優しい殺人



 きっかけは本当に些細なことだった。
 苺は好き。けれど、毎日食べるほど大好物ではなかったにも関わらずお腹がすくと苺や酸味のある柑橘類を食べたくなった。ふとしたときに発作とはまた違う呼吸が苦しくなるような、酸素の通り道をすぼめられたように外の空気を肺いっぱいに取り込むことが困難に感じられることがあった。人の好みは成長すれば変わることもある、普段の自分とは何かが違うことに違和感を覚えてもそれらのことすべて幼い頃から患っている呼吸器の病気の延長で起きたものだと陸は思い込んでいた。
 自分で自覚はなくとも、周囲からすれば変わっていく陸の様子は普通とは違って見えていたらしい。食事当番が交代で作るおいしいご飯よりも苺を多く食べるようになった。食が元から大きいわけではなかったため勿論そうなればご飯を完食しきれなくなり、怒られることになる。その他にもメイクをしているわけではないにも関わらず瞳の周りがうっすらと赤らんで、泣いていたのかと心配されることや若しくはいつか女性たちの間で流行したメイクを施しているようだと言われるようになった。もちろん陸にとっては覚えのないことだったため自分でも不思議だった。血色が良いのは何も悪いことではないが、気づけば酸味のあるものを欲するようになっていた身体に暫くして不安を覚えるようになった。もしかすればこれはただの気のせいではなく、ストレス性の何かを疑ったほうがいいのかもしれない。別段強い精神的負担を感じていることに心当たりはなかったけれど、病の類と長い付き合いをしている陸にとって疎かにしてはいけないことは人よりも理解しているつもりだった。問題がなければそれに越したことはない、あまり重く捉えることなくどこか楽観的に考えていた。



「――信じられないかもしれませんが」 
 目の前の医師はきっと信じないでしょうが、と分かり切ったような言い方に切り替えた。
 世の中には理屈で世の中の中にはまだ解明されていないことがたくさんあってですね、と続けた医者はそこから先を言うのを何かに憚られているような表情をしていた。眉を寄せて唸り、それから「これはとても珍しいことで」と付け足す。
 結論をすぐに言い出さないのは、それを留める何かがあるからなのだろう。まるで伝えることを拒むかのように、前置きを付け足していく医師を見ていると既視感が頭をかすめていく。こんな風に、緩衝材を少しずつ置きながら先の結論を伸ばされるのは患者のための精神的配慮であって大抵良くないことばかりだ――昔、自分の病気が一生治らないものだと告げられた時のように。

「理屈でこれは解決できていることではないです。大抵最初に聞くとまず信じてはもらえないことが殆どです。ですが、これはれっきとした病です。君はうさぎ病ですね」
 うさぎ病。言葉をなぞるように口に出してみる。馴染みがなく、初めて聞く単語だった。
 ふざけているようにも、冗談めかしているようにも見受けられない。
 目の前の医者は表情を変えず陸の瞳を真っすぐに見つめていた。その姿勢から嘘ではないことを察することができても今訊いたことを事実としてすんなりと受け入れるには難しい。
うさぎ、という単語を頭のなかで転がしそれから動物の可愛らしいシルエットを浮かべる。ぴょんぴょん跳ねる、かわいい動物。陸はあまり触れることはできないが、事務所にも一匹かわいいうさぎがいる。万理や紡の腕に抱かれながら、かわいらしい声で甘える。何が一体病と結びつくのだろう。首をかしげて「どういうことですか」と陸が訊ねると「そのままの意味です」と医師は返す。まるで言われ慣れているような対応だった。もしかしてと思いつき「オレ、将来動物になるってことですか」と悲壮感を隠さずに肩を落として陸が訊く。いつか四足歩行で葉っぱを食べて生きるようになるかもしれないなんてあんまりだ。
相手の「違います」という否定は早かった。

「寂しいと死ぬ。苺を最近よく食べるようになったと言っていたけれど、たぶんあれは酸味で愛情を補ってるんだ。適当なことを言ってるわけじゃ無く、理屈で解決できない病気だから私たちの間でもあくまで仮定の話なんですが。寂しいと死ぬ、瞳の周りが赤くなる。今の君はうさぎみたいなものだ」
 言われていることを何一つ理解できなかった。言葉が意味を持たない空虚なただの単語に変わり、耳を通り抜けていく。

「……」
「うさぎは寂しいと死ぬ、と言われてるのは嘘だと否定する意見も多くあります。でもこの病名にはぴったりだったんでしょうね。この陳腐な名前に最初は信じない患者も多く存在します。私としては勿論名前を変えてほしいぐらいなんですが」
 最初に口籠りを見せた訳を理解する。医師のこぼした不満により苦労したことが垣間見えた。恐らくこの病気を説明するたびに真面目なことを言っているにも関わらず中身の陳腐さに、真実を呑み込んでもらえず彼自身が説明をしている自分にも呆れているのかもしれない。

