ティーのために買ったものといえば、子ども用の小さな歯ブラシがはじまりだった。
拾ったばかりのころである。今のように頬に肉もついていないような時。はじめて目を開けた娘は、光のない眼でぼんやりと寝台に横たわっていた。これに、起きあがる力はなかった。重度の栄養失調である。髪に艶もなく、肌もかさついて、唇は荒れに荒れて、それはもう見るも無惨であった。ここまでの症状のものを見たことがない。何も口にしていないらしく、着替えさせたときに見てしまった薄い胸は、ほとんどあばらの形をしていた。人間よりも骨の標本に近い体つきは、あまりに異様で、この少女がずいぶんと惨い目にあっていたことがうかがえた。
「おら、もっと口開けろ。そんなんじゃ磨けねえだろ」
立つことはおろか床を抜けることもできない。筋肉が衰えているのか、腕もしっかりと動かぬ。壁をつてにさせて立たせておいても、腰が抜けて、すぐに崩れる始末である。歯を磨くのも、用を足すのにもこちらの補助が必要だった。なかなかに骨が折れる。仕事は休んだ。稼ぎに心配はにものの、慣れない世話に少しまごついていたのは事実である。
「もっと。もっとだ。開けろ」
歯ブラシが奥に届かなかった。自分の予備に買っておいたものが、これの口に合わない。こぶりな唇はいっぱいに開けさせるだけでも引き裂けそうになる。結んでいた赤い肉をといて、丸び帯びた口から舌がのぞく。指でとらえるのも難しそうなくらいに短く、丸く、のばしてみても、口の端にたどりつくのが精一杯の長さである。
頭の大きなブラシは、歯の細い列に滑り込ませるのもやっとの状態であった。口はなかなか大きく開かれない。無理があるのである。
「…………すこし、待ってろ」
しぶしぶ、家を出た。薬屋に急いだ。
それがティーの歯ブラシである。赤い柄の、先に白い毛が立った、ちいさなちいさな子ども用の歯ブラシである。
「ほら。これなら、どうだ」
目の前にかざしたブラシをじっと見つめてから、少女はぱかりと口を割った。やれということなのだろう。終始無言を貫くので、ぎゃあぎゃあ騒がれるよりはずっと楽だった。
シャコシャコと小気味の良い音をたてて、丁寧に歯を磨いてやった。上下ともに白く、こぼれのない歯を持っている。エナメル質の表面を力を込めずにこすっていくのが妙に懐かしかった。
歯を磨くのは、それからしばらく続いた。あれから、一年が経とうとしている。もう手助けはいらなくなった。
「ジャック」
もう以前とは違う。少女の体は健やかで、瞳も明るく、鮮やかになった。
「はみがきして」
それでも、たまにティーは俺を頼った。断ることはしない。
「ん、いーってしてみろ」
「いっ」
この手では扱いづらかった短い柄にも、もう慣れた。最中、ティーは楽しそうにしている。ふふふ、と笑うのだ。
「ジャック、はみがき、上手だよね」
口をすすいだティーが「ふふふ」と笑う。そのとき鏡ごしに目があって、顔をそらした。
今日も、洗面台の横には、二人分の歯ブラシがならんでいる。
[ 27/30 ]
[*prev] [next#]