七並べのルールを無視したものになっていたがすごい、と陸が笑うと環は得意げにふふんと鼻をならした。それから隣にあった九を手にとると今度は六の上に重ねた。
「ナギっちならたぶん譲ってくれるぜ。特別サービスで隣にてんてんも並べてやるな」
七の隣に九を並べた環に陸はありがとう、と笑おうとして途端に身体が冷えていくのを感じた。
咄嗟に頭の中できっとこんな風に並ぶことはないだろう、と考えたのがいけなかった。刺すような、体の芯まで凍らせるような痛みに陸は思わずその場に蹲る。痛みで体の力がぬけてしまい、並べていたトランプを避けることができなかったため陸の下でカードがばらばらになる。
「り、りっくん! 突然どうしたんだよ、なあ!」
大丈夫かと大きな声で陸の身体を支える環に大丈夫だと、うまく伝えることができない。眉根を寄せ、唇をかみしめてこらえるものの引きそうにはない痛みにいっそこのまま気を失ってしまいたいと思った。痛い、痛い、苦しい。子供のように声を上げてしまいたくなる。引き止めているのはここに環がいるという理性だった。
天とある程度の距離感を保ち接していれば天と一緒に仕事をしていても耐えがたいほどの寒さに蝕まれることはない。それでも最悪死に至る病気であることは変わりなく、ゆっくりとではあるが確実に病は悪化していた。突然起きる発作のような症状がもはや寒い、という感覚を通り過ぎ痛みに変わっているのだ。恐らくそれは凍傷と似たようなものなのだろう、表面にあらわれることはないが身の内側が本当に傷つけられているのではないかと錯覚を起こす。
額に汗がにじみ、やがて意識が朦朧とする。誰かの前で倒れることだけは避けたかった。けれども思うように身体に力を入れられない。
「りっくん、救急車いまよぶからな! 死なないでくれよ、なあ……!」
環の泣きそうな声が聞こえた。大丈夫だから、そう返そうとした陸は環を見やる。視界に環をうつし、口を開こうとしたところで不可解な現象に襲われる。
陸は先ほどまでの痛みがすっと引いていくのを感じた、自分でも驚くほどにそれは突然だった。
「あ、あれ……」
先ほどまでは痛みに自分の身体を支えていられないような状態だったはずなのに。
身体を起こし呆然とする陸に環は手に持っていた携帯もそのままに陸と同じように口を開いたまま固まっていた。
「な、なんで……」
「り、りっくん大丈夫なのか……? さ、さっきまで、すげえ苦しそうだったじゃん。まだ苦しいなら、絶対病院行こうぜ…! そのほうがいいだろ」
蹲っていた陸が突然起き上がったことで驚いていた環がはっとしたように意識を引き戻すと陸の肩をそっと掴み泣きそうな顔で詰め寄った。
「わかんない、でもさっきまで苦しかったのは本当なんだけど……」
なんなんだろう、と陸が言えば「なんなんだろうじゃねえよ」と環が今度は蹲るようにして崩れ落ちた。
「びっくりしたじゃんかもう! 俺の寿命返せよな!」
「ご、ごめん」
「まじびびる……でも、りっくんが元気でよかった」
よかった、と散らばったトランプの上で顔を隠す環の声は心なしか震えていた。それに対し申し訳なさを覚えつつ陸は環に「ごめんな」と謝る。すぐに環はべつに、とそっけなく返したもののそのあとに「ゆるす」と付け加えた。
急な痛みがきたかと思えばすぐに収まる、医者にきいても症状は人それぞれに差があると言われていたため陸は今一つ自分が患っている病のことをつかめないままでいた。天のことを考えていても症状が起こらないときは何もない。けれども今のようにごく稀に痛みが襲ってくることもある。何を基準にしているのかわからないがそれを調べてみる気にはもちろんならない。身体に走る痛みは日に日に耐え難いほどのものに変わっていく。