「……死ぬって、」
 いまだに理解が追い付かない頭の中で、それでも聞き逃せない言葉だった。

「君は愛情をもらえないと死んでしまう病を患ったんです。薬では勿論どうにもならない、苺を摂取し続けてもあれは薬にはなれないからいずれ効かなくなる。でも、薬がなくてもこの病気には幸いなことに助かる方法があります」
 言いたいことをすべて呑み込んで目の前の相手がいうことを陸は一言も聞き洩らさないようにと耳を傾ける。昔から医師のいうことは陸にとって絶対だった、死という言葉には慣れているためかそれほど焦りはない。一生治らないと言われた病気よりも助かる方法がある今の状況は陸にとってよっぽど救いのあることのように思えた。

「本当に一番大切な、つまりはあなたが愛する人物から愛情をもらうことです」
 難しいかもしれませんが、現段階ではこれが一番いい方法です。と、きっぱりと言い切った医者は「助かった事例も勿論あります」と言った。含みのある言い方は反対に死んだ人間もいる、ということを言い表していた。


 ◇◇


 テレビの画面を見つめながらコンビニで買ってきた苺のグミを口へひとつ入れる。
 大好きなTRIGGERのライブ映像を今日は集中してみることができない。何度繰り返し見ても、頭がセットリストを記憶していても何度見ても飽きないものは飽きない。それをメンバー内で一番理解してくれているのはナギだった。素晴らしいものは何度見ても心を震わせます。と、熱く語っていた彼はここなのアニメを見てはその美しい顔を幾度なく涙で濡らしていた。
 画面の映像を繰り返し眺めては再び最初に戻すというのを繰り返し続ける。普段ならば目が離せないぐらい夢中になっている映像が目を滑ってただ流れていく。
 陸が病院に行ったときのことをメンバーは定期健診だと思ったままだ。別に隠す必要はない、そう自分の中で何度結論付けても医師が言っていた言葉があまりにも現実の出来事とはかけ離れているためうまい説明の仕方が分からなかった。アニメや漫画をよく見ているせいか、それとも生まれつきのものなのかロマンチックな台詞や言葉を容易く言ってしまえるナギはもしかすれば信じてくれるかもしれない、と乾いた笑いをこぼす。信じてくれるか否かだけを本当は重視しているわけではないけれど。

「オレ、うさぎになってたみたい。って、絶対一織信じないだろうな」
 顔を不機嫌そうに歪めて私を馬鹿にしているんですか、と呆れかえったような表情をしている一織の姿がありありと浮かぶ。うさぎや可愛らしいものを好きなくせにそれをどこまでも隠し、素直になれない一織はきっとからかわれたと怒る可能性だってある。
 本音を言ってしまえば、陸自身も実感がなく素直に受け入れることができなかった。けれども体は相変わらず苺を欲しているし、心なしか以前よりも瞳の周りだけが血の通りが良くなったような色をしている。しかし、それだけでは病気だと実感は得られない。

「寂しいと死ぬ? だったらオレはとっくの昔に死んでるじゃん」
 クッションに身体を預け、天井を見つめる。誰もいない空間に吐き出した言葉は、どこか自分を虚しい気持ちにさせた。寂しさで死んでしまうならば、天が家を出た十三才のあの時に陸の心臓は停止してもおかしくはなかった。あの絶望と喪失感をもう一度味わうような痛烈な経験はもう二度とできればあってほしくない。涙を流した回数だって数えきれない。
 TRIGGERのセンターとして踊り、歌う九条天を見つめて陸は小さくため息を吐き出す。昔は見ているだけで苦しくて辛かった映像を見ていても今は平気だ。寧ろ天のかっこよさに惚れ惚れしてしまうぐらいなのに。もっともこの病気というものをいつから発症しているのかは医者すらも断言できかねることらしかった。沈黙の病でもあると言っていたために数年前の時点では恐らく発症していなかったのだろう。

「寂しさで、死ぬなんて」
 あるわけがない、と心の中で呟いた途端の出来事だった――突然、呼吸が苦しくなる。
 胸を抑えて陸は思わず蹲る、十分に酸素を取り込めない。口を大きく開き、肺いっぱいに取り入れようとしているのに体内に流れていくのは極わずかな酸素だけだ。発作の苦しさとは違う、標高の高い場所よりもずっと空気の薄い場所に自分がいるようだった。
 息を吸う。うまく取り込めない、苦しい。呼吸ができない。このままでは――、

