三十万記念
リクエスト:大人になった遥と凛太郎、イチャイチャ、お風呂
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ガチャンと、変わらないドアの開く音。それに溶けるように響く「いらっしゃい」という声。穏やかに響くその声に「お邪魔します」と返して靴を脱ぐ。
‘ 39℃ ’
「ご飯出来てるから食べよう。あ、お腹すいてる?」
靴を揃えようと身を屈めた俺からさりげなく上着と鞄を受け取り、朗らかに微笑んだりんは柔らかく俺の手をとった。通い続けた音羽家は今もあの頃のまま。変わったことと言えば、まおちゃんが中学に入って始めたソフトボールの練習でリビングの壁にボールをめり込ませた跡があるくらいだ。本人は投げるつもりはなく、投球フォームを見せていただけだったらしい。それが見事手から離れ、壁に穴を開けた。その話を聞いたときは笑ってしまったけど、まおちゃんは気にしているようで、それについては触れないことが暗幕のルールになった。
「うん、ぺこぺこ」
「良かった。まお居ないのにいつも通り作っちゃって」
高校を卒業してもう八年。それぞれ仕事をして、あの頃より自由に会うことは出来ていない。それでもこうしてたまに一緒にご飯を食べたり、休日が合えば出掛けたり、なんというか、照れ臭いけれど俺はそれで充分すぎるくらい嬉しいし幸せだ。
「すごいね、合宿かあ」
「ね。僕そういうの経験ないから今朝普通にお弁当渡しちゃって、まおに笑われた」
「えっ、お弁当どうしたの」
「持ってくと荷物になるからって学校送ってく車の中で食べてた。朝ご飯も食べたのに」
「りんちゃん身長抜かされちゃわない?」
「さすがにそれはない、と思うけど…」
まおちゃんは良く食べる。たくさん食べてたくさん運動して、お手本のような健康優良児だ。よく食べる、ことについてはまおちゃんの食欲や成長というより、りんの作るご飯が美味しいというのが一番の理由かもしれないけれど。
洗面所で手を洗い、リビングに入ると家に入った瞬間からしていた良い匂いが一気に濃くなり、ぐるぐるとお腹が鳴った。
「あはは、良かった。それだけお腹すいてれば美味しく感じるね」
「りんのご飯はいっつも美味しいよ」
「それはどうもありがとう」
「ほんとに思ってるよ」
白いご飯にたくさんの野菜を混ぜたサラダにチキン南蛮に煮物や和え物の小鉢がいくつか。りんは栄養士の仕事をしている。きっとこの料理一つ一つ、栄養価やカロリーいろんなことを考えて作られているんだろう。もちろん、食べたいものを食べたいように食べたいだけ食べることもあるし、お祝い事やパーティーなんかはそんなの気にしないで喜ばれるものを作る。そのどれも、本当にりんの作るものは美味しい。
今、料亭の厨房に立つ自分と、少し似ているけれどやっぱり違う。いつか、りんとご飯を作ってたくさんのひとに食べてもらえるような事が出来たら良いなと、俺は勝手に思っていて。まだ言えないのは自分がまだ一人前じゃないからだ。
「でも二人分のご飯って難しいね」
「あはは、そうだね、もしかして寂しい?」
「そりゃね。僕も行きたいくらい」
「ひどーい、俺来たのに?」
「それとこれとは別でしょ。ほら、食べよう」
お母さんも一緒に行くんだと、前会ったときに話したことはまだ記憶に新しい。あまり一人きりになるという経験がないりんに漬け込むみたいに、じゃあ家にお邪魔させてもらうと言い出したのは俺だ。
「美味しい」
「ほんと?良かった」
「めちゃくちゃ美味しい」
ご飯を食べて片付けをして、少しお酒を飲みながら話をした。仕事の話や家族の話、りんはそれを楽しそうに話して、俺の話もちゃんと聞いてくれる。そういうところ好きだなと、改めて思ったところでりんはそろそろお風呂沸かすねと腰をあげ。
