三十万記念
リクエスト:虎と蓮の大学時代、同棲、甘め
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変わったこと。
校内で会わなくなったこと、登下校で肩を並べなくなったこと、バイト先、住む家、同じそこへ帰ってくるようになったこと。虎が前以上に格好良くなったこと、玄関に二人分の靴しかないこと。
‘おはよう、おやすみ’
「あ、蓮」
「おはよう」
「おっす。お前、それどうしたの」
「え?」
「その腕時計。でかくない?」
「あー、借りた。昨日携帯壊れちゃって。今日学校終わったら携帯ショップ行くんだけど、それまで時計ないの不便かなって」
自分の手首には少し緩い時計は、虎が今朝貸してくれたもの。自分のものもあるけれど、虎が貸すと言ってつけてくれたからそのまま学校へきた。困るほどサイズが大きいわけではないけれど、一目で大きいなと思わせるそれを軽く撫でる。
「えっ、携帯壊れたの?てか、それめっちゃ良い時計だぞ、知ってんの?」
それ、と指差された時計について、もちろんこれが大学生の僕らにとって高価なものだということは知っている。
「大丈夫、落としたりしないし」
「心配だなおい。貸してくれたのって、同居人?」
「うん」
高校を卒業して一年。僕と虎は違う大学に進学したけれど、大学同士はさほど遠くなく、一緒にアパートを借りて住んでいる。所謂“ルームシェア”だ。親ももちろん大賛成してくれて、本当は疚しいことだらけの“同棲”なのに僕らは何でもない顔で去年一年を過ごした。
一応それぞれの寝室が確保できる2LDKの、お互いの大学の中間辺りの場所。
「ふーん。あの無駄に男前の幼なじみか」
「そう、格好良い幼馴染み」
お互いそこに友人をつれてくる、ということはほとんどない。それでも大学まで迎えに来たり、僕と虎が一緒にいるところを見られたりと、意外と虎は僕の周りの人に認識されている。たぶん僕も、虎の友達に名前くらいは覚えられているだろう。というのも、虎はちょっとひくくらいの男前だから誰の印象にも残る。それにくらべて自分は、という意味で。
「俺初めて見たとき芸能人だと思ったもん。ほら、中庭のベンチで蓮のこと待ってたじゃん、去年の夏頃だっけ」
「そうだね、夏休みの少し前くらい。普通にサークル勧誘されてたよね」
「そうそう。俺芸能人のドッキリかと思った。こんなところにいたら、みたいな。…にしてもあんな死ぬほど男前でその時計買えるくらい金持ちとか…なんか俺辛いわ」
時計はバイト代をコツコツ…かどうかは知らないけど…自分で貯めて買ったものだ。だからそういう言い方は違うなと思いつつも、口を出してお節介すぎると思われるのもの良くないかと、黙っておいた。
虎は格好良い。そんなことは分かっている。ただ、大学生になって、髪型や服装が自由になって余計に格好良くなったように思う。高校よりも広い視野を持って、それでも虎は目を引く“イケメン”だ。
「でも幼なじみと住んでるってスゲーな。仲良いよな」
「うーん、そうなのかな」
「男二人ってのもだけど。親戚みたいな感じ?」
「近いかも」
そんなイケメンが彼女を連れ込むときはどうするとか、逆に僕はどうするとか、そういう話は去年のうちにさんざんした。結論としては、それぞれ上手くやってる、という抽象的な言葉で締め括られている。付き合っているということは誰も知らない。
「あー、今日バイトないならカラオケ誘おうと思ったけど、用事あるなら無理か」
「ごめん、また誘って」
一日僕の腕にあった時計は確かに自分には少し重かったけど、普段虎の腕にあるものがここにある、というのは妙にドキドキした。虎と住むようになって携帯はあまり使わなくなった。バイトのシフトもサークルの日程も共同スペースに置いてあるし、連絡がない限り同じ部屋に帰ってくるという安心感があるから、だろう。
夜ご飯一緒に食べるかとか、今大学の近くだけど一緒に帰ろうとか、そういう急な用事がない限りほとんど虎からの着信はない。まあ、元々隣に住んでいて頻繁に連絡を取る必要もなかったし、そういうのが減ることに抵抗もなかったのだろう。