「なー、りっくんこれからゲーセンに……」
 がちゃりと部屋のドアが開いた。
 後ろを振り返り、人の部屋に入るときはノックするんだぞ、と相手に注意をする余裕もない。けれども環の声がきこえた途端にさきほどまでの苦しさはすでになくなっていた。先ほどまで自分の身体を苦しめていたものがまるで尾を巻いたようにあっという間にいなくなってしまった、その不思議で不可解な出来事に陸は呆然としていた。
 環の慌てたような声が聞こえたが大丈夫だと返すよりも不思議なこの現象を陸の中で対処することのほうが先だった。
 ゆっくりと身体を起こし陸が環を見つめる。その場から動かないままでいる陸に環が焦ったように「ど、どうしたんだよ」と困惑したような声を出す。
 環を見てから再びつけっぱなしであるテレビへと視線を向けた。そこには苦しくなる前と変わらずTRIGGERが歌っている。

「りっくんなんかやべー感じだぞ……風邪引いたのか? 今日そんな寒くもないのに毛布もかぶってさ、病院なら俺ついてくけど」
 座っている陸に合わせて環がしゃがみ、問いかける。
 気づけば額には僅かに汗をかいていた。ゆるゆると首をふって「大丈夫、ありがとう」と礼を言う。環は陸をじっとみつめてから「ならいんだけどさ」と口にしたものの少しだけ腑に落ちない様子ではあった。

「……ねえ環今日ってさ、あったかいのかな」
 蹲った際に落ちた毛布を握り直し、再び陸は羽織る。
 環は不思議そうに「すげーあったかいじゃん、寧ろあっつくね?」と言った。確かに前日明日はあったかくて過ごしやすいんだな、と三月が言っていたような気がする。けれども陸は暖房をつけるまでとはいかなくとも自分の部屋が寒くて仕方がなかった。

「なに、りっくん寒いのか? やっぱ風邪ひいた? 体温計持ってきてやるよ」
「い、いいよ! 大丈夫!」
 思い当たる節はある。
 寒い、と感じたのはTRIGGERのライブを見始め暫くしてからのことだった。振り返り、テレビに映るTRIGGERを、九条天を陸はまじまじと見つめる。先ほどのことが浮かんで咄嗟に胸を抑えたが呼吸が苦しくなる気配はない。陸の行動に環はいよいよ訝しげな視線を向ける。
 うさぎ病だなんておかしな病を本当は心のどこかであるはずがないと思っていた。そのせいか死という単語が使われているにも関わらず危機感はまったくと言っていいほど持たなかった。
 本当に一番大切な、愛する人物。言ってしまえば自分のことを自分の好きな人に好きになってもらわなければ死んでしまうことになる。他とずれている体感温度も医師の言葉を真っ当に信じるのであれば恐らくは寂しさからくるものだろう。苦しくなった呼吸も病気に付随したもので間違いない。
陸の中にある天に対する感情は確かに特別だった、それを見透かされ誰かに後ろ指をさされているような心地になる。天に対して抱えたままの気持ちを成就させようなどとは考えたこともない。冷たく突っ撥ねられ、昔とは違う態度で接する人間に何をどうすれば好きになってもらう事ができるのだろう。
 陸に病状を説明し終えた医師は「馬鹿馬鹿しい上に、この病気には理不尽の塊が詰め込まれているんですよね」と言っていた。その時点ではよくわからないことにそうなんですか、と聞き流していた。現実味が伴わないせいか、半分どころか話の殆どを他人事のように捉えていたせいかそのあとに続いた言葉ですら重くは受け止めなかったのだ。今はその言葉がどれだけ重要なもので、どれだけ大事なことだったのか陸は思い返して背中がすっと冷たくなった。


「この病気で死ぬってことは、一番愛してる人に殺されるも同然なんですよ」


 ◇◇


 天が陸の患ったうさぎ病に関係している、それは本人に会ってから確信に変わった。
 天と接する現場では途端に身体が寒くなる、酷い時には唇が真っ青になり震えてしまうことだってある。仕事場での天は陸にあくまでも同業者の先輩として接することを徹底していた。一向に愛情をもらえる気配がないこのままの状況では危ないと陸もようやくうさぎ病がどれだけ恐ろしいものか身をもって知ることになった。愛情をもらえないと死んでしまう、だから優しくしてほしいなんて馬鹿げたことを本人には直接伝えられるはずもない。
 天と二人で主演に抜擢された映画の撮影が仕事に組み込まれていた。話をマネージャーから聞いた時点で陸と双子であることが世間に露呈されることを嫌う相手側が承諾するとは思えず、天がもしも主演を蹴ったとしても大役をもらうことは滅多に訪れないため頑張ろうと意気込んでいた仕事だった。天がオファーを受けたと聞き、俄然やる気が湧いた。一緒に頑張ろうね、と送ったメッセージに天が返信してくれた時相手も同じ気持ちなのだと嬉しくなって、撮影を心待ちにしていた。けれどもその時と今では状況は大きく違う。

