悪の菊弘の話


絶対悪の私(前編)

ふと、何でもないことだ。
とある可能性についてふと、考えてしまった。
誰も、今まで誰も考えなかったことだろう。それだけは間違い無い。だから私は、その選択を選び、実行した。
それは、どんな私でも有り得ない、実行することのない、選択することのない事柄だったのだろう。
それまでは、他の私と同じように出来ていた世界が、その私の突飛な行動に順応出来ずに、滅んでしまったのだから。
イレギュラー。それは世界線の初めてのイレギュラーだったのだ。

私を主体とする、世界線の、有り得なかった選択の私。

もし、私が世界を滅ぼすことが出来たなら。
否。出来る。私はそれが出来るのだ。だが、それを選ばないのが、それを考えることさえしないのが<私>なのだ。
正義を心に持ち、自己犠牲を性質とした<私>が、世界を滅ぼすなどど悪の考えを持ち実行するわけが無いのだ。
クローンや、人工知能を作成する時に、いつか量産されたどれかにエラーが出る。遺伝子のエラー、ファイルのエラー。
予想されていなかった要素が生み出され、他の同じものとは違うものになる。
おそらく、それが私なのだ。
いや、それはきっと違う。こうやってそんな私が存在しているのだから、世界を滅ぼすことを考えた<私>は居るのだろう。
しかし、実行することは無いのだ。何度も言うが、私はそのようなことはしない。
今や、力はあれど慢心することは無い。すべてを救えるからといって、すべてを救うことは無い。
すべてを滅ぼす力があるからといって、そうするわけがないのだ。

陰陽寮は、案外あっさりと倒せてしまった。
彼女たちは、陰陽師の血を引く彼女たちには人間有りきで生きることを認められた化物なのだ。つまり、人間さえ滅んでしまえば彼女たちは無力だ。
人間が、彼女たちを認識することで、彼女たちは生きていても良いのだ。
人間が、死んでしまえば、彼女たちは消えて無くなるしかないのだ。

人間なんて簡単に死ぬのだ。私が<言えば>死んでしまう。
魔人セルには、すべての生命と繋がる力を持っている。それに気付いていない<私>もきっとたくさん居るのだろう。愚かな世界線の<私>。
魔人のその力があれば、私が自由にそれを使えたなら、世界滅亡は簡単なことだったのだ。
会議中に、ふと思い立った。
そうだ、世界を滅ぼせるのではないだろうか?私は。

私の中の<彼>がそうさせたのではない。彼は、私が悪に染まると同時に消えていったのだ。
すべての真実が分かってしまった。私は、私が正義であるために葛藤し力が増幅し、コントロールできなくなっていたのだ。
心が、良心が<彼>を生んだ。彼が先ではない、私の良心が先なのだ。
その良心が無くなった、その瞬間。私の中の意識はすうっとクリアになった。ひとりだ。ひとりきりという、至って正常な感覚。
せめぎあう思考が無くなって、私ただ一人になったのだ。
分散していた…分散していると思い込んでいたものが、ストッパーは外れて、私の力は<彼>…ネモ以上になったのだ。

「で?次はどの私を用意してくれたんだい」

生き物が絶え、無機質なコンクリートやアスファルトの塊だけになった地球。殺風景で色は空の様々な青と様々な赤、太陽や月の光の白しかなくなってしまった。
折り畳み鉄パイプ椅子と、小さなテーブルを並べて、私はそこに座ってその扉を眺めている。
世界を滅ぼすと同時に、存在しているものを消滅させた。
それは人外も然りだ。人外も、陰陽寮の彼女たちと同じく、人間に認識されなければ存在出来ないものなのだ。
悪魔も、神も、鬼も。
しかし魔人だけが異質だ。魔人は、どの世界線の個体も同期のもので、どんなに滅ぼしても沸いてくる。
私の世界線の魔人は、姿は消えども対抗してくるのだ。どんなにどんなに心を折っても、既に正常な精神を保っていなくても、私を倒さなくてはならないというひとつの目的のために存在した、壊れたプログラムのように魔人は動いていた。

今や、その姿は霧散して、やがて集まって扉に変わるのみとなった。
同期しているので、入り口さえ作ってしまえば別の世界線の魔人が私を倒すためにやってくる。

どれも、私を殺すことは出来ないのだが。それがもし<私>だとしても。

無機質な白い扉の戸が、ゆっくりと開いた。
和服の、隻眼の、何度も見た顔が酷く疲れた表情で現れる。

「はぁー…」
私はため息をついた。だから、私は<私>を倒せないのだと、何度も言うのに。懲りずに連れてくる、懲りずにやって来る。
「やあ菊弘」
「…じゃあ私は、お前を何と呼べばいいのかな」