てのひらをこすりあわせてみるが依然として冷たいままだった、前と変わったことと言えばそれは寒さがこうして体温にも直接的に影響してくるようになったことだった。体温の変化は死に近づいているという錯覚を見せる。どうなってしまうのだろう、このまま身体が冷たくなって体温がどんどんさがってしまうと本当に――、
「りっくん、」
呼ばれた声に引き戻される。見れば環がいつの間にか心配そうに陸をのぞきこんでいた。
「王様プリン、くう?」
それは環なりの励まし方だと知っていた、先ほどまで立ち込めていた不安が一瞬にして霧散していく。口元はおそらく引きつっていたに違いないが陸は笑って頷いた。
今日を乗り切ればきっとなんとかなる。自己暗示として自分に言い聞かせてきたがその今日という日に限って陸の体調は最悪だった。朝から浅い呼吸しかできないような苦しさがある上に天がそばにいなくとも寒い、と感じてしまう。
昨夜、九条天が主演の恋愛ドラマを見ていたのがいけないのだろうな、というのはなんとなくわかっていた。自ら傷を抉るような行為をしてしまったが一人のファンとして作品を見たい、という欲に抗うことはできなかった。作中のヒロインと九条天が演じていた主人公は見事昨日の回で結ばれていた。それがたとえ演技で、ドラマだと知っていても愛情を向けられない自分とヒロインを勝手に比べてしまったのだ。
天と主演に選ばれた映画の撮影が今日で終わりを迎える。関係はいたって平行線を辿ったままではあったがうっかり愛情がなければしんでしまう、と口にしたあの日よりは随分とましにはなっていた。
苺のお菓子類は食べてもあまり効果がなくなってきた。体温もここ最近ずいぶんとさがっていることはわかっていた、今日が終わればと言い聞かせてはきたが今日が終わってしまった後これから先いよいよどうなってしまうかわからない。ダメ元で天に好きだ、ということを伝えてみようかというのは数回検討していみたが拒絶された場合のショックが計り知れないだろうと思うと踏み出せなかった。自らの保身ばかりを考えている自分に情けない気持ちでいっぱいになるが、できれば嫌われたくないというのは恋心にも関連することだ。拒絶されたまま今以上に冷たい態度をとられてはきっと寿命だってあっという間に縮んでしまう。
――どうするおつもりですか。
定期健診として訪れた際に医者がそう言っていた。それはそのまま死ぬのか、と陸に問いかけているのと同じだった。
テーブルにごつり、と頭をうちつけ陸は瞳をゆっくりと閉じた。どするつもりか、そんなのは自分が誰かに訊ねたいぐらいだ。一番効く治療法が使えなくて、家族でもなんでもない自分ではもう昔のように九条天からの愛情を貰い受けることはできない。
なるべく天の機嫌を悪くしないようにきちんと九条さんと呼ぶことを心掛け、人目がある場所では接触を断ち切った。それが病に対していいことなど一つもなかったとしても、悪化させるよりはと陸が選んだ最良の手段だった。
――違う方法ではいけませんか。
医者の提示した別の方法を陸は受け入れられなかった。
同情で相手の気を引き、それがやがて成就し、結果的に助かったという事例がいくつかあるらしかった。君はアイドルだから、と口を開きかけて閉じた医師もそれを告げるのは本意ではなかったのかもしれない。やはりそんな方法でしか助からないのか、と誰かもわからない人間に対して少しだけ寂しさを覚えた。それはそれで幸せなのかもしれないが。そんなことで実るような恋であればどれだけよかっただろう、とうらやましく思った。
陸の恋はあまりにも不毛だった、天の気を惹こうと努力しても無意味で歩み寄ろうと何か行動することだってできやしない。九条天はアイドルで、七瀬陸もアイドルだ。その上、二人には血の繋がりがある。
「……さむい」
肩にかけていたブランケットを強く握る。初夏が訪れ夏も本番に近づくというのに身体はいつまでも冷え切っていた。もはや体温調整ができなくなって、このまま壊れてしまうのではないかと思い始めるようになった。すでに、自分は壊れているのかもしれないけれど。
