二十万記念SS
「転生」
***
小学校四年生の時に飼い始めたラブラドールのナナが死んだのは、もう三年前のことだ。賢くて、格好よくて、俺になついていて、大好きだった。
「瑛人、別れたい」
どうしてそんなことを急に、この場面で思い出すのか。
「そっか、分かった」
全然関係ない、けれど。たぶん、三年前の悲しみ以上のものを、俺はまだ経験していないからだ。大学生にもなって、大泣きしたことをよく覚えている。それ以上の悲しみを、俺は知らない。今目の前にいる、五年も付き合った彼女と別れるということも、それにはあたいしないらしい。俺があんまりにもあっさり頷いたからか、ぴしゃんと頬を平手打ちされた。だったら嫌だと引き留めれば良いのか。そんなことをして繋ぎ止められるようなら、始めから別れたいなんて言わないでほしい。
「俺、仕事戻るから。ごめん」
傷ついた顔をされたことに、自分の胸が少しだけ傷ついた。よく分からないけれど、ぴりりと痛んだ気がした。そんな安っぽい恋愛、と思ってしまったのかも知れない。別に、こんなの悲しいことじゃない。
転生
「おー、瑛人〜休憩長すぎ」
「すいません」
「で、修羅場ってきたのかあ?」
ニヤニヤしながら食器を洗う店長の横を通りすぎ、用意されていた賄いを無理矢理口に押し込んだ。
「ご馳走様です」
「もう少し味わえよ」
「別に、修羅場ってほどじゃないです。俺が一方的にフラれただけなんで」
相変わらずニヤニヤする髭面を憎たらしく思いながらエプロンをつけ、ランチからディナーへとメニューを替える。
「あ、瑛人」
「何ですか」
「真北の後任で入った新しい子、今日来るから。ランチとディナーの間に必要なもの取りに」
それ、まさに今この瞬間じゃん、と思ったと同時にcloseの札が掛かったドアが開いた。カラン、と小気味良く響いた音に、俺と店長の視線がそこへ注がれた。
「おー、七瀬くん」
「すいません、遅くなりました」
「あー、平気平気。こっちおいで」
真北さんはシェフ見習いでここにいた人で、もう何年も働いていたのだけどついに自分の店を出すことが決まってここを巣立っていった。店を出すことが決まったと同時に募集した新しい人はなかなか見つからなくて、遂には真北さんが辞めるまで見つからないままだった。それが昨日、急に決まった。らしい。
「こちら七瀬くん、26歳。先月まで埼玉のフレンチレストランで働いてたらしい。今はこっちに越してきて、近くのアパート住まい。で、七瀬くん、あっちがウエイターの瑛人。23歳、フリーター」
「正社員だろ、ここの」
店長は昨日も会っているかもしれないが、俺は初対面だぞと言う言葉を飲み込み、軽く会釈した。そんな“七瀬くん”は、ゆっくりと視線を流して、真っ直ぐ射抜くように、じっと俺を見た。
「瑛人…くん」
「あ、うん、よろしく」
「お前年下だろ。あと、もう一人バイトのウエイトレスの女の子がいて、その子は土日だけ。週末まで楽しみにしててね」
詳しい事情が話されることはなく、ただひとつ言われたのは彼は三年前まで、入退院を繰り返していたと言うこと。だから体は少し、弱いから気を付けてみてて、と。それだけ言い残して店長はスタッフルームへ連れて行った。その途中で、あまり表情の変わらない七瀬くんは俺の方をちらりと見て、目が合うとしばらく見つめ合てから、ぱっと逸らしていった。
それから十分ほどして「おーい、瑛人〜俺仕込みあるから、七瀬くんに制服とか必要なもの渡しといて」と俺を呼ぶ声が響いた。
「はいはい」
スタッフルームに入ると七瀬くんから受け取ったらしい書類を、ガサガサとデスクに押し込む店長がいた。
「真北のロッカー使って良いから。中に物もあるから。じゃ、あとはよろしくね、先輩」
「さっさと仕込みしてください」
ひとつため息を落としてから七瀬くんを更衣室へ案内し、真北さんの使っていたロッカーを開けた。
「ロッカーはここ、使ってください。あと…これが制服で…うん、ぴったりそう」
平均より少し高めの身長だけど、恐らく店長の予備である制服は彼にぴったりそうだった。
「制服とかタオルとかは俺が洗濯するんで、あがったらあそこのカゴに突っ込んで帰っていいです。あと…タイムカードが…これ、で。あ、手洗いとうがいはあっちの洗面台で」
「あの、瑛人、くん」
「ん?」
「えっと、」
