過去企画 | ナノ


二十万記念SS
「先生と先生のはなし」
虎蓮パロディ

***

月曜日と木曜日の五限。
自分が数学を教える教室に届く、隣の教室からの声。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。


それはとても穏やかで、聞き惚れてしまうもの。けれど流暢に発せられる言葉のひとつひとつの意味を理解しているわけではない。それでも耳を傾け、その世界に浸りたくなるのは、いつものことだった。それほどその声に、焦がれていたんだと思う。

咲きぬべきほどの梢、散りしおれたる庭などこそ見所多けれ。

花は盛りに


昔から、得意科目は暗記でなんとかなるもので、苦手科目は自分で言葉を導き出して回答しなければならないものだった。

「せんせー、ここわかんない」

英単語、漢字、元素記号、数式。丸暗記に当てはめて答えるものも、まあ出来る方だった。そんな自分が教師になったのは、本当に何となくだった。

「どこ」

「これ」

歌の詞書にも、
「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、
「障る事ありてまからで」なども書けるは、
「花を見て」と言へるに劣れる事かは。

「あー、なるほどーありがと虎せんせ〜」

今年の春ここに新任でやってきた隣からの声は、もう半年ほど俺の生活の一部となり浸透していた。まだ若い、けれど誠実で真面目臭さの中に艶のある表情を纏う、園村という男のもの。
一週間、数ある授業のうちで月曜日と木曜日の五限目、その時間だけ聞くことの出来る声。彼の声が聞こえるその時間、俺は出来るだけ喋りたくないし、話しかけられたくもない。黙って数式を解いてくれと思う。その声は普段話すものとはまるで別物だからだ。今しか聞けないのだ。それが妙に心地よく、そして触れたくなるものだから。
はい、じゃあ問一から六まで、各自解いて。そう言い放ち、自分は教室の一番後ろ、ロッカーに背を預けて背後の壁の向こうから聞こえる声に意識を集める。
それが日課で、そして癒しのようなもので。

花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、
「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

授業が終わると隣の教室からは園村へ向ける賑やかな声が響き、数十秒後にそのドアが開く。俺はそれを見計らうように黒板を消したり教科書をまとめたりして、教室を出る。

「あ、愛嬌先生。お疲れ様です」

「ああ、お疲れ様です」

こういう、人好きのする顔が生徒には受けが良いのだろう。もちろん生徒だけでなく、保護者や他の教師にも。

「期末の準備、進んでますか」

「…少し」

園村先生はと返せば、僕も少しですと答えられた。たぶん、もう完璧だ。園村という人間をよく知っているわけではない、むしろ知らないことばかりだけれど。それでもこの人は見た目通りの人間だろう。根拠もなく、そう思った。いや、唯一根拠と言えるのはひどく愛しそうに古文を読む声、だろうか。
本当に、一つ一つの言葉を、繋ぎの間合いでさえ愛しそうに読み上げる。穏やかな時間の流れを、激しい感情を、侘しさを、たかだか十数年しか生きていない高校生に、必死に伝えようとする。もちろん、それが教師の仕事で、ここへ来ている学生たちはそれを学ぶ必要があるのだが。

「はなはさかりに、ですか」

「え…あ、はい」

少しの沈黙に、自分が緊張しているのだと気づき思わず話を持ちかけてしまった。ただ、話が古典に触れたとき澄んだ瞳がキラキラと輝き出すことを、俺は知っていて。

「僕、“はなはさかりに”って、すごく胸に響く掴みだと思うんです。137段はこのあとすごく長く続くじゃないですか。それでも最初に花は盛りに、を持ってきて、唐突に問いかける」

「唐突?」

「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは。桜の花は盛りだけを、月は曇りのない満月だけを見るものだろうか、って。不完全の美しさとか、その不完全を補おうとする思想、それこそが美しいんだ、って」

園村は、とても大切なものを愛でるようにそう口にした。
同時に足は職員室へと向かい、着いてしまえばもうこの会話は強制終了を余儀なくされる。それぞれに仕事があり、二人きりではないからだ。やることは山ほどある、それを蹴ってまで自分と話をしようと、彼は思わないだろうから。