生きたい、死にたくない。けれども愛情がなくては生きられない。
「……さむい、さびしい」
一番愛している人に殺される病気だと知ってから、それならば仕方がないとあきらめがつくと思っていた。
酷薄で無慈悲な病気だ。好きな人への感情を持て余したまま成就することのない恋が胸を燻り続け、結局叶うことなく死んでしまう――――これは、恋心も一緒に殺してしまう病なのだ。
◇◇
てのひらを強く握りしめたまま離してはくれなかった。
いつ、どこで、と考えるまでもなく撮影を終えて花束をもらってから共演者と握手してまわった際に気づいたのだろう。
映画の撮影が終わり、打ち上げが撮影していたスタジオからさほど遠くないホテルで行われることになった。ひとまずクランクアップ祝いを兼ねて、と急遽決められたもので出演者やスタッフを合わせ五十人に満たない程度の参加でささやかなものだった。座席は自由だったため知り合った共演者の隣に座った陸は天が同じ空間にいることもあって早めに帰ろうと思っていたのだ。みんなが料理に舌鼓をうち、会話に花を咲かせている中、お酒を注いでまわり役目は果たしたとこっそりと会場を抜け出した。すでに酔いがまわっている姿は見受けられていたので大丈夫だろうと踏んでのことだったがやはり主役が早々に退散する申し訳なさはあった。
フロントにいた人に頭をさげて挨拶をしてから外に出たとき、背後から足音が聞こえた。自分と同じく帰る人がいたんだ、と後ろを振り返り陸は目を剥いた。
「て、……九条さん」
もしかして、追いかけてきてくれたのだろうかと一瞬考えたもののそれは都合がよすぎると打ち消した。天も早めに帰ろうと思っていたのかもしれない、陸は微笑みながら「九条さんも帰るんですか」と訊いた。天は答えずに陸の手をとると、強くにぎった。
「えっ」
突然のことに驚くが、天はそのまま手を引くとホテルの入口から少し離れた場所へと陸の手を引いたまま歩いた。
早めに抜け出してきたといってもすでに夜が近づきあたりは暗くなっていたため街灯だけが照らす夜道を天は迷うことなく歩いて、ホテルの駐車場付近にある噴水の前で足を止めた。それほど大きなものではなく立派でもなかったが水面に光が泳いでいて美しかった。
「いつからこんなに冷たいの」
唐突に投げかけられ、息をのむ。
主語がなくとも天の言いたいことはなんとなくわかってしまう。握られた手が離されることはなかった、陸は水音が絶えず聞こえるほうへ視線を移し「最近、冷え性なんだ」と言った。噴き上がり、落ちてゆく水はやがて下で水とぶつかり輪郭を消していなくなる。あんな風にすべてなかったことにはならないだろうか。容易い言葉では誤魔化されてくれるような相手ではないことはわかっていたがふさわしい言葉が見つからなかった。
「どこか体調が悪いの、帰るならボクが送っていく」
「タクシーに乗っていくだけだし、そんな子供じゃないよ」
「今日もずっと具合が悪そうだった……それに、陸は体温が高かったじゃない」
「おかしいかな? 夏でも夜は冷えるから」
――陸はあったかいね。
天がお見舞いにくると、陸の手を握りそういって顔を綻ばせていた。それは天が学校を終えてしばらく外を歩いて陸の病室へくることが関係していたのかもしれないがそうでなくとも陸のほうが天よりも体温が高いのは確かだった。今は握られた天の手のほうがあたたかく感じられる。もはや、自分以外の人間の体温が高いのは陸にとって当たり前のことだった。うさぎ病の進行で、どんなことをしても体温調整を陸の体内だけではうまく行えない。
「前にも寒がってたけど……あの時のことが何か関係があるの」