「じゃあ俺、」
「え、」
「ん?」
「泊まってかないの?」
「あー…」
「あっ、ごめん、明日仕事だよね」
「へへ、嘘!泊まらせてもらうつもりだった!」
「…でも明日仕事だし、帰った方が」
「いーの、ここから行くし。久しぶりにゆっくり会えたんだし。ごめんってば」
少し意地悪するつもりが、謝られては折れるしかなくて。もう何度も泊まらせてもらっていて、服や下着の着替え、歯ブラシやスリッパなどいろんなものが“遥”のものとして置いてある。それがたまらなく嬉しくて、やっぱり幸せで、お風呂のスイッチを入れて着替えとタオルを持って戻ってきたりんを抱き寄せた。変わらないりんちゃんの匂いが鼻腔に広がり、胸がぎゅっとなるのが分かった。
この家に泊まるのは好きだ。りんちゃんと二人、狭いベッドで寝るのも、まおちゃんと三人で布団を敷いて川の字で寝るのも。夜更かししてDVDを見るのも、出掛ける前日なら翌日の予定をたてたり、そういうのがとても好きだ。でもそれと同じくらい思うのは、帰りたくないなということ。このまま一緒に住みたいなんて、そんなことばかり考えてしまう。
充分すぎるくらい幸せなのに。
それも口に出来ないのは、やっぱり自分の問題で。
「りんちゃん」
「ん?」
「一緒に入ろ、お風呂」
「一緒って…無理だよ、知ってるでしょ狭いってこと」
「じゃあ広いお風呂なら一緒に入ってくれるの?」
「え?あー、いや、」
「もー、俺だって恥ずかしいよ?でも一緒に入りたいなって。一人で待ってるの、寂しいし」
「…温泉、とかなら」
「それもいいけど、家でもたまには、ね?」
狭いと言いつつまおちゃんと入ってたことは知ってる。もちろん、まおちゃんは小さかったし、りんも今より少しは小さかった。だから無理なことはなかったんだろうけど…こういうことを話題にすると、油断して「お風呂の広い部屋に引っ越そう」などと言いそうになって困る。
「二人で湯船浸かれないよ?」
「じゃあ、もうお湯止めよう。溢れちゃうのもったいないし」
いつもの半分のお湯でも、二人で入れば溢れてしまうくらいだろう。そうと決まれば早く入ろうと、そのままりんを抱き上げてお風呂場へ向かった。
「ちょ、遥!」
「危ないから動かないで!」
「いや、でも、あ、待ってタオル!体洗うやつ、用意してない」
「いいよ、手で洗うから」
「手って…!」
どちらかと言えば俺の方が恥ずかしい気持ちは大きいと思う。いやまあ、りんも同じくらい恥ずかしいんだろうけど、なんていうか…りんは無駄に男前なところあるから、脱いでしまえば以外と平気とか思いそうだし…それでも高鳴る鼓動をそのままに脱衣所でりんの服を脱がせた。
「自分で脱げるから」
「脱がさせて」
「うわっ、ちょっと、」
「はい、先入ってて」
むすっとしながらもさほど嫌がらないのは、前に一度二人で温泉に行った時に確認済みだ。ただ、家で、というのは年頃のまおちゃんの目もあるし、何よりゆっくり出来ないから嫌、ということなんだろう。お世辞にも広いとは言えない浴室で、大人の男が二人でシャワーを浴びるのは確かに辛かったし寒かった。
「もー、いいよ、寒いし早く入ろう」
「遥が入るって言い出したんでしょ。ほら、まだ頭泡ついてるから」
「うー」
想像していたより甘い空気はなくて、普通にしっかり頭と体を洗いあっこしてやっと湯船に体を沈めた。下心がないとは言えなくても、少しくらい、キスの一つくらい期待していたのは事実。それを少し恥ながらりんを足の間に抱いて腰をおろすと一気に水面が上がった。同時に「狭い」と笑ったりんに同調して俺も笑うと、ちゃぷちゃぷと揺れたお湯が湯船の外へ溢れ出た。
「あっ、溢れた」
「あんまり動いちゃダメだね。でもお湯少なくて済むから節約にはなるよ」
