あ い ま い
百万打企画
リクエスト : 白くじらと群青の二人でお出掛けの話
***
高瀬とルームシェアを始めて三ヶ月。
付き合っているのかいないのか、曖昧なふわふわした関係で一日に数回ハグをする。キスはたまに額にされるくらいで、俺としては充分恋人関係なのでは、と思っているけれど高瀬はどうだろう。俺のことをどう思っているのだろう。
改めて聞くことも出来ないで、誘い出されるまま一緒に住み始めてから初めて外で待ち合わせをした。
「シマ」
白くじらと群青
( あ い ま い )
「あ、高瀬」
「ごめん待った?」
「ううん、平気」
空気が冷たくなり始め、夏の賑やかさが町から消え、からりと乾いた風を感じることが出来る。ほんのり甘い金木犀の匂いも土手に咲いた真っ赤な彼岸花も、気づいてからすぐに姿を消してしまうほど秋の始まりは短い。金曜日の午後、お互いにバイトがないから外でご飯でも食べようと約束をし、待ち合わせた駅のベンチで腰を上げると、走ってきたのか高瀬の額には汗が滲んでいた。
関係を曖昧にさせた日以来、高瀬は俺のことを“真広”とは呼んでいない。その所為というわけではないけれど、俺もなんとなく恥ずかしくて朔人とは呼べていない。そこから始めると言いながら、どうしても口の中まで持ってきたそれは声にすると「高瀬」になってしまうのだ。
「どうする?何食べたい?」
高瀬は立ち上がった俺に問いながら、スマホを操作して「まだ時間早いしどっか入るか」と足を止めて俺を見た。
「そうしよっか」
上着がないと薄手の服一枚では寒さを感じる。それでも高瀬は羽織っていたMA−1というものを早々に脱ぎ、駅に併設されたカフェに入った。ホットコーヒーとアイスコーヒーをそれぞれ注文し、何を食べようかと二人で頭を寄せて高瀬のスマホを覗き込んだ。
「シマ何の気分?」
「うーん、なんだろう…高瀬こそ今朝は何の気分だったの」
「いや、朝は…飯も行きたかったけど、なんか二人で外出たいなって思って。二人で出掛けるって買い物以外あんまりないじゃん、だからどっか行きたいなーって」
「……テーマパークとか?」
「ふっ」
「え、なに、違った?」
「ううん、そうじゃなくて…ふは、シマの口からそういうの出てくると思わなかった」
「逆に他に思いつくほどアクティブじゃないから」
「なるほど、シマ、行ったことあるの?」
「小学生の時、親と行ったのが最後」
「マジ?じゃあ今から行く?」
「えっ」
「六時から入園料安くなるし」
え、と顔を上げて目を見開くと、高瀬は俺の顔を見てまた笑い「シマがいいなら行こうよ」と大きく口を緩めた。そういう、子供みたいに笑う顔は特に可愛い。可愛い?俺なんかが可愛いなんて言葉を使っていいのか分からないけれど、間違った表現ではないと思う。
高瀬の手元の液晶は既に今いる駅からそこまでの電車の乗り換えを映し出している。俺としては電車に乗って出かけるのは好きだ、でも、夢の国で周りと同じようなテンションになれる気はしない。それが高瀬には申し訳ないと思いつつも、もう行く気に満ちている彼には言えないまま「いいよ」と答えた。
じゃあ行こう、と残りのコーヒーを一気に流し込み、俺は手を掴まれそのままカフェを出た。
「やばいめっちゃ楽しみ」
「笑ったくせに…」
「笑ってないって。本当はさ、映画とかもいいかなって思ってたんだけど、せっかく待ち合わせするんだし何処かちょっと遠出するのもいいかなって思ってて。シマ、そういうとこ好きじゃなかったら申し訳ないし言い出せなくて…本当に大丈夫?嫌じゃない?」
「……ふっ、」
「え、なになになに」
「や、ううん…うん、得意ではないけど…十年以上ぶりだし、高瀬子供みたいに楽しそうだし、俺もわくわくしてきた」
「耳とかつける?」
「それは嫌かな…」
「あはは、じゃあ俺もしない」
高瀬とルームシェアを始めた夏が終り、秋はどう過ごすんだろうとかもっと寒くなったら雪が降ったらお正月はどこで何をするのか。聞きたいこと知りたいことはたくさんある。そういうのを一つ一つ知っていくのが楽しい、確かにそう思った。でも、今この瞬間の感覚も楽しくて座席に肩が触れるほど近づいて座るドキドキだって楽しい。デートってこんな感じなんだろうか、とか。
「おー!」
「うわ、夜ってこんなにきれいなんだ」