言いづらそうに口を開く天の表情には少しだけ焦りがにじんでいるようにも見えた。あの時陸が言ったことに対して憤りを露わにしていた天はそのことを悔いているのかもしれなかった。天の反応は正しく、突然あんなことを言われ信じないのが普通だ。天があの時のことについて申し訳なく思う必要はない、陸の病も陸が天を勝手に好きになってしまっただけだ。
「天にぃどうしたの、なんか今日は変だね?」
笑みを浮かべる陸に対し天の顔は険しいままだった。
こんな風に心配されることはあっても、そこから先に自分たちはいけない。
どれだけ優しくされるようなことがあっても、そこに陸と同じ形の愛が存在していなければどうにもならないのだ。
「――愛情がないと死んじゃうって言ったこと、もしかして本当なの」
そのまっすぐな瞳は問い詰めるようでもあった。
愛情がなければ死んでしまうなどという摩訶不思議なおとぎ話でもなければ出てきそうにない話ですら、目の前の人物は受け入れようとしてくれている。それでもその優しさだけでは救われないことが悲しくて仕方がなかった。
ここで肯定すれば一体どうなるのだろう。沈黙と沈黙をどちらも貫く中、繰り返し水と水がぶつかる音が二人の間を泳いでいた。
「あんなのは、嘘だよ」
天にぃがオレに言った通り、ただ家族じゃなくて仕事仲間としか接してもらえないことが不満だっただけだよ。本当なわけないじゃん。
塗り隠すように言葉を重ねる陸を天は不審に思ったのか眉をひそめ、探るような目つきを向けていた。その視線から逃れるように陸はあいていた掌を天の手に重ねてからそっと握られた手を外した。触れた瞬間少しだけ天が身体を揺らしたのはその冷たさに驚いたせいかもしれなかった。夏の夜が涼しいとはいえ、指先まで冷え切ってしまうほどの外気ではない。
「天にぃの愛がほしかっただけだから」
それは、昨夜見たドラマの中で九条天が演じた主人公が相手のヒロインに向けて言ったセリフだった。羨ましかった、それを言える人間にではなく、その言葉自体に陸は羨望を抱いた。伝えられることのないまま自分の中で死んでしまう恋心が無念でならなかった。自分の中だけで死なせたくなかった、腐らせたくなかった。
「……陸、泣いてるの」
「泣いてないよ、」
「でも、涙がこぼれてる」
視界がぼやけていくのはわかっていた、それから目の奥が熱を帯びていくのも。涙は自分の意志ですら無視をして、勝手に流れて落ちていく。
好きだと言いたかった、それすら伝えることができない。おかしな恋の病におかされて死んでしまうことがみじめで、悲しくて、つらくてたまらなかった。救われたいし、生きていたい。
なによりも目の前にいる九条天から、愛されたかった。
「……っお、お……れ……、」
唇が震え、嗚咽にのまれてそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
身体が包まれるように抱きしめられた、人の体温というのはこれほどまでにあたたかいものだったのだろうか。呼吸が苦しくて仕方がなかった、けれどもいつものように刺すような寒さは襲ってこない。胸いっぱいに満たされるようなあたたかさとよく覚えている心地よさに永遠に身を委ねていたいと思った。
「陸」
名前を呼ばれ、背中をゆっくりと撫でられる。
「りく」
幼い子供をあやすような優しい声だった、泣いているときの慰め方を天はよく知っている。いちばん伝えてはならない人物なのに、すべてを吐き出してしまいたくなる。
本当は殺されたくないのだと、救いがなくともせめて自分の気持ちをしっていてほしいのだと。
苦しくて、生きているのがつらくてたまらない。愛されるだけで幸せになれるなら、どんなに良かっただろう。どうして、どうして――、
◇◇
泣きすぎたせいか頭が痛かった、それでもうさぎ病ではない症状で痛みを感じるのは久しぶりだった。結局天に抱きしめられ、暫く泣いていたが何も伝えることはできなかった。天はそんな陸に対し寮までやっぱり送ると言ってきかなかった。タクシーの中でも始終二人は無言だったけれど天が傍にいてもいつものような苦しさを伴うことはなかった。