<私>は、いつも冷静だ。腕組みをして、周囲を眺めていた。
その崩壊っぷりに、激怒する私も居れば、ほろりと泣いてみせる私も居た。
しかし、結局は同じことしかしない。

「さぁね、そう言えば考えたことも無かった。名の違う自分は何人か見たが…それぞれきちんとした由来が有ったからねえ」
「なら、名付けるならお前もきちんと考えた方がいいな」

表情を変えずに、菊弘は扉にもたれかかった。

「悪菊弘」
「ダサいな、センスが無い」
「興味が無いからね。自分に新しく名前を付けることに。私が名前を新しくつけるときは、それは変化の時だ。私は別に変化していない、だから名付けにいまいち気が進まない」


足を組み直して、ため息をつく。退屈だ。彼女たちとの会話も、どこか似通っていて常々デジャヴを感じる。
名前を新しくつけるべきだ、と言われたのは多分始めてだが。
「お前は、自分が変化していないとでも思っているのか?」

菊弘は、驚いたというように目を見開いた。
「何も。至って普通の菊弘のままだよ<菊弘>」
「ハッ……そんなわけあるか。お前は明らかに異質で別物で異常で愚者だ。変わっていないのなら最早それは、エラーだ」

やはり同じだ。
皆、私たちは皆、私を異常だと、自分とは別だと、自分とは変わってしまったと私の存在を否定したがる。自分の中の悪を、否定したがる。
悪の思想だとしても、それは<誰でもない者>のせいにしてしまえるのだ。
だが、私は<誰でもない者>の思考ではない。あれはそもそも、私なのだ。
それを認めたがらない<私達>を見るのは、とても心が痛い。
現実逃避をしている、可哀想なお人形のまま、魔の力を持って生きながらえてしまっているのだ。呪縛は、大佐はとうの昔に死んだというのに。

「エラー、か。それはいいな…ネモのように片仮名の名前なのは、彼に親しい私にしてみれば嬉しい名前だ」
私は、彼女たちが望む通り、<私>とは別物になってやった。
たった一人の世界だ。自由な、世界。だからもう<菊弘>をやる必要は無いのだから。

「ネモに親しい?……まあ、こんなことをしてニタニタと笑えているのは、確かにそれらしいがね」
「で、どこの世界線の<菊弘>が来たんだ?」
「それを答える前に、お前に質問をしていいか」

菊弘は、ぬけぬけと質問を質問で返した。
私は寛大だ。余裕がある。現れた<自分>を、すぐさま殺すのは勿体無い。私が<私>を殺せないのは、呪縛の掛かった<私>だけなのだ。
今、私…エラーには、呪縛など存在しない。だから、目線の先に居る<菊弘>を殺せる。
首を締める?腹を裂く?殴る?蹴る?それともただ、囁くか。
今この場で舌を噛んで惨めに死ねと。
ああ、この<菊弘>は、それを聞いた途端どんな顔をしてくれるだろうか。
自分に掛けられた呪縛を、ぬけぬけと破ってみせる自分を見て。
やはり、これは別物だったのだと思うのだろうか。
悔しがるのだろうか、否。喜ぶだろう。私は、いつだって<私>に殺されたいのだから。
それが叶わないのが、呪縛に縛られた菊弘だ。
堂島静軒の、受動的で人任せな願い。

『菊弘が死の淵に居るとき、菊弘を助け幸せにしてくれる者に選ばれなくてはいけない』

選ばれなくてはいけない。それは、選ばれないという選択もあるのだ。しかし、逆を言えば選ばなくては死んでしまうのなら、菊弘は自分を救おうとする者の伸ばした手を、振り払うことは出来ないのだ。
それが、もし彼が死ぬことになっても。彼が命と引き換えに彼女を助けようとしていても。
だから菊弘は、自ら死を選ぶことは出来ない。

「いいだろう、どんな質問にも親切に答えるよ。私は大分退屈なので、そういう時間稼ぎは好きだ」
「なるほど。退屈だ、と…それは最早私の質問の答えだ。お前はこんな世界に居て何をしたいんだ?と問いたかったのだよ」
「何も。何もしないさ、もう終わってしまったよ。やることはね。だから今はこうやってあがき続ける魔人の相手をやっている」
「だから、お前は遊びたいんだろ?」
「…そうだな。私の相手を出来るのは、私のみだ」
「退屈しのぎに<私>を殺して、それは楽しかったか」

菊弘は、すっと一歩進んだ。

「楽しかったね。同じ<私>と言えど、細かな選択肢が異なるだけで性質が変わってくるのだから…もう何人だろうか」
「七十億と五千三百九十二だ」
「なるほどね、今ここに居る<菊弘>は、私が君たちを殺せることも把握しているのだな。ふむ、少し戦況が変わったね…これは楽しめる」
「いや」

