高校生の彼


百万打企画
リクエスト:年上×年下 歳の差

***

その日俺は、人生で初めて恋に落ちた。

( Boulangerie lumière )


朝はいつも焼き上がったパンの匂いが意識を浮上させる。
カタン、カタンと、心地のいい足音と、神経質に湿度や温度を確かめる張り詰めた神聖な空気の中。穏やかで温かな焼き立てのパンの匂いはまさしく幸せな朝の象徴だと毎朝思う。

物心つく前からずっとそうやって朝を迎えてきた。起きたらまず顔を洗うような、それくらい生活の一部で、日常に溶け込んでいて、それがあまりにも普通のことだったから。朝食に白米を食べたことがないという事実に驚かれた時、むしろ驚いたのだった。
時刻は五時。
学校に行くにはまだまだ時間がある。
どんなにゆっくり準備をしても、散歩をしてシャワーを浴びても。けれどそのどれとも違う、朝の習慣。顔を洗って着替えをし、キッチンに立って簡単なスープを鍋に用意する。それからベーコンを焼き、出た油をそのまま使ってフライパンに卵を三つ割り入れる。三人分のベーコンエッグを一気に仕上げたら、ケトルの電源を入れて部屋を出る。玄関を出てすぐの階段を降り、ぐるりと建物を半周して道に出る。店の看板はまだ出されていないものの、パンの焼ける匂いが周囲に柔らかく漂っている。

「母さん、ご飯食べれるよ」

「あ、おはよう。もうそんな時間」

「うん、おはよう。スープも目玉焼きも今ならそのままで温かいよ」

「ありがとう。すぐ行く」

店の入り口から覗き込んだ奥で、母親が慌ただしくこちらへ駆けてくる。そのさらに奥、おそらく聞こえてはいるだろうが返事のなかった父親にむけ「俺見てるから父さんも食べたら」と声をかけると、「おーう」とわかったのかわかっていないのか曖昧な声が響いた。
我が家の朝は早い。父と母の経営するパン屋はその早い一日の始まりを、もう二十年近く過ごしている。俺はそんな店先を丁寧に掃除し、焼きあがったパンを店頭に並べる。そうやって手伝えるだけのことを済ませて学校に行く、それが朝の日課だ。

「悪いな、すぐ戻るから」

「ん、大丈夫」

決して大きくはない店の中、圧倒的な種類があるわけでも、手頃な価格だと言い切ることも難しいパンが並ぶのを眺めながら、シンプルで余計なもののない、けれど温かなこの場所が大切で愛しく、特別だと思う。“Boulangerie lumière”と書かれた立て看板を店の外に出し、営業開始まではまだ少し時間のある店内で深呼吸を一つ。

いつもの朝だ、いつもの。
穏やかで静かで心地のいい、凪いだ海のような、春の陽射しのような。不純物の落とされた早朝の空気と、これから世界が目覚め活動を始める気配。ほんの数秒の深呼吸の後、「よし」と声を漏らしドアを振り返る。父さんがこだわって探し続けた、ビンテージの木製ドアだ。その取手を掴み、手に馴染む気持ちのいいノブを握り外へ押す。その瞬間、覚え切ったドアの重さを感じないまま扉は開き、「わっ」と短い悲鳴が小さく宙に浮いた。

「あっ、」

誰かが向こうからドアを開けたのだと気付くのに数秒。
気付くよりも先に、反射的にお互いが掴み合って支えていた手に視線が釘付けになる。
指先の、皮膚の、感触と温度。そのわずかな接触部分から全身に電気が走る感覚。声さえ出せないで釘付けになった手元、大人の、男の人の手首だと認識し、それからやっと店が開いていると思って中に入ろうとしてくれたお客さんかもしれないと思考が追いついたのだ。

「す、すみません!!

「こちらこそ、すみません。大丈夫ですか」

「はい、あの、怪我…」

「俺は平気です。店員さん?こそ、大丈夫ですか」

「はい、俺も。…あ、ごめんなさい、お店、まだなんです」

慌てて視線を上げると、仕事帰りなのかこれから仕事なのか、どちらにしても爽やかで気持ちのいい微笑みを浮かべた三十代くらいの男の人の顔があった。スーツの良い悪いも、カバンや靴の高い高くないも、俺には到底わからないし想像もできないけれど。それでもぶつかったスーツの触り心地や、落とした視線の先にあった綺麗に手入れされた靴や鞄の使われ方で上等なものなのだろうと漠然と思った。