「陸、こんなに苺好きだった?」
テーブルの上に散らばっていた苺のお菓子の数々に驚いている様子だった。それから「あんまり食べ過ぎちゃだめだよ」と体調管理に対して苦言を呈す。
ベッドの上で横たわる陸は、自分の部屋にいる天を不思議な面持ちで眺めていた。寮まで送り届けてもらってそれから天は話したい事があるのだと陸の部屋まであがったものの結局具合が悪そうだからという理由で陸は先にベッドに押し込まれた。
「最近、おいしいのたくさんでてるから」
愛情を補うという効果がほとんど薄れてしまっているためもはや必要なくなってしまったものだったが、陸は食べていいよとその場凌ぎの嘘で取り繕った。
「……天にぃ、話したいことってなんだったの?」
もうすでにそれほど体調が悪いわけではなくなっていた、それは天の態度も関係しているのだろう。今ここにいる天は仕事仲間ではなく、陸の兄としての九条天に一番近い状態だ。そこに愛情がなくとも、普段の他人である状態よりかはいくらかましだった。
天は陸に視線を向けると「やっぱり、今日はやめようかな」と言った。
「陸の具合が、よくなってからでもいいんだ」
天は柔らかい笑みを浮かべて見つめる。
それはいつになるだのだろう。もはやそんな日はこないかもしれない。ベッドのそばにいた天は「今日はゆっくり休んで」と言った。
「……オレじゃない人の、話なんだけど」
ぽつり、とちいさな声で切り出した。
「……いちばん、好きな人が好きになってくれないと、死んじゃうって病気になったんだ」
「……」
「かわいそうだけど、その人もう助からないんだ。でも、オレ助けてあげたいんだ。オレ、どうすればいいのかな天にぃ」
単純に天であればどうするだろう、と気になった。何を言ってるのか、と呆れただろうか。
天からは少しの間返事がかえってこなかった。その間陸は自らの部屋の天井を見つめていた。柄にもなく感傷に浸りこれが天と一緒に過ごせる最後から何番目の時間だろうか、と考えていた。
衣擦れの音が小さく聞こえた。影がさし、天井が見えなくなる。陸を見下ろす天は唇をきゅっと結び、何かに耐えるような表情を浮かべていた。
「……もう、手遅れなの」
吐き出した言葉が震えていた。手に持っていた紙がくしゃりと握られる。それを見てようやく陸はテーブルの上に折りたたんでいた診断書の存在を思い出した。片づけずにそのままにしていたことに思い出し、後悔した。どっ、と心臓に血が集約するようだった、全身の血が巡り自分のしでかしてしまったことに今すぐにでも消えたくなった。
”愛情の枯渇によって引き起こされる体温調整機能の麻痺による著しい体温の低下、および皮膚の紅潮。早急に治療しなければ回復の見込みがなく、すでに苺の効果もなくなってきているため進行が早まっている。なお、患者はこのことを認めており、治療を止めている状態である。また、――――”
「本当だったんだ」
だから、泣いていたんだね。
真実をそのまま受け止め、確かめるような天の言葉をもはや否定しても意味がなかったため陸は素直に頷いた。
こんな形で知られてしまうなんてと思いながらも回復の見込みがないことは理解していたため自分でも驚くほどに冷静でいられた。あの時環が並べてくれたトランプのようにルールでも破らなければ天の隣に自分は並べないのだ。
「あのとき、ボクが、陸の」
「いいんだ、天にぃ」
天の言葉を止めるように、笑みを向ける。いいんだ、ともう一度言えば天はどうして、と掠れた声で呟いた。
「死ぬつもりなの?」
静かで、けれども重圧のある声が響いた。険しい顔には次第に怒りが滲んでいく、陸が諦めていることに対し業を煮やしているようだった。