菊弘は、さっと身を翻した。
思わぬ行動に、私は吹き出してしまった。私に説教や説得をする菊弘も居たが敵前逃亡をする菊弘は初めてだ。
「生憎、私はこの二度目の人生…化物になってしまったとは言え、生きるのは楽しいと思っているのでね。こんなところで異常な自分に滅ぼされるのは御免だ」
扉の戸を開けて、菊弘は、そう吐き捨てて中に入ってしまった。

「…その扉、帰ることも出来たのか」

初めての出来事に、私の心は躍っていた。
絶対悪の私(中編)

ネモが来た。菊子が、菊臣が、菊紋が。菊花が。菊久、夜菊。
サヴァン症候群を持って生まれてこなかった私。
れっきとした女の体を持って生まれてきた私。
堂島と出会うことの無かった私。
中禅寺と結婚した私。
堂島を殺害して獄中にいた私。
<菊>の名さえ貰わなかった、ただの一般家庭に生まれた私。
あの日、堂島を選んだ私。中禅寺を選んだ私。榎木津と結婚しなかった私。
魔のものにならなかった私。老人の私。
すべての選択肢の世界線の私が、私との邂逅を望んでやって来た。
世界を救うために、否。最早世界は救えぬ。私を、エラーをこのままにしておくわけにはいかないと、皆やって来た。
皆、良心がしっかりと存在している。だから、私に負けるのだ。

私よりも強い力を持たないのだ。
リミッターの外れた私は、誰にも負けることは無い。

脳の存在しないロボットくらいが、おそらく私を殺せるのだろう。
何も考えず、ただ命令に従うだけの機械ならば。
だが、それを作るのは人間で、操作するのも人間だ。
神も、悪魔も。超常的な力を持つ者みんなみんな、人間との関わりが無くては生きていけないのだった。
私はもう、一人きりで存在することが出来る。力のコントロールなど、意識せずとも自然にこなしている。
脳がパンクする?そんな不具合、ネモが消失した時点で修正した。

私は、万能なのだ。
万能故に、全てがつまらなくなってしまった。だから、世界を滅ぼしてみようかと物のついでに考えてしまったのだ。
慢心ではなく、ただの興味本位で。
実行し、そして成功してしまったから、慢心に変わってしまったが。

何度目かの、扉が開いた。
私は姿勢を正して、登場する<私>を出迎える。
相変わらず、難しい顔をしていた。隻眼の、黒い着物に身を包み鼻緒だけが赤い<菊弘>。
「……ようやっと、私が中禅寺秋彦である<私>のご登場かな」

「正しくは、中禅寺秋彦が<菊弘>のような存在だった世界線の僕だ」
いつもよりも、その眉間の皺は深く刻まれている。
「分からないんだが、君が中禅寺の立場として存在するのなら…なぜその右目は封印した?山人の説は残っているのかね」
「これはただの事故で失っただけだ。それに、山人の影響が出るのは女だけだろう、僕はれっきとした男だよ」

隠された右目、それを暴いてそのまま髪を後ろに撫で付ける。
装いが白ければ、神主の<菊弘>であるというのに。まるでまるっきり真似をしているような憑き物落としの彼だ。
「識別名は?まさかそのまま秋彦ではあるまい」
「識別名?僕は生まれて親から授かった名ひとつで生きてきたぜ。<菊彦>だ…はじめまして<エラー>」

菊彦!
私は手を叩いて笑った。
こんな風に、まるで悪役みたいに笑うのは、きっと<菊弘>ではなく<ネモ>だ。私には最早その分別は存在しない。
彼は私で、私は彼だ。最初からそうだ。分かれている、分別されていると思い込んでいただけ。
「なるほど面白い、それで堂島とはやはり敵対関係にあるのかね?まあそうだろうな…私が中禅寺の立場ならば、そうだろう」
「ああ、おおよそ君の考える中禅寺の立場として存在していると思ってくれて構わないよ。違うのは、ひとつ」

菊彦は、腕組みをした。
「君たちは、今までの<私>はおそらく<菊弘>をベースに選択肢を選んできた<私>だろう。しかし僕は違う、中禅寺秋彦の世界線の、選択肢のひとつだ」
「……選択肢のひとつ、だと?」

生まれてその存在が、菊弘から転じた<菊彦>では無いくせに、選択肢という言葉を使うのはふさわしくない。
<菊弘>が、<菊彦>に転じたのなら、変化したのならそれは<選択肢>だ。
最早彼は、選択肢ではなく<別世界>の人間だ。

そこではっと気が付いた。
今まで、私の世界線のセルはその扉に姿を変え、かすかな<絶対悪を倒す>という目的だけで動いていた。
それが、全く関係のない<私>…いいや<中禅寺秋彦が菊弘と立場を負って生まれてきた世界の彼>を連れてきたのだ。
これは、何かがおかしい。

