蓮を怒らせた。
「……」
大学四年の冬。
お互いに仕事が決まり単位もとれている。
今から春にかけて卒業旅行に行く友人も居れば、既に就職先でバイトをしている友人も居る。本当に学生最後の長期休暇、それぞれの過ごし方をしていた。
例に倣って俺と蓮も二人で旅行に行った。行って、帰ってきて、数日。蓮はいつも通り、いや、いつも以上にすべて完璧だ。掃除洗濯、朝食夕食の用意、バイトのシフト管理にスーツが必要な日の一式準備、俺のことまで抜かりなく。
なんとなくそれを“怒っている”と感じたのは、いつも以上に完璧すぎる上に柔らかさが足りない気がしたからだ。いや充分優しくて腹が立つほどお人好しなのは変わらないのだけど…
「蓮」
「……」
「おい」
「、あ、なに」
「こっちきて」
「ごめん、これ、今日中にやらなきゃいけなくて…」
カタカタとキーボードを打ち始めた指は、けれど俺が声を掛けるまで止まっていた。明らかに俺のことを避けている。
「はぁ…」
「……」
「コンビニ行ってくる」
「あ…うん」
「何かいる?」
「ううん、大丈夫。気を付けて」
「ああ」
今日は午前中大学に行き、午後からはお互いに空いていた。蓮は提出するものがあるからと、パソコンと数時間向き合っている。何かしただろうか…蓮が怒る、という場面には片手で足りるほどしか遭遇したことがないし、その場合はちゃんと心当たりがある。そう、付き合うことになる前のこと、とか。
基本的に蓮は怒らない。
物理的に嫌なことをされても怒らないし、ムカつくことを言われても嫌味を言い返したりしない。大袈裟に怪我や病気だと言えば「驚かさないで」なんて呆れず、良かったと言って泣いてくれる。誰かのせいで自分が面倒なことに巻き込まれても文句ひとつ言わないし、同じ人間かと疑うくらいとにかく怒らない。感情の選択肢に“怒”がないのかもしれない。
心当たりをなんとか探そうと一人でコンビニまで歩き、特に欲しいものもなかったけれど店内を一周して、肉まんを二つとコンドームを買ってアパートに戻った。そのたかだか二、三十分で答えが見つかるはずもなく、それだけでも焦るのに玄関から蓮の靴がなくなっていて余計に焦った。
「蓮?」
暖房の付いた部屋の中に蓮はおらず、けれどパソコンは閉じているし部屋の鍵も持ち出されている。慌てて電話を掛けるとバイトで呼び出されたという言葉が返ってきた。どんなすれ違いだと、笑う余裕も今はない。
「ついでに大学も寄るから、帰るの遅くなりそう」
「分かった。帰り、迎えに行く」
「大丈夫、電車で帰れるから」
「……そうか」
なんとなく変だなと思いながら何日か過ごしたけれど、今日はもう限界だ。心配でたまらない。蓮からの連絡のない携帯を見つめて、蓮が帰ってこないことを想像して、胸につかえる嫌な気持ちに吐き気を催した。
何を怒っているんだろうか。気のせい…ではない、絶対に。最後にセックスしたのはいつだ…そういえばこの数日はキスもしていない。社会人を前に、何か心境の変化でもあったのかもしれない。せっかく買ってきた肉まんも食べる気になれず、冷蔵庫に押し込んでリビングのソファーに横になった。
何も考えないように目を瞑り、名前を呼ばれて目を開けたのはしばらくしてからだった。
「虎」
「んああ…」
「ごめん、寝てて良いよ。ご飯作るね」
「れん、」
「ん?、っわ、」
コーヒーの匂いがする。
そうか、バイト先に行っていたから…ぼんやりとそんなことを思いながら掴んだ手を引っ張り蓮を引き寄せる。するとその体は僅かに抵抗して、それでも俺の隣に腰をおろした。
もう聞くしかない。一人で悶々と考えていても分からない。「どうしたの」と、状況的に聞いただけであろう蓮を見つめると、一瞬、ほんの一瞬目を見開いた。
「俺何かした?」
「、え?」
「蓮に。怒らせるようなこと」
「何、言って…」
いつも穏やかに揺れるまつげが、大きく動揺したように揺れる。目元のほくろに影が落ち、俺はその顎を掴んで顔をあげさせた。親指と人差し指で両頬を寄せても蓮の目は俺を見ず、ふい、と黒目が横に動く。
「蓮」
「本当に、何もないよ。僕は…何かあるのは、虎の方じゃないの」
「は?」
「…ごめん、嫌な言い方だった…」
「何かってなに?」
「虎、ちか─」
「言わないと分かんねぇから」
「、」
自分の方がよっぽど嫌な言い方をしている。蓮の困った顔なんてそうそう見ることは出来ないのに、今、目の前の蓮は明らかに言葉を詰まらせている。そうさせてしまった情けなさに小さなため息を漏らすと、蓮はぴくりと肩を揺らしてやっと目を俺に向けた。
「ごめん」
「何が」
「……」
「蓮」
「引っ越すんだ、って思ったら、ちょっと寂しいな、って…思っただけだよ」
「……はあ?」
「それまでは、出来るだけ─」
「待って、なに?何の話?」
「虎、引っ越すんでしょ?」
「誰がそんなこと言った」
「あ、ごめん…この前掃除してたときに虎のタブレット落としちゃって…壊れてないかって開いたら、部屋探しのページ開いたままだったから。ごめん、勝手に見るつもりじゃなかったんだけど」
「はぁ〜…」
「本当にごめん」
「蓮が謝ることじゃないだろ。タブレットだって別に俺のって訳じゃ…いや、いいよ、それは、どっちでも。部屋探してたのは事実だし」
「やっぱり、出てく?」
ほんの少し前まで頑なに俺を見ようとしなかった蓮の瞳が、今度は俺を捕らえて離さない。