率直にそう訊かれてしまえば今の陸の行動はすべて天の言う通り病の行き着く先を肯定している行為と等しい。医師にですら死ぬつもりなのかと、素直にきかれたことはない。天にとってそれが一番許せないこととは理解していても陸どうすることもできない。
「……いきてることが、みじめになっちゃう」
「……」
「その診断書があるから、オレが病気だから、オレのことを愛してくれるなんて天にぃには言わせたくないんだ。天にぃだけの愛がほしかったけど、貰えないのはわかってるんだ」
「……」
「言うつもりなかったんだ。天にぃこんなの聞いたら自分のせいだったかもしれないって後悔するだろ。でも、これはオレが選んだことで誰にも関係ないんだ、天にぃのせいだとか勝手に思わないでよね」
勘違いしないで、と笑ってみせたもののここ最近の天は陸の言うことに対しひとつも陸と同じ質量として受け止めてくれない。それは今も同じくだった、眉根を寄せた天がどれだけ重く捉えているのかはその表情を見れば嫌でも分かってしまうのだ。
ふいに陸の頬をなぞるように、天の指先がゆっくりと触れた。
「こんなにも、わかりやすく泣いていたのに何ひとつ分からなかった。陸がいなくなってしまったあと、生きているのが惨めなのはボクのほうだ」
「べ、別に泣いてるんじゃなくてこれ」
「ボクが、愛していても、いなくなってしまうの」
ねえ、陸。
あたたかい何かが頬を濡らした。天の瞳からこぼれる涙が落ちているのだと気づいた。そんな様子が珍しく、つい口からこぼれたこの場にそぐわない「天にぃも、泣くんだね」という呟きをしっかり拾った天は自嘲するかのように「そうだよ」と言った。
「オレのために泣いてるの?」
「そうだよ」
「オレのこと愛してるの?」
「……そうだよ、それなのに」
陸がふふっと笑えば天はますます不機嫌そうな顔になる。それでも陸は嬉しくて、幸せでたまらなかった。天が自分のことを愛してくれていた、それだけが分かった今助からなくとも自分の恋心だけは報われたような気分になった。愛しているがどのような意味を持っていても、陸はどちらでもよかった。
「……ボクが、愛しているから、生きていて。好き、すきだよ、陸」
“――また、早急に治療した場合であっても助かる確率はかなり低いものとなっている”
「奇跡みたいなことってあるんですね」
もう助からないと思っていました、と口にした医師が驚いていることが珍しかった。陸は「愛の力ですね」と笑う。それを聞いていながらも医者は特に返答することなく驚いたと言うだけだったので陸は少しだけ恥ずかしくなった。
天に好きだと言われた次の日から、体調が急激に良くなった。頬の赤らんだ箇所もいつの間にかなくなっていたのだ。もしかして、と思い病院に来てみれば殆ど治っているということだった。それに対し驚いたのはもちろん陸である、まさかとは思っていたが本当に回復に方向が向くとは思っていなかったのだ。
「でも、奇跡ですよね。オレもうだめかと思ってたのに、好きって言葉もらうだけで治っちゃうなんてあんまり大したことない病気なんじゃないんですか?」
「君、好きな人と結ばれたんじゃなかったんですか」
「いいえ、好きって言ってもらっただけですけど」
結果的に天と恋人になったかどうか、となればそうではない。ただあの時は天に好きだ、愛してると言ってもらっただけで関係が変わったわけではない。それでもこうして治ってしまうなら自分が今まで苦しんできた時間はなんだったのだろう。
「……本当に、珍しいことってあるんですね」
「そうですよね、オレもびっくりです」
「ええ、私もびっくりしていますよ。ところでその方に病の症状が良くなったことはお伝えになりましたか?」
「いいえ、まだです。これから行こうかと思って」
「そうですか、なら安心ですね」
