小学4年生の頃、全国大会を優勝するほどの腕前を持つ根津さんに憧れて剣道クラブに入った。
友人の試合の応援に行った時に偶然根津先輩の試合を見た。
試合中の根津さんは格好良く、スパンと相手を打つ音が誰よりも綺麗に会場に響く。
全国大会だったので観客席から沸き立つ歓声が凄く、隣で見ていた友人も「根津さんすげー!」ととても興奮していた。
それをきっかけに剣道に興味を持ち始めたが、俺は剣道に微塵も触れたことがない初心者だった。
友人に基本から教えてもらい、皆について行こうと早く武道場に来て素振りをしたり残って練習を続けたり、遅れた分を埋めるかのように人1倍、2倍、3倍と努力をした。
そんな事で補えるものでは無いと分かっていたが、当時の俺にはそれしか術はなかった。
ある日、残って練習をしていたら帰ろうとしていた根津先輩に声を掛けられた。
制服姿で歩み寄ってきた根津先輩に戸惑っていると、俺の竹刀を握る手を上から覆うように握られる。


「剣先が下がってる」


俺は驚いて根津先輩の顔を見ると、根津先輩は平然としていて恥ずかしがってるのは俺だけかと思って余計に恥ずかしく感じた。
根津先輩の手は結構大きく、いつも遠目で見てたからわからなかったが、身長も以外に大きかった。
恥ずかしさからか息が少し苦しくなり、意識的に息をし始める。


「小指が緩んでる。もっかいやってみて」


根津先輩が俺から離れて言う。
折角のチャンスを逃すまいと俺は気合を入れ、先ほどの状況で早くなった心臓を落ち着かせるように深呼吸をした。
小指を意識して素振りをすると、さっきよりも風を切る良い音が出て、竹刀もいつもより上がっているように見えた。
どうでしたか? と言うような感じで根津先輩を見た瞬間に「行くぞ二四三!」と叫ぶ声が武道場に響いた。
入口で壁に寄り掛かりながら居たのは根津先輩と良く一緒にいる同じ剣道クラブの東郷さんだった。
あの人は根津さんを我が物顔で扱っているのであまり好きではない。なんで根津さんはあの人と連むのか、理由がわからなかった。


「その調子で頑張れよ、ケケ」


根津先輩はそれだけ言うと、東郷さんの方に走って行ってしまった。
一人残された武道場からは何も音がしなくなり、外から微かに聞こえる車の音と話し声が響く。
今の俺の心は根津さんにアドバイスを教えて喜びと話せた嬉しさで気力が溢れていたが、東郷さんが介入してきた事でイマイチパッとしなかった。
その日は練習を続ける気力が失せてしまい、いつもより早く帰った。
根津先輩に手を握られた感触を思い出しながら帰る道はいつもより長く感じ、その温もりを忘れないようにと握りしめた。
あの日を境に根津さんと試合するのを目標に、改めて気合を入れ直した。
それと同時に俺が根津先輩に抱くものが憧れだけじゃないと気付き始めてもいた。
それが中学2年の秋のことだった。





「こんにちは、根津先輩」


入学式が終わり部活の勧誘で周りが賑やかな中、俺は人混みをかき分けながら根津先輩の姿を見つけた。
声をかければ、根津先輩は少し驚いたような顔をする。隣には東郷先輩もいて、まだこの人とつるんでいるのかと眉間に少し皺が寄った。


「苗字じゃねーか。高校でも剣道部に入るのか?」

「いえ、根津先輩が剣道部にいないので入りません」


すると、偶然に居たのか剣道部の人達の驚く声が聞こえた。
剣道部の先輩達からは「お前が必要だ」とか「全国優勝狙ってくれ」と言われたが、正直根津先輩がいない剣道部に興味は無いし、根津先輩が剣道を辞めて俺の目標が無くなってしまった今、俺が剣道を続ける理由も無い。
申し訳なさそうに適当に理由をつけて断ると、先輩方は落ち込んだ様子で戻って行った。
根津先輩も驚いたような顔をしていて、俺は話を続けた。


「俺、根津先輩のいない剣道なんて興味無いので。それに良い大学に入りたいので、今まで疎かにしてた勉強に力を入れたいんです。では俺はこれから用事があるので失礼します」