「ああ、そうなんだね。前を通りかかったら、あまりにもいい匂いがしたから」

「すみません、開店は八時半で…」

「そうなんですね、じゃあ、また...日を改めます」

大通りから一本中に入った住宅街。
最寄りの駅からは徒歩数分、頑張ればその先の大きな駅までも歩けないことはない。学校や商店街もある。住みやすく、商売もしやすい場所だ。けれど、なんだかこの街にその人の出立ちは目立ち過ぎている。いい意味での平凡な場所、そこには不釣り合いな高級車みたいに見えた。それも失礼な感想だろうと思考を隅へ追いやり、すでに焼き上がっていたパンを振り返る。

「あ、あの、」

「はい」

「クリームパンは、お好きですか」

「え?あ、好き、です」

「す、少し待っててください」

その瞬間、俺はまだ触れたままになっていた手をやっと離し、自分が一番好きなクリームパンを紙袋へ入れる。まだ温かさを保った、簡単に潰れてしまいそうに柔らかいそれを、慎重に運んで入り口に佇むサラリーマンに差し出す。

「え?」

「あ、えっと…俺が買ったことにして、バイト代から天引きしてもらうので大丈夫です」

何が大丈夫なのか。
冷静に考えてみれば意味がわからない発言だ。それでもこのままこの人を帰してしまうのは躊躇われ、けれどまだ営業時間ではないため経営者でもない自分の独断で売るわけにもいかない。半ば強引に、迷惑でも良いからなんとか何かを残したくて。
掌に乗せた、父の作るパンの中で一番、ずっと一番好きなそれ。バゲットも、カンパーニュも好きだし、ドライフルーツやナッツがたくさん入った硬いパンも好き。スモークサーモンやアボカド、あんこやバターを挟んだ特別感のあるものももちろん。でも、小さい時からずっと、一番好きなのはこのクリームパンだった。

「せっかく、来ていただいたので」

整った顔が不思議そうに目を大きくし、恥ずかしくて目を逸らした俺にその人は小さな笑いを漏らした。恥ずかしい、変なことを言ってしまった、こんなのは気持ち悪いに違いない、そんな後悔を飲み込む。

「ありがとう」

「、」

「でも、やっぱり申し訳ないな」

「あの、本当に、」

たったひとつのパンを、それでも困ったように。呟いたその人は、俺が視線を上げるのを待っていたように小さく首を傾げ、同性でも見惚れるような優しくて甘い顔で微笑んだ。
こういうのを一目惚れというのだろうか。
ビビッときたとか、一目で恋に落ちたとか、そんなことを経験する人が本当に存在するのかと思っていた。一目見て何がわかるのか、何を好きになるのか、何を感じてこの人だと断定するのか。あまり深ぼって考えたことがあるわけではないけれど、それでも漠然と「そういう人もいるのだな」とひとごとのように思っていた。その“ひとごと“が今、自分のものとなり、クリームパン一つ分の質量とともに彼の手に攫われた。

「ありがとう。必ずまた来ます」

「…はい」

「あ、じゃあ、これ…」

その人はパンを落とさないよう、けれど丁寧に手に乗せたまま、もう片方の手でスーツのポケットから小さな四角いケースを取り出した。そして、「覚えておいてください」と、小さなカードを一枚。

「え、」

名刺だ。
高校生の自分には無縁の。
それをこの人は俺に差し出して「必ず来るので」と、本当に、本当に綺麗に笑った。一目惚れだと言ったのは自分だけど、こんな…こんな風に優しく微笑まれたら誰だって好意を抱くはずだ。俺はそれに泣きたくなって、でも泣いてしまったらもっと変なやつだと思われてしまいそうで、なんとか堪えて両手でその名刺を受け取った。そこには俺でも知っているような有名な企業のの名前と、彼の役職と名前がシンプルに印字されていた。

「あ、えっと…麦野です」

「麦野くん?」

「はい、麦野、あかりです」

「あかりくん…どんな字を書くの?」

「灯台のとうです」

「…そっか、いい名前だね。とびきり愛情が詰まってる」

「え、」

どうして、と問おうとして言葉が詰まる。その人が腕時計を見たから。あまり引き留めてはいけないと、俺も慌てて彼の背後にあったドアに手をかけた。

「すみません、本当に…」

「あはは、俺の方こそ…クリームパン、ありがとう」

「それしか出せなくてごめんなさい」

「今度来たらたくさん買うから大丈夫」

「、待って、ます」

それじゃあと、もう一度。
俺を完全に撃ち落とすように微笑んで。春はもうとっくに終わり、季節は梅雨へと向かっている。それでもその日、その朝、俺は。



人生で初めて、そしてただ一度の恋に落ちた。
高牧真太郎と書かれた、たった一枚の名刺に、せめてその恋が存在していたことを覚えていてくださいと祈りながら。

高 校 生 の 彼
( ようこそパン屋‘あかり’へ )







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