私は椅子から立ち上がる。
立ち上がれば、その椅子や机は存在を失う。私が触れていたからこそ、存在していた幻のそれ。
幻か、現実かは私以外には証明できない。私しか証明しない。
だからそれは、幻であり、現実である。

立ち上がり、一歩進んだ。
それに合わせて、菊彦も進む。
ゆらり、と闇が動いているようだった。ああ、これはどの<菊弘>にも無いものだ。
背筋が凍る。怖い。私は怖いと思った。
それは、常に私が<中禅寺秋彦>に抱いている感情である。

間違いなく、彼は中禅寺秋彦なのだ。顔は、私であれど。
「ほう、やはり<菊弘>の言う通り僕を恐怖するかね」

にやり、と彼は凶悪に笑った。
「…その様子だと、他の<菊弘>にあれこれと話を聞かされたんだな?その通りだ、私は貴方が怖い。私とは違う、ただの人間なのに私以上に呪術に優れているのだから」
「呪術?僕のお喋りが…かい」
「ああそうさ、ただの詭弁が通じてしまうのだから、怖いんだ」

私は、彼を越えるために堂島に仕込まれたのだ。
越えれた<菊弘>はどれくらい存在するのだろう。しかし、越えてしまうと彼を裏切ることになる、堂島の元に戻ることになる。
その最悪の選択肢を選んだ、悪とまでは行かない愚かな<菊弘>………否、<菊子>はどのくらい存在するのだろうか。
堂島を愛す選択肢…菊子。

私と対峙した<菊子>を名乗る女は、たった二人……いや、三人だったかな。

一人目の菊子は、最初の堂島の手引のある逃走で、そのまま堂島の養女となりただの女として、堂島を父として慕った女だった。
菊弘の名も無ければ、ネモも消失していた。
初めて、菊子が最後まで生存した選択肢だ。

<菊子>という人格は、酷く脆くすぐに消える幽霊のようなものだ。
女として存在することに苦痛を覚えた<菊弘>が、苦し紛れに作り上げた女らしく生きる<私>。
髪を伸ばし、堂島の指示に従う女。堂島を慕い、彼に付き従う。
だが、その選択肢は酷く少ないのだ。
必ず<私>は、終戦と同時に彼の元から逃げ出し、その右目を塞ぎ左右対称の美しい顔を崩すのだ。山人としての性質を殺し、無意識化…深層心理に存在する<ネモ>の復活を助けるために。

つまり、菊子は<ネモ>を殺す存在なのだ。

「あなたは私なのか」
髪を後ろで一括にした女は、散々泣き腫らした顔で言う。
「いかにも。お前になり得なかった<私>の成れの果てだ…お前になっていればきっと、幸せに死ぬのだろうな?だが、お前にならなかった我々はこうして時に間違った選択肢を選ぶのだ。それが悲しくて泣いてきたのかい」

「ええ、あまりに<私>が哀れで」
菊子は不機嫌そうに顔を歪めている。
「哀れだと思うだろうねえ。お前は堂島の娘として生きて幸せを感じるのだから。だが、多くの我々は堂島を選ばないのだよ、それは我々の幸せでは無いと感じてしまうのだから」
「そうね、それも聞いた。でも私にしてみれば、あなた達とは別物なのだから、感じ方が違って当たり前だと思う」

昭和時代に流行った格好をしている。モダンガール。
一度もそのような服を好んできたことは無い。ああ、やはり私は<菊子>とは相性が悪い。
だから、菊子として生きてこなかった我々は、必ず<菊子>との共存を考えないのだ。いつの間にか消えてしまっている人格、魂。それが<菊子>だ。

「私にあなたのような力は無かった。ただ、少しだけ人を魅了していただけ、それだけ。そして何よりも」

菊子は、右目からすうっと、涙を流す。
「こんなひどいことは、一度として考えなかった」

美しく整った顔だ。<私>であるからその魅了に支配されることはないが、本当に妖怪や魔物の類だ。恐ろしい。恐ろしい人間、菊子。

「そうか。ではお前が、こうしてそのひどいことを考え実行してしまう残酷な自分が存在していたことを知れて嬉しく思う」
私は、そうして死を告げた。
「消えてなくなれ、どうせ君は死ぬつもりで来たんだろう」

返事は無い。聞かずとも、死ぬと分かって必ず来るのが<菊弘>なのだから。

「もしかして、これから<榎木津礼次郎の私>や<堂島静軒の私>も現れるのかな」
「さあ、榎木津はあり得るかもしれないが…堂島は無いだろうね」

菊彦は、堂島の名を出しただけで嫌悪に表情を染めた。
「僕は、<菊弘>は堂島が別個体と存在しないと生まれることは無いのだろうから」
「ふむ……たしかに、堂島が<私>では、<私>である必要は無いし、有り得ないのだろうな」
「………それでエラーよ、僕がここに来た目的は聞かなくてもいいのかい?」

