今日は朝から忙しくてお弁当を作る時間が無く、最近はやる事が山積みでゆっくり食事を摂る時間が少なかっため、たまには贅沢をしようと思い心を躍らせながら昼職を食べに食堂に向かうと、大きな広間の隅に意外な人物が居た。最近髪を切ってイメージチェンジか?と話題になった苗字男主先輩で、舞台上の衣装とは全く異なるテイストの服を身にまとってぼんやりと座っている様子だった。そういえば、さっき入ってきた仕事の話、苗字先輩なら似合いそうかも。そんな事を思いながら先輩がいるテーブルに近づいて「こんにちは」と挨拶をすれば、苗字先輩は少し驚いた様子で挨拶を返してくれた。


「……どうした? 何か用でも?」


苗字先輩は不思議そうな顔をしながら聞いてきて、そういえばこの方とは在学中にあまり喋ったことがなかったなと改めて思い出すと、急に緊張してしまったのか言葉に詰まってしまった。取り敢えず軽く世間話でもしようと「ここに座ってもいいですか?」と先輩の目の前の席を指すと、「大丈夫だよ」と了承してくれたのでそこに腰を掛けた。

「Valkyrieの仕事の方はどうですか?」

噂に聞く程度だと斎宮先輩がSNSで炎上したという話が大きすぎて他の活躍を耳に入れないので聞いてみると、苗字先輩は「普通だよ」と言いながら自分の飲み物に刺さっているストローでジュースを混ぜては1口飲んだ。

「斎宮は海外で忙しいからあまりライブやらないし、と言っても前からあまりやってないな…。まあ問題は無いよ」

視線はジュースばかり向いていて、あまり私には向けてくれない苗字先輩。緊張も相俟って少し話辛いなあと思いながらも「じゃあ…」と話を切り出しながら鞄の中を漁ると、先程貰った書類を先輩に差し出す。すると苗字先輩はそれを受け取ってはマジマジと見始めた。


「実はここのブランドから夢ノ咲出身でモデルになってくれる人を探してまして、苗字先輩に似合いそうだなと思うのですがどうですか?」


そのブランドは男性物のキレイめな服を扱っているブランドで、舞台上でどんな姿でも絵になる苗字先輩には最適な案件だと思った。
苗字先輩は夢ノ咲にいた頃から斎宮先輩の『お人形』というポジションを私生活の中でも舞台上でも貫いてきたため、斎宮先輩の許可がないと何も行動を起こさない事は私達やファンの間では周知の事実だが、最近は自ら進んで自身の出来事をSNSで発信している様子から『お人形』を辞めかけているのではないか?と微かに噂されている。人間に戻るための1歩と、苗字先輩を売り出すための最大のチャンスに最適だと思ったが、苗字先輩は「俺には向かないかな」と言うと紙を突き返してきた。

「どうしてですか?」

「……カメラとかが苦手でね。あと、あまりValkyrie以外での活動をしたくないんだ」

苗字先輩はそう言うと、再びジュースを1口飲んだ。
そういえば以前斎宮先輩から苗字先輩についてこのような話を聞いた事がある。「あれは僕の操る糸を自ら絡ませて動けない人形を演じている。解くのは僕でも難しい」と。一体先輩を『お人形』として縛り付けている正体は何なのだろうか。今の私には理解出来なかった。

「すまないね。…そう言えば影片なら最近そういう仕事も引き受けてるようだし、彼にも話を持ち掛けてはどうかな」

「…そうしてみますね。貴重なお時間を頂きありがとうございます」


私は軽く頭を下げると、苗字先輩は「大丈夫だよ。こちらこそごめんね」と再び度謝ってくれた。思っていた以上に優しい対応をされてホッと安堵の息をつくと、私は書類をしまう。
鬼龍先輩に「あいつらは時間で解決出来る問題じゃからそっとしといてやれ」と言われた事を思い出し、当時は訳も分からず返事をしていたが、こういう事だったんだなあと実感をした。

「それじゃあ失礼します」

椅子から立ち上がって再び軽く頭を下げると、食堂を出てビルの出口の方に向かった。去り際に苗字先輩が軽く手を振っていたのはわかったが、表情は何故か怖くて見れなかった。
そういえば私お腹空いてたんだっけ…。歩きながら思い出すと急激に空腹感が襲ってきて、本当に何も詰まってないのかお腹に大きな穴が開いたような感覚になった。
何を食べよう。そんな事を思いながらビルの外に出た。