「…………さむい」
 楽屋の隅でスタッフに貸してもらった毛布で身を包み、膝を抱える。
 肌にずっと冷風があてられているように体が芯から冷えていく。丁度いい室温になるように設定されているはずだがまるで真冬に冷房が効いているような寒さだった。
 天が他人として陸に接すれば接するほどに愛情というものからは遠ざかり、陸は寂しさを覚えて結果病気を悪化させる。天と仕事で共演することは今の陸にとっては苦痛を伴う。陸の気持ちとは裏腹に病気が加速するという最悪な悪循環が生まれてしまったのだ。
 映画の撮影は一日中かかることも珍しくはない、今日もそうだった。そのため昼休憩は長めに設定されており、今はその最中でテーブルの上にはまだ手付かずのお弁当がのっている。ご飯を食べなければ午後の撮影での体力も集中力も続かないかもしれない。そうは思っても陸が欲するのはご飯ではなく欠落した愛情を補うかのように食べている苺だった。柑橘類の酸味ではなく、最近では苺しか身体が欲しないのだ。近くに置いてあった鞄を手探りで引き寄せ、前日に買っておいた苺味のお菓子を取り出す。本物でなくとも苺味であれば代わりが効く。苺味のチョコをいくつか掌に取り出し、口の中へと放り込む。
 甘くて、僅かに酸っぱい、少しだけ寒さが和らいだように感じた。
 不意に部屋がこんこん、とノックされる。マネージャーかもしれない、陸は顔をあげてはいと扉に向けて返事をする。扉が開き「九条ですけど。七瀬さん、午後の撮影……」と顔を覗かせた天が楽屋の隅で膝を抱える陸を見てぎょっと目を見開く。驚いたのは相手が天だと知った陸も同様だった。用意された楽屋が座敷タイプのものであったため扉を閉め、靴を脱いだ天は陸のほうへと歩み寄り「顔色が悪い」と言った。

「唇も真っ青だし……体調管理は基本でしょ。一日中映画の撮影なんだから当日までに完璧にするのは当たり前じゃないの」
「…………」
「午後の撮影まで持つの七瀬さん……って、本当に大丈夫なの。ねえ」
「……さむい」
「え?」
「さむい、このままじゃ凍えちゃう……て、九条さんお願いだから今だけはオレに優しくして」
 天が楽屋に訪れてからより一層身体が冷えて、がたがたと震え始めていた。真冬でもないのに、天が素っ気なく冷たい態度であればあるほどに陸の身体に影響を及ぼす。体を縮こまらせ、抱えた膝に顔を埋めなんとか暖をとろうとするが効果はない。
天が陸の言葉にどんなことを思ったかは表情を見ていないため分からない。お願いだから嘘でもいいから優しくしてほしい、少しだけでも目の前の相手からの愛情が欲しい。飢餓にも似たような気持ちで陸は祈っていた。

「……りく、顔をあげて」
 天が小さな声で囁く。陸がそれに従い顔をゆっくりとあげればおでこに天の手が添えられた。

「熱はないみたいだけど、身体がすごく冷たい。この楽屋も温度調整がされているはずだからそれほど寒いわけじゃないのに……」
「……」
「目の周りが赤いけど、泣いたの?」
「……」
「陸、何か言わないと分からないでしょう」
 この場が陸の楽屋であるおかげか、陸の様子がおかしいことに気づいてか、最初に楽屋に訪れた時より幾分か柔らかくなった天の態度に冷えていた手先の末端までは治らなくとも、極寒の中にいるような寒さは次第に薄れていった。天をじっと見つめ、陸はゆっくりと口を開く。

「……天にぃ、オレ寂しいと死ぬんだ」
「……は?」
「天にぃの、愛情がないと死んじゃうんだ」
 信じてくれるか、くれないかはもう陸にとって大事なことではなくなっていた。このまま地獄のような想いをして、寂しさを募らせて死ぬことだけは免れたかった。本当に好きな人から、好きになってもらうことができれば助かる。とても簡単で分かり切った答えだ、生きたければ陸はもう天から愛情をもらう事でしか生きられないのだ。
 陸の真剣な様子に天は一瞬ためらったのか眉を寄せてから大きく息を吐く。

「ボクを馬鹿にしてるの?」
 呆れたような、信じられないと言いたげな視線は天の真正面からの否定だった。






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