「うわ、一気に降ってきたね」

今年の蓮の誕生日、初めて一緒に過ごさなかった。
初めて、という表現が物理的に正しくはない事は分かりながらも、それでも物心ついてから一緒に迎え、一番最初におめでとうを伝え、細やかでもお祝いをしてきた。自己満足にすぎないとしても、蓮の特別な日に、自分が一緒に居られることは、蓮が俺を選んで一緒に居てくれることは嬉しかった。
今年も、蓮が良いなと言っていた靴を買ってご飯に行こうと考えていた。丁度、蓮は実習中で実家に帰っていて、もしこっちに帰って来ないのなら自分が行くつもりで。

5月21日はバイトの休みをとり、予定も入れなかったけれど、実習で忙しいであろう蓮に「その日どうする」と聞くことも出来ず、結局一緒には過ごせなかった。その埋め合わせというつもりはなく、ただ俺が、蓮を温泉につれていきたいなと思い、梅雨入りして三日目の今日、一緒に足を運んだ。

「ずこいね、檜の匂いがする」

「蓮」

「ん?」

やんわりと抱き寄せてキスをすると、ふっくらとした柔らかい唇がゆるく弧を描いた。目を見張るほど痩せて、窶れて、病的に白かった面影はこの一ヶ月で消え去った。けれど、自分の無意識の行動で蓮に辛い思いをさせてしまったことはなくならない。

「どうしたの」

最初、バイトの面接に来た松本は俺に頭を下げてはにかんだ。ひどく整った日本人離れした顔は、一度客で店に来たことがあるなと、なんとなく思い出せるほどだった。その松本に告白されるとは思ってもみなかった上に、告白されたタイミングは蓮が実習中で、しかも連絡も一切とっていない中だった。

付き合っている人がいることは周りの話で察していたはずだし、告白されたところで俺には断るという選択肢しかなく。松本はそれでもバイトに出てきて、普通に後輩としてまたお願いしますと頭を下げた。話は、そこで終わった。だからまさか蓮が松本と知り合いで、しかも告白現場を見て部屋に上げたことも知っていて、変な勘違いをしてそれにショックを受けていたなんて…普段から連絡を取り合って、今何をしているとかどこにいるとか把握しているわけじゃない。だから、実習に集中してるとか忙しいとか、自分で納得して帰りを待っていた。

蓮があんなにショックを受けて、何も食べられないで、痩せて、やつれて…それを、俺に何も言わないで聞くこともしないで俺以外の人間に頼って…本当は、俺だってそれにはショックを受けた。でも、自分が蓮に与えた傷やトラウマを思うとやっぱり俺はどうしたって…

「虎?」

「……ん、」

「お風呂、行ってこよう」

「ああ…」

形の良い手が、ゆるやかに俺の手を取った。
好きだ、蓮が。蓮だけが。
どうやっても埋められない溝を、それでも埋められたらと今でも考えている。埋められなくても、飛び越えて、その中へいけたら、と…
「ご飯美味しかったね。お風呂も気持ちよかったし」
「そうだな」

「…あ、あそこかな…小さい川があるらしいんだけど、そこすごく綺麗に蛍が見えるんだって」

「へぇ…」

「でも、今夜は雨だから見れないね」

風呂に浸かってほかほかしながら飯を食べ、部屋の窓から外を眺めていた蓮が振り返る。雨の音が、湿気を伴って室内に響く。

「雨が降ると、葉っぱの裏に隠れるんだって」

「習ったのか」

「ううん、バイト先の子が言ってた。雨には強くないんだって」

「…そうか」

「ここで見れないのは残念だけど、別の日に、どこかで見れたらいいね」

しっかり着付けられた浴衣の裾が揺れる。
蓮はそろそろ寝ようかと中居さんが用意していった布団を指差して窓を閉めた。湿気の匂いがこもり、けれど、すぐに布団へ導く蓮の湯上がりの匂いに誘われてどうでもよくなった。
電気を消して、当たり前みたいに布団を寄せて、その上に座った蓮は艶やかな顔で俺を見上げる。綺麗だ、本当に。言葉では言い表せないくらい。
窓を閉めても雨の音はよく聞こえ、キスをして布団に潜り込み、ようやくその音は耳に届かなくなった。それでも、朝、目が覚める直前にザーザーと雨の音は聞こえて、微睡みの中で今日も雨だ、と思った。

「……れん、」

少しひやりとした室内、蓮の気配がない。
手探りで隣にあったはずのぬくもりを探すけれど見つからず、一気に頭が冴えた。さっと、血の気が引くような感覚に、慌てて布団を捲るけれどやはり蓮は居ない。
すぐに布団から出て、荷物がある事を確認する。けれどスリッパはなく、外に出ているようだった。待っていれば戻ってくるだろう…それでもなんとなく落ち着かず、昨夜蓮が座っていた窓際の椅子に腰を下ろす。
雨に濡れた景色は風情があって、そんなことを思うのは蓮が蛍が見えるとか、紫陽花が咲いているとか、言葉にしたからだろうか。
ふと、その言葉通り綺麗に咲いた紫陽花が目に入り、その傍らで傘が動くのが確認できた。俺は導かれるように部屋を出て、玄関へ向かった。すると中居さんが出てきて下駄を出してくれた。それに足を突っ掛け、傘はいらないと断って外へ出る。

浴衣を着て、下駄を履いて、蛇の目傘片手に紫陽花を眺める蓮は、とても幻想的で声をかけられなかった。すっと伸びた背中を隠すような大きな蛇の目。白く霞む空気の中、雨に濡れた髪の艶。花に微笑む蓮が、俺の気配に気づいてこちらを振り返った。蛇の目がゆらりと半回転して、見えなくなる。
蓮は「綺麗に咲いてるね」と笑い、下駄を鳴らしてゆっくり近付いてきた。綺麗な動作で傘を閉じ、その手は俺の頬を撫でる。


「おはよう」


雨に溶かされそうな儚さと、滴の中で凛と佇む強さと、綻んだその美しさに泣きそうになった。


紫 陽 花 


連れてきてくれてありがとうと
微笑む蓮に世界が揺れる。  
雨はまだ、やまない。    






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