二十万記念SS
凛太郎と遥のちょっとしたすれ違い
***
「どうでもいいと思ってるのは、志乃の方じゃないの」
りんの、赤くなった目が訴えていた。泣きたいのは僕の方だと、俺の涙を柔らかく拭いながら。
目が赤い理由
「なんか…」
「……なんだよ」
「りんの機嫌が悪い」
そうかー?と、まるで他人事みたいに…まあ他人事なんだろうけど、じゃなかったら逆に嫌だけど…あくびをしながらりんを振り返った樹は、そのまま目を擦って立ち上がった。
「え、わかんない?」
「分からん。むしろ、俺にはお前の方が不機嫌に見えるけど」
「……」
「まあお前もあんま考えすぎんなよ。病み上がりなんだし」
戻るわーと、だるそうに言い残して樹は教室を出ていった。俺が不機嫌?そんなこと…いや、あるかもしれないけど…だって、昨日からやたらと副会長がりんを捕まえるのだ。今だってわざわざこのクラスにやって来て、堂々とりんを呼びつけた。面白くないのは当然じゃないだろうか。もちろん、りんに対して不機嫌になっているわけじゃない。あくまで副会長に対して、だ。
そのまま俺はりんの方へと足を向かわせ、副会長に微笑みかけるその目に手を翳した。
「わっ、あ…志乃?」
ゆらりと揺れた体を後ろから抱き寄せ、りんに見えないよう副会長を睨む。
「もういい?」
「ああ、ごめん。志乃も音羽に何かあった?」
「別に…そうじゃなくて」
「あ、そうだった、音羽がこの前読みたいって言ってた本、持ってきたんだ」
「えっ」
嬉しそうな声をあげたりんが、するりと俺の手を逃れて副会長を見つめた。ああ、いやだな、そんな目で自分以外を見てほしくない。
「借りて良いの?」
「もちろん」
「ありがとう!あ、でも、返すの遅くなると思うよ?」
「全然いいよ。ゆっくり読んで」
「ありがとう」
にこりと微笑んだ副会長は、りんが本に視線を落としたとたんに俺を見て勝ち誇ったように口角をあげた。そんな彼に、頭の中で切れちゃいけないものが切れたような気がして。無意識に唇の端がひくついた。
「あのさ─」
「じゃあ、僕戻るね」
「あ、うん、読み終わったら返すね」
「ん。じゃあ、また。志乃も、お大事に」
「もう元気だし」
休んだのは昨日一日だけ。それなのにどうして、樹も副会長もそれを知っているんだ。同じクラスや部活をしているなら分かるだろうけど、どちらも違う。顔を会わせない日だってあるというのに。たった一日寝込んだだけなのに。それを茶化すように言われてもちっとも嬉しくないし、そのたった一日が寂しくて仕方なかった俺としてはりんちゃんを独占したくてたまらないのだ。
りんは遠ざかる副会長の背中をしばらく眺めたあと、「志乃、くっつきすぎ」と少し眉を垂らした。変だ。言いたいことがあるのに言わない顔。唇が言葉を紡ぐことを止めるように噛まれた。
「…りんちゃん、次の授業サボっちゃダメ?」
「具合悪いの?」
「違うけど」
「じゃあちゃんと出なきゃ。休んだ分─」
「ごめん、お願い」
「えっ、あ…ちょ、志乃!」
教室を出た瞬間チャイムが鳴った。
何をふくれてるんだと、樹に笑われそうな顔をしている自覚はある。それでも、今りんちゃんを前にしてたら、本音がボロボロと口から出ていってしまいそうだ。でもそれをして愛想をつかされたらと思うと、怖くて仕方ない。
掴んだつもりだったりんの腕は、気づいたら手の中にはなくて。
「志乃っ!」
俺の足はサボる時の行きつけである旧校舎の生徒会室の前で止まった。その時背中に響いた声に、はっとしてそれに気づいた。
「りん…」
「も、走るの、速い」
「……」
「病み上がりなんだから、そんな─」
肩を忙しく上下させて、なんとか呼吸を整えようとするりんは、膝に手を当てて腰を曲げた。決して大きくない背中が、それでもやっぱりいつもより小さく見える。それはきっと、やっぱり、何かあるのかもしれない。
「りん」
俺は生徒会室のドアを開けると強引にりんを引っ張り混み、ガチャンと鍵をかけた。驚いたように目を見開くりんをそのままソファーへ倒し、ギシギシと音をたてたそこに押さえ付けた。
「……」
まっすぐ、いつもならそらさない視線が。少しだけ気まずそうに揺れた。
「どうしたの?なにか、怒ってるの」
「……りんこそ、なんか、昨日から変」
「ぼ、くが?」
「何か機嫌、悪いみたい」
「それは志乃の方でしょ」
「俺は!…そ、の…りんちゃん何か変だし、副会長……」
「森嶋?森嶋に対して、怒ってるの?」
「いや、そうだけどそうじゃなくて…今は俺の話じゃなくて」
イライラする。言いたいことが言えなくて、きちんと伝えられなくて。本当は素直に聞きたいのに。
「っ、痛…志乃、手…」
「りん」
今自分はどんな顔でりんを責めているのだろうか。僅かに不安げな色を浮かべるりんの目が、小さく揺れる。押さえつけた手が、なんとか逃れようともがくのを自分の手で感じながらそれでも離してあげることはできなくて。
「…」
「痛いってば…」
本当に痛そうに眉をしかめたりんに「俺も痛い」と小さく落とすと、抵抗が僅かに小さくなった。
「志乃?何で泣いて…」
泣いてない。言おうとしてハッとした。いや、泣きそうじゃないかと。りんがじわりと滲み、緩く霞む。ああ、情けないなあ。どこか冷静に、他人事みたいに、俺は重力に従ってぽとりと落ちる涙の感覚を静かに受け止めた。
そんな俺を、りんが驚いたように目を見開いて見つめた。
「やっぱりまだ、具合悪いの?」
「……ううん」
「いやでも…」
「そうじゃなくて…俺は、」
「…言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
「っ、りんちゃんこそ!」
いい加減うじうじする俺が気にくわないと言いたげな目が、一瞬ぎゅっとしかめられた。つきん、と痛んだ胸にまた涙が落ちて、無意識に唇を噛んだ。
「僕は心配してるだけだよ」
「心配?」
「うん。志乃、突然休むから。連絡も夜までつかなかったし。一日動けないくらい辛かったなんて知らなかったし、心配して当然でしょ」
「……」
「そりゃあ…僕に熱があるとか体がだるいとか言っても何もしてあげられないし、ずっと側にも居てあげられないけど…でも、それでも教えてほしかったなあって」
そんなことで少し不機嫌な雰囲気だったのかと思ったのが顔に出ていたのか、今度は盛大に眉を寄せたりんが力の抜けていた俺の手を振り払って両頬を思いきりぺちんとその手で挟んだ。ほんの少し痛かったけれど、それより音と衝撃に肩が大袈裟に揺れた。
「でもごめん、それで不機嫌だって思わせたなら」
「……り─」
「会いに行こうとも思ったんだけど…連絡付かないのに行くのもだめかなって思って結局行けなくてずっと心配してた。だけど昨日学校来た志乃、ちょっと怖かったから余計心配になった」
「えっ、」
「不機嫌そうで、あんまり喋らないし、こうやって…ちょっと乱暴だし、僕何か怒らせるようなことしたのかもって…それで一日連絡もなかったのかもって思ったら、なんか…」
「ちょっ、待って待って」
「……」
「なに、俺が?え?」
「違うの?それとも森嶋と何かあったの?」
ちぐはぐのまま紡がれていくりんの声が、困惑ぎみに途切れた。どこからすれ違った勘違いをしていたのか、考えてもわからない。
俺は、副会長にりんとられちゃいそうで、それが面白くなくて…と、本音を言葉にしてしまったら、心配してくれたりんを軽んじてしまう気がした。
「志乃?」
「…ごめん」
「何に謝ってるの?僕が言った通りだから?」
「違う、そうじゃなくて…りんに余計な心配とか迷惑かけたくなくて、体調悪いことあえて言わなかった…言ったらりんは会いに来てくれるかもって、思ったけど、でもまおちゃんの迎えとかご飯の支度とか、それ放り出すなんて出来ないこともわかってたし、だからそんな期待したくなかったし…」
「それでも教えてほしかった。誰か側に居るならいいけど、一人だったなら尚更。心細かったでしょ」
だからそれを出来るだけ考えないように携帯を放置して、寝るんだと無理やり布団に潜っていた。
「……」
「ごめん、責めたい訳じゃないよ。ただ、そんなに頼りないのかなって」
「、そんなことない」
そっと、りんの手が胸を押した。
やんわりと拒絶された。そう思ったときにはもう、ぽたりぽたりなんて、そんな緩い表現じゃおさまらないくらいの涙がこぼれていた。
「えっ、」
「ごめん、ごめんね。俺、動けなくて、一人で寂しかったし、りんちゃんに会いたかったよ。声聞きたかった。でも一日我慢して寝てればきっとなおるから、迷惑かけたくないからって…だから、昨日一日ぶりなだけなのにすごくりんが恋しくて…」
震える声が、自分のものじゃないみたいだった。
「独り占めしたいと思ってた。でも、副会長がりんのとこよくくるし、りんもなんか俺に冷たくて、なのに副会長にはいつも通りで…も、なんか、不安で…」
言わなきゃわからないよね、ごめん。
なぜか、先にそう言ったのはりんの方だった。それは俺が言うべき言葉なんじゃないのかと、思ったけれどもう声は出なくて。ただただ漏れそうになる嗚咽を抑えるしか出来ない俺を、ソファーから起き上がったりんが覗き込んだ。でも目を合わせられなかった。
「頼って」
「…でも」
「大丈夫だから。ね、」
「……ん、」
「ほら、泣かないでよ。目真っ赤だよ」
「りんちゃん、抱き締めて」
まおちゃんの手を繋ぐ手が、料理をする手が、洗濯物を畳む手が、濡れた頬から離れそっと後頭部に回された。
「ごめん、押さえ付けて…」
「痛かった」
「ごめん…」
柔らかい髪の毛が頬を撫でて、なんだかそれがたまらなくてりんを抱き締め返した。
「もう、いいから」
「……好きだよ、りんちゃん」
「知ってる」
少しぶっきらぼうな返事が、けれど今はすごく嬉しくてもっと強く抱き締めた。りんは普段怒らないから、叱ることはあっても怒ったり喧嘩をしたりということがないから、どうしていいの変わらないのかもしれない。こんなの全然怒ったうちには入らないと思うけれど、それでもいつもとは違う感情的な態度を取ったことを後悔しているんだろう。たとえそれを、俺が嬉しいと言っても。
「やだね、こういうの」
「えっ」
「僕にはむいてない、かも」
言い合いとか険悪な雰囲気とか。だからこうなる前に、きちんと言うねと、りんは恥じらいながら小さな声で呟いた。
「うん。そうしよう」
そのあと離れたりんは目を赤くしていて。でも俺の方が赤いと言って笑うから、その可愛い口にキスをした。
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