ところで椅子とか無いのか。なんてのん気に菊彦は言う。
懐から煙草を取り出して、咥えた。
「ここは私の世界なのだから、そんなの…頑張って自分で出してくれよ」
「フン、僕は超能力者でもマジシャンでも無い。何も無い場所からいきなり椅子を出すことは不可能だ。君みたいに、でたらめなことは出来ない」
「仕方が無いな」

誰かのために、何かをしてやることはとても久しぶりだった。

彼のすぐそばに、木で出来た椅子を出してやる。
しかし彼は、それを認識出来ないようだ。
「ほら、お前のすぐ隣に木で出来た椅子を出してやったよ」
「……残念だが、僕は<不思議なものなどこの世には無い>と思っているのでね。君のでたらめな力をすんなりと信じる人間じゃあ無いんだ」

菊彦は、ニヒルに笑いながら、崩れてただの岩の塊となってしまったコンクリートの上に腰掛けた。
「はあ…哀れだとさえ思うね、その考え方」
「そんな君は<不思議でないものなどこの世には無い>と思っているのか?それならば、本当に憐れだ」
「残念だがね、私はそのどちらも思っているからこうして曖昧なバランスを保てているんだ。お前には到底理解出来ないかもしれないがね………それで?なぜ菊彦さんはここに来たのかな?」

彼に問いかけられたものを、再度掘り返す。

「僕が<自分>同士で戦うことに興味を持たないわけが無いだろう?だから、その<自分>に交渉して戦いの見物の許可を得たのさ。僕がここに来た目的は君たちの見物、そして時間稼ぎだ」

煙草の煙を吐きながら、親戚全員分の葬式を済ませてきたような顔で言う。

<君たち>の、見物?そして時間稼ぎだと?


私の世界線の魔人が姿を変え、世界線の自由な移動を可能としたその扉が、さらさらと砂のように崩れ落ちていくのを見た。
ついに、魔人の力が尽きたのだ。

否、魔人の残された力を凌駕する何かが、その扉を、でたらめな異次元のねじ曲がった空間から、この場へやって来た。

何度も見た顔だ。
しかし格好は、初めて見るものだった。洋装。黒のスーツ。深緑のネクタイ。オールバックにまとめられた髪。右目は、歪んで開いている。右の口の端がにたりと笑い、左の口の端はまっすぐになっていた。

ネモと菊弘が、共存している<菊弘>。正史の<菊弘>。
だが、何かが違う。今までの者と。

「ネモ、単独行動を許そう」
その言葉と同時に、ぞわりと菊弘の髪が伸びた。ぎゅるぎゅると形作る。これは、魔のものの<菊弘>の力だ。
超常的な力を持って生存しているネモを、実体化させ自分との分別を図る。
「でも僕には何もさせてくれないんでしょー?」

長く、黒い、細い髪の隙間から目が生まれ口が生まれ、体が生まれる。ネモは、黒ずくめの服を着て生まれた。
そう、ネモの好む服装だ。髪は真ん中で分けたワンレン。楽しそうにニコニコと笑っている。
「お前は今回出番は無いんでね、サポートだけ頼むよ」
菊弘はにたりと笑った。ちぇーっとネモは口を尖らせて、菊彦の隣にすとんと座り込む。
「やあっ!僕じゃない僕!菊弘じゃない菊弘!中禅寺さんっぽい君!」
「やかましいなぁ、静かにしていたまえよ」
「えー!静かにしてるだけって、僕が受肉した意味が無いじゃないかー」

「そうだよ、ネモは今回意味も無く受肉しただけだ」

菊弘は、ネクタイを緩めた。
私の目の前に立つ。革靴のヒールの分、少しだけ背が高い。
歪な顔の、菊弘。右目は傷のせいで引きつり、本来つり目の細い目が別人のように変わってしまっている。

「やあ、絶対悪の<私>」

「…やあ、君の識別名は何だい?」
「君が絶対悪の私、<エラー>なら…私は絶対善の私だ。ただの菊弘だよ」

扉のあった場所からは、どこからか漏れ出している不快な香りが漂ってきた。
絶対悪の私(後編)

「絶対善の私?」

有り得ない。そんな漫画の主人公みたいな<菊弘>なんて有り得ないのだ。
救える範囲の者には手を差し伸べるが、多くは救わない。甘えなどない。むしろ残酷な判断を下す人間らしいのが<菊弘>なのだ。
魔に染まり、魔に近くなった菊弘なら尚更だ。