その日大学が終わってからすぐに携帯ショップへ行った。原因はよく分からないままで時間だけがかかった。それでもその日のうちに復活してくれた。ただすぐに充電切れになりそうだったから触らないでポケットに押し込んで家路についた。
予想していたよりずっと遅い帰りになってしまったなと思いながら適当に買い物を済ませて帰ると、アパートの前で虎と遭遇した。
「携帯は」と、少し驚いたように問うてきた虎に行ってきたよと返せば僕と同じように遅かったなと苦笑いして心配そうな目を向けた。
「なんか、修理出した方がいいかもってくらいだった」
「そっか」
一緒にエレベーターに乗ったところでさりげなく僕の両手にあった買い物袋をひとつ浚っていく。こういう無駄にスマートなところ、他所でもしてたら嫌だなと思ったことは内緒だ。
一年一緒に過ごした部屋のドア。鍵を差し込む虎の背中に「時計ありがとう」と告げたけれど、特に返事はなかった。ん、と頷いただけ。大人の男二人で靴を脱ぎ履きするには少し狭い玄関で、僕が靴を脱いだのを確認した虎はゆっくり手を引いて僕を廊下へ導いた。
「虎─」
「ただいま」
「お、かえり」
緩く口元を綻ばせた顔に、胸がきゅんと音をたてる。そんな恥ずかしいことは言えない代わりに僕もおかえりと呟いた。
「ただいま」
くすぐったい。
低く落ち着いた声がゆっくりと鼓膜を揺らし、じわりと体に染みる。ガサガサと買い物袋が音をたてる中、それでも確かに聞こえるその声。
「虎もどこか行ってたの?」
「んー、一回帰ってきてから本屋行ってきた」
学校終わりやサークル終わりにしては遅く、バイト終わりにしては早い。そんな微妙な時間。一回帰ってきたという痕跡が、洗われたお弁当箱や共同のリビングに置かれたリュックから見てとれる。そんな小さなことにも、ああ、一緒に住んでいるんだ、と感じる。
「駅のとこの本屋さん?」
「ああ」
「あそこ、本棚の並び方変わってなかった?」
「変わってた」
「友達でバイトしてる子が居るんだけど、短期のバイト雇ってもめちゃくちゃ大変だったって言ってた。僕も一昨日行ってきたけど─」
買ってきたものを冷蔵庫に片付け、話しながら自分の部屋に荷物を置いて携帯を充電器に繋ぐ僕に、背後から虎の手がのびてきた。僕の腕を掴んだその手はいつも通りひやりとしていて、どかしたかと問うても返事はなかった。
「虎?あ、時計?」
「…いい、まだ、してて」
「でも」
「いい」
肘辺りを掴んでいた手が緩やかに降下し、指先が滑らかに輪郭をなぞる。何とも言えないくすぐったさが残り、けれどその指が腕時計の隙間へ入り込む感覚にははっとした。
「とらっ」
ただ手首を撫でられているだけ、なのに…まるで密部を舐められているような恥ずかしさと怪しい感覚に目眩がする。それを楽しんでいるのか、大きな掌がゆっくりゆっくり、手首を撫でていく。そのもどかしさに顔を虎の方へ向けると、濡れたような黒い瞳には劣情が滲んでいた。
もう一度、名前を呼ぼうと口を開くとやんわりと唇が重ねられ、すぐに離れた。離れて、今度は下唇に噛みついた。まだ夕食をとっていない身としてはお腹が空いているはずなのに、なんだかこのまま行為に及びたい気持ちが込み上げてきて噛みつく虎の唇に吸い付いた。それを待っていたみたいに体の向きを変えられ、正面からキスが落ちてくるのを受け止めた。
「っん、あ」
立ったまま、顎を上げてするキスはふわふわしてあんまり好きじゃない。でも、それを虎がしっかり捕まえていてくれて、倒れる心配を払拭する。それだけでふらつく感覚も苦しいのも、快楽へ変わるのだから怖い。
じりじりと迫ってくる虎に後ずさり、ついに自分のベッドへ腰を下ろす。それと同時に虎もそこへ乗り上げ、僕に覆い被さるように馬乗りになった。
「ふ、くすぐったい」