「夜は来たことない?」
「うん、多分。その前に帰ってたと思う」
電車からモノレールに乗り換え、目的の場所で降りると、そこは都会の喧騒から切り離され、暗い空に映える色とりどりのライトで煌めいていた。
合流した時より暗く、寒さも強くなっている。はーと息を吐けばそれは白く浮いて「温かいの食べよっか」と鼻先を赤くした高瀬にかき消された。うん、と頷いて、擦り合わせた手をおろす。それを視線で追っていたのか、高瀬はやんわりと俺の手を取って「甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」と問う。どきりと、楽しい雰囲気の中で芽生えた高揚感とは違う、火照りのようなもので顔がカッと暑くなるのを感じ、慌てて俯くと落とした目線に高瀬の靴の先が入り込んできた。
「あ、あまいの」
「オッケー、じゃあ…」
デートだ、これは。
やわやわと、形を確かめるように触れてから、指を絡め取られ生まれて初めて所謂恋人繋ぎをした。寒いのに、さっきまでカサついていたのに、くっついた掌にしっとりと汗をかいている気がする。
半歩前を歩く高瀬は楽しそうにアトラクションを説明してくれ、あれが美味しいこれも好き、何にしようかと慣れた風に俺をエスコートしてくれた。金曜日の夜だ、すれ違う人はたくさんいるし、時期的にもハロウィン仕様で集客率がいいのだろう。俺は誰かに見られていたらどうしようと思いながらも、誰も見てないさと、指先に力をこめて高瀬の手を握り返した。
「シ、」
「……デートみたい」
「みたいじゃないよ、デートじゃん。俺そのつもりで誘ったんだけど」
「えっ、あ、そ…うなんだ…」
「えっ!?待って待って、デートじゃなかったら何なの?」
「えっと…いや、普通に遊びに行こーって感覚かと…」
チョコレートの匂いが漂うワゴンの前で立ち止まった高瀬は心底驚いたように俺を見て「俺の勇気…」と情けなく眉を下げた。
「はぁ〜…俺だけ馬鹿みたいじゃん」
「た、か…」
「さくと」
「、」
「朔人って呼んでくれるんじゃなかったの」
「え…だって高瀬こそ名前…」
「シマが苗字で呼ぶから…って言い訳になっちゃうけどさ、でも本当に…シマが高瀬って呼ぶのに真広って呼ぶの、勇気いるよ」
じんわり温かくなった指先がぴくりと震えた。
「俺も、同じ…なんだけど。それだけじゃなくて態度とかも…高瀬あんまり変わらないから」
「それは…ごめん、俺そういうの慣れてないし…や、でも、ごめん。俺は真広のこと」
「ま、待って、ナチュラルに呼ばれるのも恥ずかしい。し、高瀬は俺なんかより全然、こういうの、慣れてそうだし…」
「はあ?」
高瀬の、「シマ」と呼ぶ柔らかい声が好きだった。あの頃からずっと。 心地よくて、夜の海みたいな静かさを孕んでいて。その声が親族以外誰も呼ばない“真広”と呼ぶのだ。一度きりしか呼ばれていないのだ、慣れるわけがない。
「ちょ、ちょっとシマ、あ、真広」
「い、言い直さなくていいから、」
「ダメ、決めた、もうシマって呼ばない。今そう決めた」
「ええ」
「だって真広分かってないじゃん。俺、真広のこと好きって言ったの今も変わんないし、むしろもっと好きだよ。でも真広が嫌がることしたくないし、受け入れてもらえるまで待つし─」
「え、」
「え?」
「あ、や…ごめん、あれ、」
「なに?」
「つ、きあって…る、んだと思ってた」
「……」
暗いけれどあちこちで光るライトやお店の灯りでお互いの顔はよく見える。なんならワゴンの向こうで可愛い帽子を被ったお姉さんの顔も。高瀬のびっくりした顔に、自分で溢した言葉に恥ずかしくなって慌てて「は、ハグしたり、とか…手も、付き合ってなくてもする、よね、ごめん、あはは」と、非常に格好悪く誤魔化してそっと高瀬の手を離した。
「ちがっ、シマ、あの」
受け入れたつもりでいたけれど、明確に好きだとか付き合いたいと答えた訳じゃない。それは明らかに俺が悪くて、曖昧にだけど、なんとなく付き合っている気になっていただけだ。
楽しい雰囲気を壊してしまったことに「ごめん」と言うと、高瀬はすぐに俺の手を再び捕まえて人の波から逸れた。足元を照らすライトの線を落とした視線でなぞり、立ち止まった高瀬にぶつかるようにして俺の足もとまる。
「はぁ〜…ほんっとにごめん」