笑顔でそう言うと、2人の唖然とした顔を背にしてその場を去った。
高校になった今、根津先輩と過ごせるのは後2年ぐらい。この2年をいかに活用するかによって未来が変わってくるだろう。
あの邪魔者を排除することは出来ないが、遠ざけられるぐらいなら出来るかなと思っている。どうしたら根津先輩が振り向くのか、どうしたらあの2人の仲を裂けられるのか、今日この日まで実践をしたくてしたくて堪らなかった。
根津先輩が俺の物になる日もそう近くない。ニヤける口元を手で隠しながらそう悟った。





ある雨の日、下駄箱の先で根津先輩を見つけた。
隣を見たが東郷先輩は見付からなく、今がチャンスだと根津先輩に歩み寄って背後から脅かすように声を掛けた。


「根津先輩!」

「!…苗字……」

「傘ないんですか? 入れてあげましょうか」


ニコニコと笑みを浮かべながら言う俺に、先輩は目を合わせてくれない。
もしかして東郷先輩を待っているのか、と思い聞いてみたが「…いない」と言われた。


「俺の家あっちですけど、根津先輩は?」


さも知らないかのように聞き、根津先輩は家の方向を指す。勿論根津先輩の家なんて知っていたが、知らないのが当然なので黙っていた。
じゃあ行きましょうか、なんて言って歩き出すと、先輩も傘の中に入ってきてくれた。
横に並ぶ根津先輩は俺より少し低く、その傘の中が2人だけの空間と化していた。
やけに人がいない校門までの道は少し奇妙で、俺が根津先輩を神隠しに合わせてしまいそうな、そんな不気味さを感じた。


「こんな大きな学校なのにこんなに人がいないなんて滅多にありませんよね」


頷く根津先輩に俺は可愛いと思った。
それから他愛もない話をした。新しいクラスのこととか、勉強のこととか。
そこで根津先輩は俺に部活を辞めた理由を聞いてきた。何故そんな事を聞くのかと問えば、根津先輩はこちらを見た。


「俺のいない剣道部に興味無いって……」


落ち込んだ様子で言う根津先輩に僕は疑問符しか浮かばなかった。何故根津先輩が落ち込むのだろうか。


「俺が剣道を始めたきっかけは根津先輩なんです。でも根津先輩が剣道を辞めてしまった今、俺が剣道をやり続ける目標は無くなってしまいました……。俺は剣道なんかよりも根津先輩が好きなんですよ!」


根津先輩の前に立ち塞がり、先輩は驚いて立ち止まった。
傘を持っていない手の方で先輩の手を握れば、手の甲を頬ずりして先輩の顔を見た。


「俺は先輩が好きです……。中2の秋の時、今から577日前の事です。先輩に剣道のアドバイスをしてもらったときから、俺は貴方に惹かれていたんです……」


先輩は俺に掴まれた手を振り解くと、手を穢れたように扱い、今までに見たことないような青ざめた顔をした。


「先輩、やっと俺の気持ちに気づいてくれたんですね…。俺が先輩を敬ってた理由はそれです。疎くて単純な先輩、可愛くてとても大好きです」


溢れ出る愛が止まらなく、満面の笑みを浮かべた先には怯える根津先輩がいた。
俺から離れる先輩は雨で濡れていて、これでは不公平だと俺もその場に傘を置いた。
根津先輩に近寄ると逆に先輩は後退りをし、先輩は可愛らしく何かにつまづいて転んでしまった。
俺はそのまま近づき、先輩に覆いかぶさる。


「ずっと…こうして見たかったんです…俺に気を許してくれるのはいつかなって……でも先輩に怯えられちゃあ許すもクソもないですね、へへ」


押さえつけた手に、もがいて離れようとする根津先輩。
雨で濡れている根津先輩はとても色気があって、可愛くない顔もいつにも増して可愛く見えた。


「な、なあ、お前可笑しいよ……」


怯えた表情で絞りきったような声を出した先輩に、俺はより顔を近づけた。
後数センチでキスをしてしまいそうな、そんな近さ。しかし今の俺には、唇よりも怯えた根津先輩の顔の方がとても魅力的だった。


「そんなの、今更ですよ」


怯える先輩の目には、恍惚な笑みを浮かべた俺が映っていた。