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 赤い水溜り


手が、冷たくなってきた。雨や血や雪にまみれた身体はとっくに体温を奪われている。かじかんだ掌をうまく動かすことは困難に等しい。まわりからは地面より先に傘に雫があたる音が響く。濡れた服は重くてたまらない。それよりも、すべてが億劫であるように感じる。すれ違う人々の顔が知っているもののような気がして首をかしげた。知っている気がする、ではない。知っている。隊士たちから、マシュー・シュナイデル、羅叉、琺瑠、みな知っているものたちだ。誰もが傘をさして、水たまりを避けて歩いていた。時折水たまりにひっかかりそうになる者が居る。それを見て、危ないなと眉をひそめた。折角傘をさしていたところで、下が濡れてはしょうがない。はねかえった雨に多少は濡れることは避けられないとしても、あれほど大きなものは避けられるはずだ。それでも濡れる危険性があるというのなら、と足をすすめた。ぱしゃん。先に、おれが水たまりの上にたっていれば、誰ももうそこを通らない。すでにずぶぬれなのに、今更何を恐れることがあろうか。泥と血のまみれたものをぬぐって、冷たい息をはいた。けれど、ずっとここにいるわけにはいかない。ここは危険だとまわりの人たちに叫んだ。彼らは一様におれと目を会わせなかったけれど、水たまりを出てからも避けるようにしていたから、分かってくれたのだろう。歩きだした。そうだ、歩いていたのだ。立ち止まっている暇はない。
寒さを感じたのはいつからだったろうか。太陽が見えなくなってから長い時間がたった。あの時はあたたかいと感じていたのに、あたたかいものはもう見えない。太陽がなくなり。皆が小さな傘をさしだした。ふとおれはその時、おれは傘を持っていないということに気がついた。寧ろ、その時には既におれの身体は血や泥にまみれていた。勿論、今ほどではなかったが。おれ自身でさえ気が付いていなかったのだから、誰も気づいていなかったことかもしれないが、おれはずっと喪失していたのだろうか。だが、ないものはないのだ。それに、ないから困るわけではない。太陽が沈んだのち、誰もが傘をさしているわけにはいかないのだ。誰かは傘にならなければならない。おれはまだまだ到底なれているとは思わないが、それでも歩みを止めるつもりはない。ふと、視線が僅かに絡み合って、目をそらされた。その瞳にうつる色。他人の感情に疎いおれは首をかしげて、また歩きだした。理解しようとは思わなかった。他人のことを理解しなくても、おれは歩むことができて、彼らを生かすことができて、彼らの傘になることができる。それだけでいい。時折ぬかるんだ道にであってはここは危険だと近くのひとに告げてみる。ぬかるんだ道を歩んでいけば、痛みが走って血がでていた。すぐに雨と泥にまみれて分からなくなるが、よく見ればこのからだは傷だらけなのだろう。
足をとられて、手をついた。痛い。ただひたすらに痛かった。冷え切った手は地面についた感触をうまく認識できない。雨が少し弱くなって、水たまりの色がおかしいことにきづく。真赤だ。滲んだ痛みに、歯をくいしばる。前を向くと、部下たちが傘を差したまま待ってくれていた。彼らが傘を捨てる瞬間を見て、おれは泣きたくなって目を細めた。捨てさせることしかできないおれで、すまない。せめてもしも、もう一度傘を拾えるものが、いますように。
義のために! 叫んだ彼らが、副長のために! と言い直してどっと笑った瞬間を覚えている。おれはその時たしかに、泣きたくなるほど幸せだった。かじかんだ掌に握っていたものを、つかみとったものを、おれは震える息であたためた。暖かかったとき、おれはこれを掴めていただろうか。痛みと冷たさと寒さにただうたれ続けるこの道だが、おれはあのときに、そのすべてを愛そうと思った。もう戻らない痛みの数々を、失ったあたたかさを、おれは忘れない。そして同じくらい、この冷たさも忘れない。何かが誰かの傘を奪うというのなら、おれはそれを憎むだろう。止めるだろう。義とは即ち、そういうことなのかもしれなかった。なんとなく、すれ違った彼らがおれから目をそらした理由について分かる気がして、ほほえんだ。


赤い水溜り
ひろがるそれを、愛しいとおもう。おもわなくなったらきっとおれは、終わりなのだとも。かじかんだ指が生きているあかしだ。だから、それすらも同じくして。



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