「お前の反対、ということだな」
背後の扉に向かって、右手を伸ばす。不快な香りが、彼女の手の中に集まりだした。やがて赤く形を作り、明確なものへと姿を変えていく。
ああ、忘れていた。この香りは、どんな人外よりも私に優しく、私を助け、私を見守り続けたあの魔人の香りではなかったか。

禍々しい気配とそれが合わさり、薙刀へと形を変えた。
私がよく武器として使うものだ。しかし、恐ろしく形は、禍々しい。
何だ?こいつは善を名乗るくせに、こんなにも悪に近い気配を放出しているではないか。

「反対どころか、私以上に悪じゃないか?」
私は、久しぶりに冷や汗を流した。
「はっはっっは、かもねえ」

殺せないというのに、その武器を奮う。
菊弘は、刃先を私の首に当てた。否、殺すつもりでそれを奮ったのだ。私は避ける。高濃度の空気の塊を放出して、刃を弾き飛ばした。
<私>が肉弾戦だと?この<私>も、呪縛から解き放たれているというのか。有り得ないことは無い。堂島の呪縛を、逃れた菊弘だって存在するだろう。逃れることの出来なかった菊弘が多く存在するのだから、その逆も居る。選択肢は無限なのだ。

思わず笑い声が上がった。同じく対峙する菊弘も笑っている。
「面白いなお前は!このまま戦うと!?」
「簡単に終結してしまっては、面白くないだろう。私はね、お前に考える時間を与えてやっているんだ」

菊弘は、足元を狙って薙刀の軌道を変えた。飛び上がると同時に、その首元を念道力で絞め上げる。
だが、すぐに何かの力でそれは防がれてしまった。
ネモだ。
にんまりと得意げに笑っている。
「見た!?見た菊彦おじさんっ今の僕がやった!」
「何も見えなかったが」
「やったのー!」

二人ののん気な会話に、とても苛立つ。
「サイキック能力は使えないぞ」
にやっと笑いながら、菊弘は綺麗に着地していた。手慣れている。良いコンビネーションだ。
この二人は、何度も修羅場をこなしてきたのだろう。
恐ろしい。一人であったはずのものが、二人になってしまっているのだから。
存在さえしなかったもの、ゼロのものに、イチから形を与え存在させているのだから。
「……新しい名は付けてやったのか?」

両手を地に向けて、自分の中の魔力を集める。
世界の形を保っていた力が、すべての力が私に戻ってくる。

「イツカ、それがネモの新しい名前だ」
菊弘は答えた。そして形を失いつつある地面を、その<イツカ>が再び力を使い、我々の居る場所だけの形を新しく生成した。
「いつか?Someday?いつか誰でもないものから変化する?それとも<菊>に関する名前か?だとしたら、ネモにさえ<菊>を与えたのだとしたら…それはとても興味深いね」

何度もイツカの生成した地を崩そうと力を使ったが、度々修復されてしまった。
こんな時―。

「こんな時、夢魔や鬼や魔人が居たら楽に勝てたのにな?」

菊弘の声が耳元で聞こえた。
とっさに払いのける。彼女はすぐ近くまで間合いを詰めていた。
突きだされた刃を、掴んだ。切れることはない、人の形ではないのだから、痛くも痒くもないはずなのだ。
避ける必要も無い。しかし、私は彼女の攻撃を恐れて避けている。
いつの間にか、彼女の術中にはまっているのだ。

「今更あいつらを頼りたいとは思わないね」
「本当に?」

菊弘は、不自然に距離を取った。
背後には菊彦とイツカが居る。守っている?否、そんなことはしなくてもいいはずだ。じゃあなぜ、彼らの前に立ちはだかっている?
「<私>はなぜ、魔のものになった?あいつらのおかげだろう」

「…あいつらの、おかげ?」

馬鹿な。あいつらの影響で魔のものになった<私>は、それに感謝など一度もしなかった。憎んだ。しかし憎んでも仕方ないと諦めていた。だから、ふと思い立った<悪行>に、すべてを注ぎ込んだのだ。
人間が滅べば、あいつらも滅ぶ。
いや、待て。なぜ、私は今そのことを改めて思い出す?
<思い出す>?
じゃあ今まで私は、世界を滅ぼす理由をなんだと思っていた?