やわやわとキスをしたり鼻先を軽く擦り合わせたり、それでも虎の手は僕の手首を捕まえたまま指で時計をいじっている。何がしたいのかいまいち分からないままキスに答えようと少し頭を浮かすと、僕の意図に反して虎の顔が遠ざかる。諦めて布団に後頭部を預けるとそれは近寄ってきて、また僕から近寄ると離れるというのが数回繰り返され、僕の「もうキスしないの」という問いかけで駆け引きは終わった。
無意識に口元が緩んでいるのに気づいたのはその時で、今さら引き締めても意味はなかった。
「する」
「っ、も、くすぐったい、って」
「して」
「避けない?」
「避けない」
一緒に住むようになって変わったこと、虎が前以上にベタベタに甘くなったこと。体を重ねることももちろんするけど、それ以上にこういう若いカップルみたいなことをたまにしたがるようになったこと。そんな前戯の一歩手前の戯れに、僕がドキドキして期待するようになったこと。
「じゃあ、起こして」
「ん」
腕を引かれて体を起こすとそのままの勢いで抱き止められ、どうしたのかと問うてみたけれど返事はなかった。
「しないの?キス」
「して」
「顔、こっち向けてくれないと出来ないよ」
無駄に男前、とは本当にこのことだ。
芸能事務所からのスカウトなんて全然興味がなくて、女の子からモテても迷惑そうで、運動部から誘われても楽しむ程度しか本気にならない。極めつけには男の僕と付き合っている。確かに、こんなに顔が良くなる必要なかった。向けられた顔を見つめてそんなことを考えて、頬をつまむと無表情のまま顔が伸びた。
「可愛い」
「れ─」
二人だけの部屋は、誰にも邪魔されない隔離された場所だ。キスをしても、セックスをしても、誰にも咎められない。同じベッドで寝ても、一緒にお風呂に入っても誰にもバレない。それが欲しかったわけじゃないし、それが目的にあったわけでもない。隣同士の家を行き来するのも好きだったし、誰か帰ってきたら、とドキドキしながらキスをするのも好きだった。
結局、何かが変わっても変わらなくても、虎が男前でもそうじゃなくても、自分の中にあるものはずっとそこにあるのだ。
「蓮」
「んむ、とら、…ご飯、何しよう、ね」
「あとでいい」
「で、も、ほら、もう九時回っちゃったよ」
普段うちで晩御飯を食べるならもっと早い時間だ。作るのが面倒な時間、を越えてしまった気がするのは仕方ないだろう。今から外へ食べに行っても良い。でもせっかく買い物もしてきたしなと、虎に腕を向けると重なっていた唇が離れて手の甲にキスが落とされた。
「虎っ」
「蓮の匂いがする」
「あっ、」
虎はそう言うと僕の手首にされていた時計にキスをして、ゆっくり僕を押し倒した。変わったことはたくさんある、でも変わらないこともあって、それは虎が優しいこと、僕が虎を好きなこと、ほっとくと虎は偏食になること、携帯の着信音、それから、この部屋に帰ってくると虎の匂いがすること。玄関を開けた瞬間虎の匂いだ、と脳が認識すること。けれど、不思議なことに、虎は僕の匂いがすると言う。同じ香水をつけることがあっても、同じように同じ洗剤を使って洗濯をしていても、シャンプーや石鹸を共有していても、それぞれの個体の匂いは違うはずなのに。
服を全部脱がされても腕時計は外されないままことが進んでようやく、虎はもしかして自分の時計を僕がしていることに欲情したんだろうかと気づいた。確かに、逆の立場だったら僕も嬉しくなるだろう。そこに虎の匂いが染み付いていたら、なおさら。
「そっか」
「は?」
「なんでもない。虎のこと、好きだな、って」
「そうか」
「うん、好き」
変わらないこと、虎の手の温度が低いこと、虎が無口なこと、キスをするとき虎が目を閉じないこと。それから虎が僕を好きでいてくれること。「俺も好きだよ」なんて甘い言葉は気まぐれにしか返してくれないこと。
「俺も」早く会いたかったと、その口から聞いたのは僕が復活した携帯を開いてからだった。
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from:愛嬌 虎士
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