過去企画 | ナノ


十万記念SS
「図書室」

***

僕は図書委員で、そして市民図書館でバイトをしている。どちらも本に囲また、静かな空間で。僕はそれがとても好きだった。読書は好きだし、本の匂いも好き。さらに言えば、僕の恋人のバイト先である喫茶店は、壁一面の本棚がある。コーヒーの匂いがプラスされたその空間も、僕は大好きで。
けれど、学校の“図書室”というのは少し特別でもあった。と言うのも、お互いのバイト先ではないため、気兼ねく、そして自由に出入りできたから。僕が当番の日は、時間まで虎も一緒にそこで過ごした。

ほとんど人の来ない放課後の図書室で、恋人と過ごす、限られた特別な時間。そんな感覚だったのかもしれない。

「返却は一週間後です」

「はーい」

ぽつりぽつりと訪れていた人が絶え、もう今日は誰も来ないだろうと勘繰りながら、僕は手元の本へと視線を落とす。とりあえず時間まではそこで本を読む。
窓の向こうから野球部の声が微かに聞こえて、時おりそれに耳を傾けてみたり、吹き込む風の温度が変わるのを、頬で感じたりしながら。

週に一度の、図書室での時間。
それからどれだけ時間が経ったか、ふと見慣れた姿がないことに気づいた。
カウンターからは室内の大部分が見渡せる。けれど、棚の配置で死角になっているスペースもある。そこは需要の少ない古い辞書類が収められていて。もう誰も来ないだろうと、僕はその死角へと静かに近づいた。
いつもは僕の目の届く場所に座り、大人しく本を読んでいるのに。今日は移動したらしく、そこへ歩み寄れば。本棚の影から長い足が無造作に伸ばされているのが覗いた。

「……虎?」

秋の匂いが鼻孔を掠め、夕焼けの色が漆黒の髪を照らす。静かに揺れた前髪の向こう、切れ長の目が緩く閉ざされていた。壁と本棚の角に背を預け、穏やかに上下する肩。寝ているのだと気づくのに時間はかからなかったが、なんとなくそれが一つの風景のようで、触れるのが躊躇われた。
なるべく音をたてないようその隣に腰を下ろし、手にしていた本を再び開き、視線を落とした。けれど僅かに触れる肩が温かくて、呼吸の振動が心地よくて、いつしか本の内容が頭に入ってこなくなるほど眠たくなっていた。寝てしまう前に虎を起こそうかと、軽く目を擦ってから隣へと視線を流す。

「とら」

寝顔だって見慣れているはずなのに、ぴくりとも動かない瞼に、妙な不安が押し寄せて。無意識に、その瞼へと指を当て、そのまま頬へと滑らせた。

「、ん」

整いすぎた顔が少しだけ歪み、けれど瞼は開かないまま。代わりに、そっと手を掴まれ、抱き寄せられた。

「っ…」

背中に回された男らしい腕。愛しいその質量と、間近に感じる彼の息。

「虎?」

するりと背中を撫でた掌が、体の距離を埋めるように力を込めた。その力に逆らうことなく従えば、胸と胸が密着して。頬と頬が掠めあった。

「寝ぼけてるの」

「……んー」

「そろそろ、帰ろうか」

時間には少し早いけれど、虎を起こして戸締まりをすれば、ちょうどいい時間になるだろう。この、寝起きの悪さを計算に入れれば。

「虎」

無理な体勢で座ったまま抱き合い、必然的に耳元で囁く形になってしまい、出来るだけ静かに、名前を読んだ。覚醒を促す為のそれに、虎はぴくりと肩を揺らし、さらに強く僕を抱き締めた。

「と、ら…」

「……キス」

「なに?」

ぼそりと、呟かれた言葉。
元からの低音に、寝起きという拍車がかけられ、聞き取れなかった。問い返せば体に響くような低い声が、もう一度、今度ははっきりと紡がれた。

「キス、するのかと思った」

「お、起きてたの?」

「顔に触られた、時に」

はっきりと、ではないだろう。
緩やかに浮上し、僕の手が確かに触れていると気づき、反射的に抱き寄せた。と、いったところか。

「…鍵、閉めてくるね」

覚醒したことで緩められた僕を抱く腕の力。するりと抜け出し立ち上がろうとすれば、再びその手に捕まり。今度は正面から虎の足の間に収められてしまった。

「どうしたの」

やわく頬を包み込まれ、額と額がぶつかる。
閉ざされていた目が開き、漆黒の瞳がちらりと覗いた。伏し目がちでその目に何が映っているのかは分からないけれど、その果てしない色気に目眩がしたのは事実。それでもなんとか平常心を装えば、僕を試すように、虎の指が唇をなぞる。

「しねぇの…」

“キス”

「……して、欲しかった?」

長い親指が、僕の唇を弄ぶように押したり撫でたりを繰り返す。そこへ注がれた視線に、ぞくりと全身が栗立つのを感じた。同時に顔が熱を持ち、体の芯が疼く。

「して」

意地悪でも、からかいでもなく、または僕の反応を楽しむでもなく、虎は素直にそう言った。何も考えないで、ただ本能に従うままに。
僕はそっと虎の両頬に手をやり、ゆっくりと顔を寄せた。といっても、唇はすぐそこ。とても短いその距離を、それでも味わうようにゆっくりと。乾いた薄い唇に触れるだけのキスをして、すぐに離れた。温度さえ感じられないほど、本当に触れるだけの、掠めただけの口付け。

「もう一回」

言われるまま、次はもう少しだけ長くそこに触れた。

「蓮、まだ」

三度目、それはもう僕の意思では離せなかった。
虎の手がしっかりと僕の顔を掴み、啄むようなキスが繰り返された。ふにふにと虎の唇が僕のを挟んだり甘く噛んだりして、ここは学校だということを一瞬忘れた。

「虎、も…」

「もっと」

喋った所為で開いた口、すかさず差し込まれた舌が、口内を犯していく。そこでやっと、漆黒の瞳に僕が映った。けれどそれは濡れていて…水分によってではなく、欲情によって…僕は慌ててその胸を押した。

「ダメ、学校だよ」

図書室、誰も居ないそこは、どこか神聖だったのかもしれない。もちろん“学校”だから、ふしだらなことをしたくないというのもある。今更だけど、それを考える余裕くらいは、その瞬間には持ち合わせていた。

「…じゃあ……」

まるで獲物を逃がさないという獰猛な肉食獣のような目に捕まり、僕は動けなくなってしまう。その間に虎の顔が耳元へ寄せられ、支配力を孕んだ低音に、完全に自由を奪われた。

何でもない日の、穏やかな時間。
たまに訪れるそんな危うい空気さえ、僕にはとても心地よいもので。

「帰ったらセックスしよう」

ただただ愛しく、そして大切だと実感していた。





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