混乱に、私の動きは止まった。
とどめを指す絶好のチャンスだった。なのに菊弘は動かない。
じっと、見つめている。その両目で。
イツカも、やんわりと笑っている。菊彦は、変わらぬ表情だ。

「なぜお前は、世界を滅ぼそうなんて思ったんだ?」

<私>の声が、私に話し掛ける。
「なんとなく?ふと思い立った?出来るからやった?そんなわけあるか」

どろっと、血のように菊弘の手から薙刀が姿を変えた。
それは、菊弘の魔力を帯びて復活する。魔人、セル。
魔力の象徴である長髪は短く、その顔色は死人のようだ。まだ完全復活とは行かないのだろう。
「理由もなく<私>がそんな突飛なことを考えるわけがないのだ、ネモでもそんなことはしない。我々は理由と動機ときっかけがあって、人間らしく行動するように出来ている。それはどの<私>でもそうだ」

菊弘が、五芒星を切った。
赤く紋章が浮かび上がり、ゆっくりと地面に落ちる。べしゃっと液体が広がる音がして、やがてそれがむくむくと成長する。

白いドレスに身を包んだ美女が、金の髪をなびかせて菊弘の背後に翼を広げる。真名リリス。夢魔サキュバリエス。
「君は、既に失敗をしたのだ。二回も」

なぜだ。なぜ、私の世界線でお前たちが存在できる?
人間は、ひとりも存在しないというのに。

「<私>に名を聞かれて、新しく名乗っただろう?自分は<エラー>だと」

菊弘は、イツカに視線を送った。
嬉しそうに笑って飛び跳ねながら、イツカは大きく両手を広げて舞った。それは、鬼を呼び出す儀式の舞だ。
突如、イツカの頭上に日本刀が振り下ろされる。鬼神羅刹天だ。
それを念道力で止めて、ぐにゃりと曲げてしまう。イツカはそのままそれを異空間から引っ張り出して、見えない力で拘束しながら菊弘の左に移動させた。
頭蓋からまっすぐ生えた角の鬼は、恨みがましそうに菊弘を睨んでいる。

「エラーというのはなぜ存在する?いや違う、何のために存在する?何のためでもないさ。それはすべての現象に起こりうる一つの奇跡…起こり得ないもの、ほおっておいてはいけないものだ。エラーは、修正されるためにある」
「待て…待て!!なぜ、お前たちが存在できるのだ!<菊弘>は人間にカウントされないぞ、<ネモ>だってそうだ…名が変わろうとも、それは存在しなかった人間だ!<菊弘>は既に人間ではない、それなのにお前たちは……」

私は、自分で自分の疑問に真実を見出してしまった。
ゆっくりと、目線が中禅寺菊彦を捉える。

「そうだね、僕は人間だ。そして時間稼ぎは、上手く行ったらしい」

時間稼ぎ。それは<菊弘>が到着するまでの時間を稼ぐものじゃあなかった。
私は<菊弘>だ。真実に素早くたどり着くことが出来る。

エラーである私に、中禅寺菊彦がただの人間であることを意識させるための時間稼ぎ。
エラーを自ら名乗った私。名乗らせたのは誰だ?<誰でもない>それは<菊弘>だ。
七億と何人目かの<菊弘>。長い、長い作戦だったのだ。

絶対善の<菊弘>の、手のひらの上。
エラーが発生した際の、対処通りに事が進んでいた。

「ああ、なんということだろう…」
私は負けるというのに、嬉しくてたまらなかった。
そうだよな。そうなんだ。<私>はこうでなくちゃいけないんだった。
万能で、天才で、全てに打ち勝てる。くじけることはない。生き続ける限り、努力し誰かの力になる。奔走し、たった一人を守ろうとする愚かな<私>。
そうだ、こうでなくては。ああ、やっと、やっと終われるのだ。

私は、いやだった。魔のものになった私が。いやだったから滅ぼして一人きりになりたかった。きっと、私だって一人きりになれば、終われるのだからと。
憎かった。戯れに接触してきた人外のせいで、自ら魔の道に堕ちてしまったことが。憎かった。やっと死ねたのに。
自殺も出来ず、事故にあっても病気になっても、誰かが私を救おうとするのなら、それを甘んじて受けなくてはいけない。
老いて死ぬ、それが私の最後の希望だった。
もう愛しい人はどんどん先に行ってしまった。死後の世界があり得るのなら…否、死神が存在しているのだから魂の存在もあり得る。死ねば、魂になれば再び彼らに会えるのだ。

最大の喜びだ。

しかし、叶わなかった。

人外の戯れで、勝手に私に関わってきたあいつらのせいで。

「まるで友達のようじゃないか、お前たちは」

私は膝をついていた。
脱力していた。もう、何もしたくない。
「……友達?配下だ、配下」
菊弘はとても嫌そうに顔を歪めた。
「何を言うんだ!僕は友達だろ菊弘ー!」
「お前は運命共同体だよ、イツカ」
「わっ、なにそれ…嬉しいなぁ〜」

ネモさえ、家族か。それ以上か。この<菊弘>は、すべてを受け入れて、ずべて自分の力の源にしているのか。
魔人は、優しく微笑みながらその二人の様子を眺めている。
夢魔は少し退屈そうだが、菊弘に呼び出された喜びで、その顔は常に笑っていた。
鬼神こそ不機嫌で、とても嫌そうだ。しかし、私に向けられる視線は満足そうで。そう、彼女は私が死ぬのが渇望なのだから。
私…<菊弘>が死ぬ場面を目撃できて、彼女の苛立ちは、少しだけ落ち着く。なかなかに無い機会に呼び出されて、鬼神は大きく反抗することは無い。

