シナプスの願望
彼は絶望をよく知っている。知りつくしている、と言うには語弊が生じるかもしれない。絶望にはさまざまなものがあるから。ただし、ある種の絶望に関して彼は常に共にあったし、時にはただ絶望だけを友にしたことすらある。
絶望を深く理解する彼は、それ故に絶望することはない。ただ共に横たえられた絶望を抱き起こすことも触れることも出来る。その資格は誰にだってある。簡単なことだ。希望があるから絶望があるというイデオロギーを彼は別段意図しない。希望と言うものすら彼にとっては遠いものだ。むしろ絶望より遠いのかもしれない。絶望と希望を深く結び付けることはない。ただ薄い壁の背中越しに存在する構造主義的思考は一端からによるものだ。確かに彼は理詰めのきらいがあるが、同時に柔軟な思考もある。片方があるからもう片方があり、それが真理だと思うことを間違ってるとは怜悧な彼は言わない。そう言えば間違いの反対が生まれるからだ。だから、意味をすこしずらしてみる。そうすれば、彼にとって希望は遠い知人のようなもので、絶望は近しい友のようなものだ。
どれほどの喪失を、苦痛を、恥辱を与えられても、彼は絶望することはない。希望もない。あるのはただ彼のみだ。足掻き、もがき、抗う彼がそこにいる。例えどんなことがあろうと、どれ程の痛みを覚えようと。
そして、嘲られることに、笑われることに、失望されることに、謗られることに、憎まれることに、嫌われることに、恐れられることに、彼は慣れている。そうあろうともしたが、それだけではなく、彼は彼が周りに馴染めないことを知っている。己の惰弱さはあるいはそれらと馴染むことを忌憚する。笑いかけてやることも出来ぬ己の不器用さを彼はいいとも思っていない。常に他者の望まぬ言葉をはくようつとめてきた彼は、だから、本当は甘い言葉をかけることも出来る。なのに、妥協しない。それでも、自分以外の他者は絶望に触れたがることは妥協したくない。絶望と共にあるのは、たったひとりでいい。組織の中で、だれもが絶望を知っていてはならない。彼が胸を切り開き、絶望に視線を向けることは不必要ではないと彼は信じていたから。けれどそうしたとしても戻らぬ彼のすべてだった人を失った時、彼は絶望ばかりを意識していることは出来なかった。前を向き、歩き続けるということは、絶望から目をそらすことでもある。彼はその痛みを、昇華するでもなく発露も発散もせず絶望と同じように横たえることを選んだのだ。
その結果、彼は絶望することはなかったが、同じく痛みを抱えたままだ。これではいけないと彼自身分かっていたが、長く同じ時間を過ごした男と木刀でうちあいながら、こんな乱暴な方法もまたどうかと辟易する。そんな木刀すら砕け散って、それでもなまぬるいと。
男は、彼が今まで隠してきた痛みにずけずけと足を踏み込んで、踏み固められた絶望を削りとる。嗚呼、だから人は男を死神と呼ぶのか。
「初代を思い出す!」
一時とて忘れたことはない、総長として、養父として、彼を愛してくれた人。だから思い出すこともない。死神は違うのだろうか。脆い精神性を抱えてもいるが、開き直るとまったく曇りなくうつくしいと錯覚してしまう程だ。痛みが開いていく。傷は晒したほうがいい。空気に触れた傷は痛痒を感じぬわけにはいかないが、治りもはやい。これだけ隠したのだ。黴菌がはいることもないだろう、見過ごしてくれる。
身体が痛むはずなのに、重荷が剥がれていくような感覚に彼は恐怖した。それは、剥がれたほうがいいものだけど、剥がしたくないと彼が願っていたものだったから。ああ、しかし。もう、時間切れなのか。
絶望に溺れるようにはいり、目をかろうじて開けて、そうして掴むべきものも見がたくなった覚束ない視力で、それでも手放さないものを見極める時間がやってきた。それが男に芽生えていた途方もない想いだとしても。もう隠すことは出来ない。
彼は、男に触れてみたい、と思っていたのだから。男は彼が隠した痛みに手をさしこんで、痛みを省みない。あるいはその時初めて、彼は絶望と向き合ったのかもしれない。いくら彼が望もうがいやがろうが、全く気にかけない、死神というアイロニーは、彼を以てしても蹴り飛ばすことが出来ない。当然だ。男は生きているのだから。命なのだから。絶望は彼と在っても、命ではない。手綱を引くことも叶わぬ絶望に、彼は観念してまぶたを伏せた。
──絶望は近しい友である。希望は離れた知人である。そして痛みを死神に殺されて、彼は愛に触れざるを得ない。
ちぎれシナプスの願望
望みの中の絶望を、食い散らせ