「雨の夜に月を恋しく思ったり、部屋にこもって春の行方を知らないのも、趣深い。今にも咲きそうな梢、花が散って花びらがしおれている庭こそ、見所が多い。それをそのあと、もっと丁寧に、具体的に述べるんです」

淡々と、授業で読み上げていた昔話が現代語訳されていく。それが何故かひどく切なげで、それでもするすると胸に落ちてくる言葉に、ああ俺はやっぱりこの人の言葉が好きなんだ、と思う。

「あ、すいません、授業の話なんて…」

「いや、どうぞ。古典には疎くて。徒然草の“花は盛りに”、って部分だってことしか、俺には分からないから」

「はは、ダメです。僕、こういう話始めると一人で盛り上がってしまって」

理解できない文章でも、園村の声なら園村の読み方なら、いつまでも聞いていられると、言いそうになった。こうして自分の言葉で解説してくれるのもまた、ぶわりと世界が広がるみたいで心地がいいと、伝えたくなった。

「続けて、構いませんよ」

不完全なものこそ美しく、それは情景だけではない。男女の愛も、結ばれるものばかりが恋ではないと。会わずに終わってしまった辛さを思い、儚い約束を嘆いたり、昔を振り返ったり想い人の方角の空を見上げたりすることこそが、愛ではないだろうかと。そして最後は、人間の死についてまで話が至る。
そこまで話す途中で、六限の始まりを告げるチャイムが響いた。俺と園村はとてもゆっくりとした足取りで、自販機に寄り道をして、中庭から職員室へ向かうという遠回りをしていた。そこまでして、園村は不完全の美について語った。

「すみません、本当に僕…」

「いや、また聞かせてください」

「迷惑、じゃないですか?」

「全然」

丸暗記が得意だった。漢字が得意でも、未然連用終止連体うんぬんと、覚えることができても、実際文章を読むときそれを活用して訳すことができない。そもそもその必要があるのかと思うと面倒で、だから授業で訳されても頭には入ってこない。訳せても理解ができない。そんな科目だったものが。たったこの数分で、彼の声だけで変わってしまったらしい。

「じゃあぜひ今度、ゆっくり」

とてもきれいに微笑んだ園村は、ダークブラウンの髪を揺らして自分の机へ向かった。
次、彼と授業が被るまであと三日。
三日後、彼はまた俺につらつらと俺の興味のない話をするのだろうか。もっとも、興味がないのに聞き入ってしまう自分がいるのは本当で、それを彼が気分よく感じてくれるならそれでいいのだが。
三日後、彼が熱心に好きなものを熱弁する横で、俺は対して力もいれずひたすら数字を並べ、解き方を教えるのだろう。数学の答えはいつも決まっている。決められた数字を書かなければ点数は与えられない。けれど国語は違う。俺はそれが苦手だから、古典も例に倣っていた。それだけの話。それが、今さら変わろうだなんて、少し笑えた。
それでも聞こえてくる声がこの耳に届くかぎりは、俺のなかで変わるものがあるのだろうと、すがってみるのも悪くない。

「不完全の美。兼好法師は物事の“始め”と“終わり”が持つ不完全さや、不誠実さに美を認めて価値を置いた」

それを口にする園村自身が、“不完全”ではない気がするのは、きっと気の所為なんかじゃない。

「不完全なものが完結する姿を想像したり、没落したものが過去に栄えていた最盛期を想像する事、そこにこそ趣がある、と。兼好法師のその考えに対する意見は様々で、僕はその考え方が素敵だと思いました」

それが素敵だと思うのは、園村自身が完全だからだろう。だって、満開の桜が美しいのは事実だし、どうせ見るなら綺麗な月を見たい、誰かを愛せば結ばれたいと思う。それを差し置いて素敵だというのだから、俺とは違う。 ひとつ言うなら、園村に不完全な部分があるとして、それは暴いてみたいと思う。暴いて、完全へと思想を巡らせ、園村が古文を読むように愛でたいと思う。そして、愛を囁くような音読と同じように、俺の名前を呼んでほしいと懇願するのだろう。
それが俺と、園村との違いで。そして俺の一方通行なのだろう。


 
 


( 俺の中での正解は不完全を嘆かないこと )







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