「ずるいな。お前は<全てに恵まれた菊弘>なのか?」

私の意識は、薄れていく。消えるのだ。<エラー>は修正されるために存在するのだから。

「さあ、今更何と称したらいいか分からないね。私とお前の違いは<菊子>が存在するかしないか、それだけだ」
「…世界滅亡を、考えたと?絶対善のお前が?」
「そうだね。考えた、だが実行しなかった。だからネモも居るし、菊子も存在する」
「馬鹿な………菊子は、存在しない…ただの幽霊…」

そう、菊子は幽霊だ。
一番最初に<菊弘>の体の中に存在した、堂島と意思疎通をした人格は菊子だ。<菊弘>になった時に、女として生きようともがいた人格が菊子。だが、それの存在は希薄だ。消えてしまう。存在さえ曖昧だ。
菊子だと思って、<私>は生きていた。しかしよくよく考えれば、それはただの<菊弘>だったのだ。
堂島に呼ばれていただけ。堂島に、愛情を受け呼ばれていただけの名前なのだ。
最早人格として、我々の別の魂として認識されることのない<菊子>。だから世界線の中でも少ない。

「菊子が存在する…?そんなはずは」

菊弘は、崩壊していく私の視界の中で淡々と語り出す。

「サヴァン症候群の子供、実験に使われていた<私>は堂島との意思疎通をテレパシーで図った。逃して欲しいと、こんなことは許されないことだと。そして堂島は動いた。やがて彼の計画に巻き込まれる、軍に従事し戦争が終わる前に彼から離れることを決心した。それを決心したのは誰だ?<菊弘>か?」

真実。<私>たちは、真実に素早くたどり着くことが出来る。

「<私>を良い行いに動かすのは、いつも<菊子>なんだよ」

嗚呼!嗚呼そんな!!

視界が歪んだのは、私が消えていくからでは無い。
涙が止まらないからだ。
幽霊だと、存在さえ認めなかったそれが、まさか。

「<菊子>は人格でも魂でもない、<菊弘>の良心だ」




「この世界線は、無くなるのかね」
菊彦は、たったひとりの<菊弘>に問う。ネモ…イツカは既に菊弘の中に戻っている。他の人外も、それぞれの場所に戻った。
人間である菊彦だけが、単独で帰ることが出来ない。
「無くなりますね。世界線の主体である<私>が消えた、つまりこの世界が存在する意味も無くなるので」
菊弘は、ネクタイを締め直す。
「こういうことは何度もあるのか」
「いや、滅多にありません。それこそ本当の意味で<エラー>だったのですよ」
「なるほどね…いや、面白いものが見れた」
「楽しんでいただけて光栄です」
菊弘は笑う。自分の顔で中禅寺のような男が喋っている違和感は、いつまで経っても消えないが。
「だが、これを見た記憶は消えるのだろうな。そういうご都合主義で出来ている、そうだろう」
「お察しの通りです」
「…<エラー>は、不幸せな<菊弘>だったわけだね」

菊彦の言葉に、菊弘はふと手を止める。
セルの力を借りて、新しく扉を作っていたが、それは止まった。
「……それは、道を間違えてしまった<私>は皆不幸せであり、そうでない世界線の<私>は幸せであるということですか?」
「いや、そうとは限らない。幸せか不幸せか、判断するのは<君>自身だ。しかし僕から見てみれば、随分君は幸せそうで、<エラー>はそう思えなかった。それだけだ」

菊彦は、笑った。
「まあ、あなたにそう言われると嬉しいです」
複雑そうな顔で、菊弘は答える。
例え彼が、自分の知る彼でなくても。彼と話せることが嬉しい。
扉が完成して、菊彦を見送った。

すると背後に、自分の世界線の魔人セルが現れる。
今度は自分が、帰る番だ。

「わたしも彼と同意見だ」
「お前までそんなことを言うのか」

目を見開いて、菊弘は笑う。
「素直に、可哀想だと思った」
「ハッハッハッハッハッハ!!そうかそうか、まあ…可哀想だと思われることは嫌じゃない。同情されて憤慨する私も居るだろうが、私は他人にそうやって思いやってもらうことは、嬉しいよ」
「それに、この世界線の自分が可哀想でな」

魔人は、珍しく意気消沈していた。
その背を軽く叩いて、菊弘は言う。

「きっと、そうやってお前に同情してもらえた<お前>も、救われたさ」

菊弘と、セルは自分の世界線へと帰還した。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -