甘い匂い
四十万打企画
リクエスト:虎蓮、蓮の嫉妬
***
虎は格好良い。
印象的な顔、というよりはキリッとしていて鼻筋が通っていて、こう、色っぽくて男前だ。背も高くて、すれ違った人は八割振り返る。僕はテレビの中のどんな俳優より、紙面のモデルより、虎が一番格好良いと思っている。小学生の頃から格好良いねと言われ、中学高校と虎の事を好きな女の子がたくさんいたことも理解している。今も大学ではモテているだろう。
じゃあ、それに慣れているからと言って虎が女の子にモテることを何とも思わないのかと問われたら、答えはノーだ。もちろん、僕を好きだと言ってくれる虎を疑いはしない。僕が嫌だなと思うのは、虎どうこうではなくて、その女の子たちが虎に触れることだ。
「虎くんの彼女見たーい」
そう、たとえば、腕を触ったり、髪が虎の肩にかかるほど近づいたり。
「園村くん、どうかしました?」
「えっ、あ、ううん。ごめん、何でもないよ」
虎が僕のバイト先に来るなんて珍しくて、それも大学の友達数人と。僕は驚いて、思わず「どうしたの」なんて言ってしまった。大学に入ってから始めたコーヒーショップのバイト。そのお店は虎の大学方面から来るには“わざわざ”が付くくらいの距離だろう。ここまで来なくとも、大学の近くにいくらでもカフェはあるからだ。僕の反応に、一人だけ何度か見たことのある虎の友達が「蓮くんだ」と笑ってくれた。その子以外は知らなくて、知らない顔に知らない名前。それでも会釈をして、少し嫌そうな顔をしている虎に注文をとった。
それから一時間ほど。
虎を含めて男が三人女の子が二人。虎の隣には可愛らしい小柄な女の子が座っていて、注文したホワイトモカの入ったカップを両手で持ちながら楽しそうに笑っている。虎が大学で、僕のいないところで普通に友達と楽しく過ごしているのが分かって安心しているはずなのに、それよりずっと胸がモヤモヤする。
きっと話を聞くだけならいいのだ。目の前で、自分の知らない誰かが虎に触れているのが嫌なんだろう。
「虎の彼女ってあれだよ、頭良くて綺麗で家事全般なんでも出来てしかもエロいんでしょ」
「えっ、そうなの?どこ情報?」
「本人情報」
「そうなんだ、友達になりたいな〜今呼んでみてよ」
「……」
「出たよ無視」
虎はほとんど喋っていないものの、客足の少ない店内には彼らの席はとても賑やかに感じる。
「俺も話聞いただけで見たことないし、呼んでみてよ」
「バイト」
「まじ?どこでしてんの?」
「教えねぇよ」
面倒くさそうに頬杖をつき、虎は視線を泳がせて僕の方を見た。けれどすぐに、隣から腕をひかれて目は逸らされてしまう。虎は本来人から好かれるはずなのに、自分から関わろうとする気がないからああいう態度だけど、それでも仲良くなる人はたくさんいる。それは虎の根がしっかりしているからで、もちろん、そうじゃない人だっている。例えば、今隣でキラキラ笑っている女の子とか。
なんて、相手のことを知りもしないでそんなことを考えた自分がすごく嫌なやつに思えて、僕も目を逸らした。恥ずかしい。
「増井さん、僕トイレの掃除してから休憩入るね」
「あ、はい。すみません、お願いします」
掃除をして休憩をとって、戻ったらもう虎たちは帰っているだろう。帰り際に挨拶の一つもしたかったけれど、なんとなく見たくない気もする。そんなことを考えながら清掃中の札をドアの前にたて、手袋をつけて掃除を済ませた。
『ガチャ』
「、あ、すみません、今掃除─」
言いながら、振り返った先にいたのは虎だった。後ろ手にドアを閉めた彼は、ゴミをまとめて手を洗った僕を壁に追いやった。
「虎…ごめん、もう終わるから、ちょっと待ってて」
「なんかあった?」
「へ?」
甘い匂いのする手がやんわりと耳元を撫でた。期間限定のドーナツの匂いだ。
「何もない、けど」
「…そうか。うるさくして悪い」
「え、全然、全然それは、大丈夫」
他にお客さんが少ないだけで、彼らが特別騒がしいわけではない。
壁に貼られた掃除担当のサインのところに“園村”と記入したらもう終わりなのに、虎は僕を囲んで動かない。隔離された個室は周囲の音も聞こえず、虎の顔が近づく。切れ長の色っぽい目がじっと僕を見て、耳を触っていた手が頬を滑る。ひやりとしたその感触に僅かに肩が揺れた。
「すげー顔色悪いけど」
「僕?」
「ああ」
「…ごめん」
「なんで謝んの」
「…そうだね、なんでもない。大丈夫だよ」
「……来ない方が良かったよな」
「ちが、」
「もう帰るから」
近づいた距離に、キスするんだろうなと思った自分がまた卑しい人間に思えた。虎は僕の予想に反して一歩下がり、突然賑やかな友人とお店に来たことを気にしているようにもう一度「帰るよ」と呟いた。考えてみれば虎がここに来たのは一度だけで、それも、僕を迎えに来て待つ間にコーヒーを一杯飲んで行っただけ。
「っ、待って、違うから」
甘い匂いが遠ざかり慌ててそれを捕まえ、「ごめん、本当に違うから」と、言う途中で指を絡める。
「本当は来たくなかった」
「え…」
「蓮が愛想振り撒くの見たくないだろ。仕事って分かってるけど、客には関係ないし。見なきゃムカつきもしないのに」
だから今日はムカついてると、あっけらかんと言葉にした彼に力が抜けた。どうして先にあっさり言ってしまうんだろう。
「…僕も、見たくなかったよ」
「なにを」
「虎が女の子と仲良くしてるところ。友達って分かってるし、虎にその気がないのも分かってるけど、触られるとさすがに…」
「イラついた?」
「嫌な気持ちになった」
「蓮でもそういうこと思うんだな」
「、ごめん」
「だから謝ることじゃないだろそれは」
だってそれってただのやきもちじゃないかと、自分で気がついてしまった。付き合う前、虎は僕が他のことを考えると余所見するなと苛立った口調で言ったけれど、そうか、こういう感覚だった。僕だって同じように嫉妬していたはずなのに、少し幸せな時間が続くとすぐに忘れてしまう。気持ちが通じて、いつでも確かめられる距離に居ることを、少し怖いと思った。
「今日バイト休みになったから、家で待ってる」
だから真っ直ぐ帰ってこいと、絡まった指先にキスが落とされる。薄い唇の、けれど柔らかい感触に指先が痺れた。帰ったらもう一度謝ろう。嫉妬したことじゃなく、それを顔に出したしまったことじゃなく、虎の友人を一瞬でも悪く思ってしまったこと。きっと虎はそんなの気にしないと言って鼻で笑うのだろう。それから彼女が触れた場所にキスをして、僕だけが触れられる虎の唇にキスをしよう。
「遅かったじゃん」
「掃除してた。俺もう帰るから」
「えっ、帰っちゃうの?あ、じゃあ虎くんのおうち」
「悪いけど、用事出来たから」
「なに、彼女?急にすげー機嫌良よくなってる」
それは甘い匂い
まさにその通りだろう
たとえばそう、天然人たらしの嫉妬とか。