医者の納得したような頷きの意図がわからなかったものの陸ははい、と笑って頷く。天には直接伝えたいため、病院の診察が終わった後会う約束をしている。おかげ様で病が治ったことと、協力してくれたことの感謝を伝えるつもりだ。
「君の好きな人というのはもう長い付き合いになるんでしょうか」
「ずっと一緒です!」
少しだけ離れたときもありましたけど、という陸の補足に「なるほど」と頷き、何かを手元の資料に書き足した。
「そうですか、それなら……こんな風に偶然みたいな奇跡が起こるんですね」
帽子とマスクをかぶっていても、周囲に人が大勢いても視界にすぐ捉えることはできた。陸は姿を見つけてから思わず頬を緩ませ笑った、ここで名前を呼んでは怒らせてしまうことはわかっていたためぐっと堪える。喫茶店やカフェでお茶をするわけでもない、天にも陸にも仕事がこの後入っているためその空いた時間に待ち合わせをすることにしたのだ。数分でいいから、とお願いをした陸に天は二人きりで会うのを大抵よしとしてはくれないが今日はあっさりと了承してくれた。
「て、……九条さん!」
こんにちは、と挨拶してから頬を緩ませていると「なにか楽しいことでもあったの?」と天がつられるようにして笑った。
「なんと、オレおかげ様でうさぎ病がね、この通りすっかり治っちゃった! 九条さんに感謝しなきゃって思って好きそうなドーナツ買ってきた!」
「えっ、」
「お医者さんももう治らないかと思ってたけど、すごい奇跡ですねって! あの時オレのこと助けてくれて、本当にありがとう」
天にぃのおかげ、と頭をさげてから陸は手に持っていたドーナツの紙袋を天に握らせる。たくさん買ったから十さんや八乙女さんとも食べてね、と付け加えて。
「にしてもすごいよね、言ってもらうだけで治るならもっと早くお願いすればよかったな」
「……ちょっと待って、陸。言ってもらうだけってボクがあの時言ったのは」
「たぶんないと思うけど、またなったらその時はお願いするね」
「……ボクのこと、好きなんじゃなかったの」
ドーナツを渡し、すぐに帰ろうとしていた陸を止めたのは地を這うような低い声だった。びくり、と身体を揺らす。天が陸の好きな人であることはすでに本人には知られてしまっているが、病気が治ってしまった今陸は天にその気持ちを強要するつもりはなかった。なるべく避けたい話題だったため敢えて口には出さずにいたし、天にも触れないでほしかった。
「……でも、迷惑だろ? オレ、あの時天にぃが協力してくれただけで十分嬉しかったよ」
「は? ボクのあの時の言葉、病気を治すために言っただけだと思ってるの?」
「違うの?」
「…………仕事が終わる時間を教えて」
話したいことがあるから、と凄まれ陸は反射的に首を縦にふっていた。天の大きなため息に一体なんだろうか、と首をかしげる。もう天に怖い顔をされても、身体が冷えていくことはない。
病が発症した正確な日付は医者にすら判断できかねるらしかった。幼いころから発症している人間もいれば、大人になってから、いずれもそれらは本人が気づいたときすでに発症しているためいつから、と正確に知るのは難しいらしい。それでも陸を診断した医者が言うことにはもしかすれば随分と長い間患っていたのでは、という意見だった。死に至るペースも人それぞれではあるが助からない段階までくると大抵の人はもう諦めるほかないことだけは共通だった。それが陸はもう医者もだめだろうと判断していたような状況で奇跡的な回復をみせたのだ。
離れていた期間も長かったが症状が分かりやすく表にあらわれることもなく、これまで寒いと思うことはなかったと伝えた陸に対し医者は最初に出会ったときと同じく「信じられないかもしれませんが」と前置きをしてから、にこやかにほほ笑んで言った。
「愛情のストックみたいなものじゃないですか。君の好きな人は君のことをもうずっと前から愛していて、それが蓄積して残っていて奇跡的に生きていたんじゃないですか」