十万記念SS
「残りの夏休み」
***
泳牙とめでたく“お付き合い”を始めたものの、その三日後。彼は帰ると言い出し、正直ものすごく嫌で、無理を言って一日だけ先伸ばしにしてもらった。それなのに。
「えーが」
「んー?」
「おい、こっち向けって」
サラサラとペンを滑らせ文字を書いていく泳牙。それが夏休みの課題であることはわかっていたけれど、しかもそろそろ終わらせなければやばいということも理解していたけれど。せっかく一日だけでも長く一緒に居られるのだ、面白くないのは当然。
「これ終わったらな」
「……じゃあ俺ちょっと寝る」
「ん、おやすみ」
「終わったら起こせよ〜」
「はいはい」
寝るなよ、って返事を期待したのも虚しく、泳牙は振り向きもしないで容認した。プールでの告白以来、こんな感じだ。二人でやり残した課題を必死にやって、息抜きに海へ行って、無駄に波に打たれたりして、そんな数日。
気まぐれにキスをしてみたり、触ってみたり。
本当はもっと触れたいと思うし、出来ればまだ帰らないでよとわがままも言いたい。その結果、一日だけ延びたのだけれど。これが限界だということは分かっている。夏休みはもう終わるのだ、仕方がない。そんな不貞腐れた考えを浮かべたまま眠りに付いた。
「……、…」
それからどれだけ寝たのか、たいして眠くはなかったはずなのに案外深く眠ってしまっていた。そんな、ぼんやりした頭で考えながら気づいたのは。
「…えーが?」
クーラーの効いた室内、畳の上に敷いた一人分の布団。俺は確かにその上に収まっていて。けれど明らかに窮屈なのは、そんな俺にぴったりくっついて泳牙が寝ているからだった。後ろから俺を抱き込むような形で、規則正しい呼吸を繰り返す泳牙。腹に回された褐色の腕に触れながら、起こしてっていったじゃん、と眠る前のことを思い出した。その腕の中で、ぐるりと体の向きを変えても泳牙は起きない。瞼だって、ぴくりとも動かない。
ちらりと、先ほどノートや教科書が広げられていたちゃぶ台に視線を移せば、そこはもう綺麗に片付いていた。
「…すげ、終わったんだ」
感心しながら「ごほーび」と、眠る彼の頬へ唇を押し当てた。硬い肌の感触に、ああ、普通に男だよなと改めて感じた。それでも好きだと思っている自分がなんだか可笑しくて、泳牙の背中へ手を回して厚い胸板へ擦り寄ってみた。
「…ん、飛翔?」
「あ、起きた?」
「……あれ、俺寝て、た?」
寝るつもりはなかったんだけどなあ、と呟きながら、まだ少し寝ぼけているのか泳牙は俺に回した腕に力を込めてきた。ぐ、っと密着した体は寝起き独特の熱が籠っていて。ぶわりと、泳牙の匂いが鼻一杯に広がった。
「苦し…」
「んー?」
二度寝しようとしているのか、その腕は緩むことなく俺を抱き締めたまま。
「泳牙」
「……」
「寝るのー?」
硬いほっぺをぐりぐりとつねりながら、なんとか少しだけ体を離す。こうして無防備に眠っていると、男らしく端整な顔つきをしているなんだなあと思う。失礼な話だけど、普段よりこうして寝ている方が断然、格好いいのだ。
「起きないとちゅーするぞー」
いいながら、もう顔は近づけているんだけど。
「いいよ、して」
「っ、寝たふりかよ」
「誰かさんがわがまま言うから、持ってきた分の課題必死こいてやって疲れた」
「え、まだあんの?」
「あるよ。あっち帰ったら徹夜でやらないとやばい」
なにその顔。全然やばそうじゃないし、そう言おうとしたのに、それは声にならなかった。少し開いた唇ごと、泳牙の唇に塞がれてしまったのだ。
「ん、」
「しばらく会えない分、もうちょっとこうしてよう」
軽く触れて離れた唇が、もう一度重なる。ふにふにと押し付けあうだけのキスを楽しんで、でも物足りなくてその下唇に吸い付いた。
「…餃子食べたの、ミスだったな」
「それ今言う?空気を読みなさい、空気を。これはあまーいキスをするムードですよ、泳牙さん」
すぐ近くのラーメン屋は、泳牙のお気に入りだ。店イチオシの豚骨ラーメンと、ニラたっぷりの餃子が特に好きらしく。最後に食べておきたいと昼に行ってきたのは数時間前。だが、確かに少し臭う。臭うけども。
「あ、飴貰ってきたんだった」
「え、あのくそ不味いミントのやつ?」
そう言いながらズボンのポケットをごそごそと探り、レジに置いてあったらしいミント味の飴を引っ張り出した。俺は要らないと言ったものの、泳牙はそれを自分の口に含ませて、俺にキスしてきた。
「ちょ、え…ん、あ」
俺もよく行くラーメン屋で、確かに美味しいのは認める。でも、あのレジ横のミント飴だけは本気で不味い。スッキリさせるため、と言われても、せっかく美味しくなった口の中がもったいなくなるほど、あの飴は不味い。その飴の味が広がるのかと思って、硬く口を閉ざした。
「飛翔、口」
「やだよ」
「なんで」
「俺それ嫌いだし、てかそれ知ってるだろ」
「大丈夫だから、ほら」
「も、うえ……」
「……」
「え、なにこれ、レモン?」
「正解。ゆうがくれた」
そうならそうと言ってくれ、ともごもごしてたらまたキスされた。寝転んで飴を食べたままキスをするという、なんとも危険な行為。それに気づいたのか、泳牙は器用に舌で俺の口からそれを拐い、ガリガリと音をたてた。
「は、なに噛んで─」
言い終わるより先に、それが俺の口内へと押し込まれた。帰ってきたレモン味の飴は、小さな欠片でしかないのに充分甘くて、すっぱい。
「っ、ん」
その欠片と唾液とを舌がかき混ぜるから、全てが溶け合うように絡まる。それにつられてか泳牙の背中に回した手に、力が入っていたらしく。ぎゅ、っと響いた衣擦れの音にそう気づいた。
「飛翔」
「ん?」
「口の中切れたらごめん」
「いいよ別に、それくらい」
鼻と鼻を擦り合わせながら笑うから、躊躇いもなく熱い息が交わる。その所為か、部屋は快適な温度なのに掌にじんわりと汗が滲む。なんだかこの感じやばいなあと思いながらも、さっきの続きを促す為に泳牙の下唇を甘く噛む。薄くて少しかさついた、けれど柔らかい泳牙の唇が、俺は好きだ。
「はいはい」
緩く重なった唇は、薄く開いていた所為ですぐ舌が絡まった。わずかに濡れたお互いのそれが、何度も吸い付いては離れてを繰り返す。それがきつくなるにつれて、後頭部に回された泳牙の手が髪を掴んで絡まって。このままずっと、こうしていられたらいいのになと、少しだけ開いた目で彼を見つめた。そんな俺の視線に気付いたのか、焦げ茶色の瞳がゆらりとこちらを見る。
「目は閉じましょう」
「無理。」
「はあ?ムードがどうのって言ったの飛翔だけど」
「うるさいなあ。あーあ、もうほんと明日帰んの?」
「帰るよ」
確かに泳牙は男前だけどさ、こういう場面でまでそういうの発揮しなくていいのに。ていうか、男前過ぎてへこむし、そもそもしばらく会えないということに何も感じていないのだとしたら立ち直れないくらいへこむ。
「もーなんだよ」
「なに、どうしたの」
キスは中断して、男らしい胸元に額を押し当てた。薄いTシャツ越しにその体温を感じて、むわっとした。いや、むらっとした。
「どうもしない」
先に好きって言ったのはお前の方なのに、いやもちろん俺も好きだけど。惚れた弱味、とかいうやつはないのか。硬い鎖骨におでこを思いきり押し付けて、なんとかやり過ごそうと試みたけど、意味なかった。
「たださ、なんか今ちょっとやばいかも」
「やばい?」
「んん」
“ムラムラする”なんて、言ったら泳牙はもっと俺を甘やかすだろうから。それに甘えてしまったら、これからしばらく会えないことに不満を抱いてしまいそうだから。何も考えずに会いに行って、怒られるっていうのが日常茶飯事になってしまいそうだから。この体温を交えてしまうのは、まだ先でいい気がして。
「もっとちゅーしとこ」
今はまだ、この唇だけを知っていればいいと思うんだ。
←