「だからって一緒に入るなんてこれきりだからね」
「なんでー」
「遥肩も膝も出てるじゃん。寒いでしょ」
「くっつけば暖かいよー」
後ろからりんに抱きつき、濡れた髪に頬を擦り寄せる。同じシャンプーの匂いが鼻の奥を擽り、ほんのり赤くなった頬に唇を押し付けた。しっとりと濡れた頬はいつもよりずっと熱くて、やっとりんも恥ずかしさ、みたいなものを感じてくれたのかぎゅっと体を縮めて膝を抱いた。
「こっち向いて」
「狭いから無理だよ」
「じゃあ我慢する」
ぽたぽたと髪から滴る水滴が肩に落ちて、確かに少し寒く感じる。けれど、密着させた肌は暖かくてとくんとくんと心臓の音がお風呂場に響くのが心地よかった。
「っ、遥?」
「んー」
「なに?」
「なんでもないよー?りんちゃんの手好きだなーって」
お湯の中、自分の左手をりんの左手に重ねて指を絡めると抵抗もなく握り返してくれた。
「僕も好きだよ、遥の手」
「手だけ?」
「それ、遥が聞くの?」
「俺は全部だもん。手も、好きなの」
「はいはい」
「馬鹿にしないで」
「してないよ」
「…りんちゃん」
「してないって」
「指輪」
「え?」
「……指輪、買ったらつけてくれる?」
「えっ、ゆび…何の話、」
「ここ、薬指」
やんわりと指を解き、りんの薬指を軽く扱くとくすぐったそうに僅かに逃げられてしまった。それをもう一度捕まえて、体も抱き締め直して「指輪」と繰り返すとりんは予想外に少し顔を俺の方へ向けた。
「それ、遥が買うの?」
「え、うん、嫌?」
「嫌とかじゃなくて…何て言うんだろ、えっと…」
「仕事とか、指輪ダメなの分かってるし、買っても意味ないなら─」
「そうじゃなくて、ほら…僕もさ、男だよ」
「知ってるよ」
「いや、だから、男だからさ、指輪“買ってもらう”んじゃなくて…“買いたい”っていうか」
「りんちゃん!」
「へっ、うわ!」
ばしゃんと大きな音が響くだけで、りんの体は動かなかった。こっちに向かせようと動いても、湯船にぴったり収まっていては俺も身動きがとれなくて。結局中途半端な角度で無理矢理顔を寄せて唇にキスをした。やっぱり男前だ、と少し緩んだ口元のまま何度かむにむにと唇を合わせて「そうだね」と呟いた。
「ほんとに分かってる?」
「分かってる。今度、見に行こう」
「二人で?」
「二人で」
「…うん」
変に思われないかとか、お会計はどうするのかとか、そういう言葉を飲み込むみたいに今度はりんが顔を寄せて来た。濡れた黒い髪に紅潮した頬が色っぽくて、お風呂うんぬんではなく体の奥がじわりと熱くなった。
当然だけど、出会った頃より大人びたりんは本当に綺麗だ。ずっと心配していたけれど、これだけ一緒に居る今も心配でたまらないのは変わらなくて。だから、もっと一緒に居たいと思うし、周りへの牽制や自分の独占欲で俺の恋人だと思わせる印が欲しいと欲張ってしまう。
「俺も仕事中はめれないけど、お揃いが良い」
「うん」
「指輪交換か〜ドキドキするね」
そうだねと、少し呆れたように笑ったりんにもう一度キスをして、あと十秒ねと言うと緩んでいた口元がさらに緩んで頷いてくれた。
このお風呂に二人で入ることはもうないかもしれない。でも、窮屈だって笑って溢れるお湯を見送ってキスをした今日のことを、忘れることはないんだろう。39℃を保つお湯の中、絡めあった左手の指は自分達だけの秘密だ。ただ触れ合うだけの肌と肌は少しもどかしかったけれど、それが、たまらなく幸せだと思った。
「はーち、きゅーう、」
「じゅう」重なって響いた声で立ち上がったりんは、言い逃げするみたいに「先に部屋行ってる」とお風呂場を出ていった。
「すぐ行く!」
たぶんこれが、幸せの温度。
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