ぱっとこちらを振り返るなりその場にしゃがみこみ、小さな声で「浮かれてた」と呟いて頭を抱えた。陽気な音楽と冷えた空気が耳の端を掠めていく。
文字を読み取るのは好きだけど、人の気持ちを汲み取るのは苦手だ。高瀬は今何を考えているのか、俺には到底分かるはずもなく。繋がれた手をたどって同じ目線にしゃがむと、ぴたりと視線が重なった。足元にキャラクターの形のタイルがあることに気付いたものの、それを口にする前に高瀬が口を開いた。
「真広」
「、はい」
「その…ハグとか、キスとか、誰にでもしないよ。好きって言いっぱなしにしててごめん、なんか、真広の様子伺ってたって言うか…嫌がられてないかなとか、いろいろ迷ってて…でも、シマが好きだから…あ、」
「いいよ、シマで。俺、高瀬にシマって呼ばれるの、結構好きだよ」
顔色まではっきりとは見えないけれど、ほんのり赤く染まった頬に、ああ、高瀬はこういう顔もするのか、と胸にじわりと何かが広がった。高瀬のイメージはどんなものだったんだろう、距離が近づくにつれて、知っていることが増えるにつれて曖昧になってしまった気がする。ただ、よく考えてみれば俺と高瀬の接点は委員会しかなく、それがなければ話すこともなかった。俺からしてみたら、自分は日陰で読書をして、高瀬は日の当たる場所で常に誰かと居るような人だったように思う。その高瀬が俺のことでこんな顔をするのか、と。
「すっげー嬉しいけど、俺は真広って名前も好きだから」
「え、」
「呼ぶ奴居ないから、特別って感じして」
「……そう、だね…」
「真広」
「うん」
まひろ、と高瀬はもう一度、とても大事なものに触れるように、両手で柔く救うように、胸に抱くように名前を繰り返して、「俺と付き合ってください」と、穏やかな声色で俺を捕らえた。
「呼んで、朔人って」
「へ、あ…」
「真広が嫌でも、俺は頑張るけど。もう俺がシマって呼ぶからって反論は聞かないよ」
「た…」
「うん」
震えた指先を、高瀬はゆっくり擦って俺を見た。その瞬間、もうほとんど反射的に唇は高瀬の名前を紡いだ。
「さく、と」
「ん、」
「朔人」
「ふ、照れるね、これ」
「あ、の…好き、俺も」
「まじ?ありがと」
「や、名前じゃなくて…名前も好きだけど…高瀬…朔人のこと」
「え?」
「返事」
「へんじ?」
「うん」
「……なに、俺、オッケーしてもらってるってこと?」
「うん」
「は、やば…まじか、なんか、はは、どうしよう」
不格好に笑って、戸惑いをそのまま声にのせた高瀬は揺れる瞳でぐるりと辺りを見てから「夢の国ってすげー」と自嘲気味に笑いを溢した。けれどすぐにきゅっと口元を引き締めひとつ咳払いをした。
「いいの、俺で」
「うん」
「今日から、その…恋人、で」
「俺、そういうの初めてだからよく分からないけど」
「じゃあこれ、初デート?恋人との」
「……そう、だね」
「すげー嬉しい」
楽しげな音楽と声が、至るところから漂ってくる甘い匂いが、キラキラ揺れるライトが、一気に五感に触れた。自分の中に一気に流れ込んできて、近付いてきた高瀬の、朔人の顔から、目が離せなくて、こういう時は目を閉じるものだって何かで読んで知っていたのに。
ふわりと、自分と同じ柔軟剤とシャンプーの匂いが香る。ひんやりした空気とは対照的な、熱い唇の感触に世界が変わる音がした。
ああ、好き、なるほど。
「シマ?」
「ん、」
「やだった?」
「ううん、嫌じゃないよ」
「や、でも、」
言葉には出来なかった。
たくさんの本を読んだ、面白いとか難しいとか感じたこと思ったこと考えたこと、そのどれにもなかった感情がここにあることに気付いてしまったのだ。文字でしか見たことのない誰かの感情とは違う、自分の中にあるこれは、朔人が現れなかったら生まれることもなかったのだ。もっと先に、彼ではない誰かに芽生えたのかもしれないそれは、けれどもう彼以外に芽生えることはない。
初デートなんて文字にしたら恥ずかしくて子供じみているのに、朔人と二人、手を繋いで好きだと言って笑って、人混みを歩いて食べ歩くのは楽しかった。アトラクションに乗るのも、写真を撮るのも。
「あの、高瀬」
「あ、またたか─」
「たまには、シマって呼んでね」
確かに、世界は変わった。
曖昧なものが色を変えて形を変えて、はっきりと、形になった。