「ごめん、分かんないことあった?何でも聞いてください」
この人、帽子被ってるからよく見えないけど、意外とイケメンかも。なんとなくそんなことを思いながら、顔を覗き込んだ。
「あ、いえ…前の職場、年離れた人ばかりだったから、なんか、緊張してて」
「ああ、大丈夫ですよ、店長あんなんだけど意外と年だし、俺でも続けられてる職場だから、七瀬くんなら大丈夫」
「あ、ありがとう」
素直に、年の近い人が入ってくれて嬉しいと言えば、真っ直ぐに俺を見る目がキラキラと輝きだした。あ、可愛いと思ってしまった俺は、もう恋人と別れたことをふっきっていた。
「瑛人くんは、ここ長いの?」
「んー…高校から大学までバイトして、卒業してから正社員にしてもらったから、もう七年、かな」
うわ、意外と長くあの店長とやってきたんだなと実感しつつ、店のことを説明した。時折、じっと俺を見る七瀬くんの視線にどきりとして、それを誤魔化すように関係ないことを聞いたりした。
「七瀬くんは前のレストラン、どうしてやめたの?」
「あー…お店、つぶれちゃって。俺、勉強とか全然分からないし、退院する前の記憶も曖昧で…仕事探すの大変だったから…こっち、出てきたんです」
「そっか…」
「だから、店長さんには感謝してます」
確かに、素性があやふやな人間を雇うのは危険だ。それを全く考えないうちの店長がいて、この人は心の底から感謝しているんだろう。きちんと本当のことを言ったから、店長も信用したのかもしれないし。
「俺、このすぐ裏のアパートに住んでるから、何かあったら声かけて」
「ありがとう」
何となく、本当に何となくだけど、この人は嘘がつけなさそう、だし。
「じゃあ、明日は10時に、こっちの裏口から来てもらっていいですか」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
黒いキャップをとって、深々と頭を下げた七瀬くんは思ったよりも明るい茶色の髪をしていた。と言うよりミルクティーみたいな色だ。短めの襟足だから気づかなかったんだろう。
「あ、瑛人くん」
「はい?」
「また会えて良かったです。明日から、頑張ります」
あれ、俺この人と前に何処かで会ったっけ?記憶にはない。こんなにも俺を真っ直ぐ見る目、前に会っていたら忘れそうにないんだけど…澄んだ、薄い茶色の瞳だ。
「店長にも、挨拶してきますね」
あれ、知ってる、か?
全然思い出せない。
でも確かに、初対面でここまで俺が心開くのも珍しいかもしれない。
「店長、明日からよろしくお願いします」
「おー、仲良くやろうね〜」
「俺は瑛人。お前はナナ、よろしくな」
ああ、ナナに似ているんだ。だからこんなにすんなり、彼と打ち解けたのか。
賢そうな顔に、じっと俺を見る澄んだ目。クリーム色の毛並みに、大きな体。ナナに、そっくりだ。
「じゃあ、瑛人くん、また明日─」
「七瀬くん。あの…ナナ、って呼んでも、いい?」
驚いたように見開かれた目が、またキラキラと輝いた。嬉しそうに頷いた“ナナ”は、そっと顔を寄せてきて額と額を擦り合わせた。ああ、これもナナみたいだ。ナナの癖で、俺がナナを触るときの習慣。
でも、まさか彼が本当に“ナナ”だと思ったわけではない。なのに、俺は抵抗なく彼を受け入れていた。初対面の、しかも男に顔をすりすりされるなんて、普通じゃない。する方も、受け入れる方も。もう少しあとで、それについては考えよう。そう考えていた時点で、本当は淡い期待を抱いていたんだろう。
「あ、ごめんなさい、馴れ馴れしくして」
慌てて離れたナナは項垂れて、叱られるのを察した犬のように眉を下げた。それがなんだかおかしくて、可哀想で、可愛いと思ってしまって、思わずクリーム色の頭を撫でていた。
「大丈夫」
あ、やばい。気持ちいい。見た目より柔らかい髪に、胸が震えた。同時に、思い出してしまった。ナナを埋葬してやるとき、自分が祈ったことを。
ナナは俺だけに従順だった、いつだって俺の帰りを待っていた、家出をすれば家を抜け出して探しに来てくれた。ナナは必ず、俺を見つけてくれていた。
「ナナ、また俺のことろに来るんだぞ」「三年もかかったけど、ちゃんと見つけたよ、瑛人くん」
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